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講孟余話 / 盡心下 第六章

朱註ニ云ク、聖人之心、不以貧賤而有慕於外、不以富貴而有動於中、隨遇而安、無預於己、所性分定故也、ト、余謂ラク貧賤ニテモ慕ハス、富貴ニテモ動カスト云ハ、枯禪ニ似タリ、余ハ則謂フ、舜ハ一種ノ至樂アリ、故ニ貧賤ニテモ慕フニ遑アラス、富貴ニテモ動クニ遑アラズト云ヘシ、所謂至樂ハ即チ孔顏ノ樂ニテ、飯糗茹草ノ樂ハ、又伊尹ノ我豈若處畎畝之中由是以樂堯舜之道哉ト同シ、爲天子ノ樂ハ、又吾豈若以吾身親見之哉ト同シ、伊尹ノ事万章上篇第七章ニ見ユ、

新字:朱註ニ云ク、聖人之心、不以貧賤而有慕於外、不以富貴而有動於中、随遇而安、無預於己、所性分定故也、ト、余謂ラク貧賤ニテモ慕ハス、富貴ニテモ動カスト云ハ、枯禅ニ似タリ、余ハ則謂フ、舜ハ一種ノ至楽アリ、故ニ貧賤ニテモ慕フニ遑アラス、富貴ニテモ動クニ遑アラズト云ヘシ、所謂至楽ハ即チ孔顔ノ楽ニテ、飯糗茹草ノ楽ハ、又伊尹ノ我豈若処畎畝之中由是以楽堯舜之道哉ト同シ、為天子ノ楽ハ、又吾豈若以吾身親見之哉ト同シ、伊尹ノ事万章上篇第七章ニ見ユ、

書き下し

朱註に云く、「聖人の心は、貧賤を以て外に慕ふこと有らず、富貴を以て中に動くこと有らず。遇ふに随ひて安んじ、己に預かること無し。性とする所分定まるが故なり」と。余謂へらく、貧賤にても慕はず、富貴にても動かずと云ふは、枯禅に似たり。余は則ち謂ふ、舜は一種の至楽あり、故に貧賤にても慕ふに遑あらず、富貴にても動くに遑あらずと云ふべし。所謂至楽は即ち孔顔の楽にて、糗を飯ひ草を茹ふの楽は、又伊尹の「我豈に畎畝の中に処りて、是れに由りて以て堯舜の道を楽しむに若かんや」と同じ。天子為るの楽は、又「吾豈に吾が身を以て親しく之れを見るに若かんや」と同じ。伊尹の事、萬章上篇第七章に見ゆ。

現代語訳

朱子の注にはこうある。「聖人の心は、貧しく賤しいからといって外のものを慕うことがなく、富み貴いからといって心の内が動くことがない。出会う境遇に従って安らぎ、自分にかかわりがない。生まれつきの本分が定まっているからである」と。私は思う。貧賤でも慕わず、富貴でも動かないというのは、枯れた禅のようである。私はむしろこう言う。舜には一種のこの上ない楽しみがあった。だから貧賤でも外を慕う暇がなく、富貴でも心が動く暇がなかったのだ、と。いわゆるこの上ない楽しみとは孔子や顔回の楽しみであって、干し飯を食べ野草をかじっていた時の楽しみは、伊尹の「私は田畑の中にいて、それで堯舜の道を楽しむのに及ぶものがあろうか」と同じであり、天子となってからの楽しみは、また「私自身の身で親しくそれを見るのに及ぶものがあろうか」と同じである。伊尹のことは萬章上篇第七章に見える。

解説

舜は貧しい頃は一生そのままでいるかのようであり、天子となってもはじめから持っていたかのようだった、と孟子は言います。朱子はこれを、境遇に心が動かない聖人の心と注しました。松陰はそれを「枯れた禅のようだ」と退け、舜には胸にこの上ない楽しみがあったから、貧富に心を動かされる暇がなかったのだと読み替えます。何も感じないから平静なのではなく、打ち込むものがあるから揺れない。静けさを無感動ではなく充実から説明する、松陰らしい読み方です。

この章句が説くこと

至楽舜朱子充実境遇

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