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講孟余話 / 盡心上 第十五章

此章切実易簡、妙ト云ヘシ、孩提ノ童ノ親ヲ愛スル心ハ即仁ニシテ、斯心ヲ以テ天下ノ親ヲ視レハ、天下ノ事各其親ヲ視ルコト、又童ノ親ヲ愛スル如クニシテ、天下ノ親其子ヲ視ルコト、亦孩提ノ童ヲ視ルカ如シ、是ニ於テ不孝ノ子ナシ、不茲ノ親ナシ、其兄弟ノ際モ亦然リ、古今此章ヲ読ム者何ソ限アラン、獨王陽明是ニ因テ大ニ発悟シ、遂ニ一家ノ学ヲ成、千古ノ人都テ及フコトナシ、是ヲ以テ知ル、書ハ精思熟考スルニ非スンハ、安ソ其原ニ逢ヒ其流ヲ達スルコトヲ得ンヤ、又按スルニ、無他、達之天下也ノ一結、多少ノ運用多少ノ工夫ヲ包ム、離婁上篇第十一章、人々親其親、長其長、而天下平ト、同一種ノ語ナリ、

新字:此章切実易簡、妙ト云ヘシ、孩提ノ童ノ親ヲ愛スル心ハ即仁ニシテ、斯心ヲ以テ天下ノ親ヲ視レハ、天下ノ事各其親ヲ視ルコト、又童ノ親ヲ愛スル如クニシテ、天下ノ親其子ヲ視ルコト、亦孩提ノ童ヲ視ルカ如シ、是ニ於テ不孝ノ子ナシ、不茲ノ親ナシ、其兄弟ノ際モ亦然リ、古今此章ヲ読ム者何ソ限アラン、独王陽明是ニ因テ大ニ発悟シ、遂ニ一家ノ学ヲ成、千古ノ人都テ及フコトナシ、是ヲ以テ知ル、書ハ精思熟考スルニ非スンハ、安ソ其原ニ逢ヒ其流ヲ達スルコトヲ得ンヤ、又按スルニ、無他、達之天下也ノ一結、多少ノ運用多少ノ工夫ヲ包ム、離婁上篇第十一章、人々親其親、長其長、而天下平ト、同一種ノ語ナリ、

書き下し

此の章切実易簡、妙と云ふべし。孩提の童の親を愛する心は即ち仁にして、斯の心を以て天下の親を視れば、天下の事各々其の親を視ること、又童の親を愛する如くにして、天下の親其の子を視ること、亦孩提の童を視るが如し。是に於て不孝の子なし、不慈の親なし。其の兄弟の際も亦然り。古今此の章を読む者何ぞ限りあらん。独り王陽明是に因りて大いに発悟し、遂に一家の学を成す、千古の人都て及ぶことなし。是れを以て知る、書は精思熟考するに非ずんば、安んぞ其の原に逢ひ其の流れに達することを得んや。又按ずるに、「他なし、之を天下に達するなり」の一結、多少の運用、多少の工夫を包む。離婁上篇第十一章、「人々其の親を親とし、其の長を長とすれば、天下平らかなり」と同一種の語なり。

現代語訳

この章は切実で分かりやすく、見事というべきである。幼子が親を愛する心はそのまま仁であり、この心で天下の親を見るなら、天下の子がそれぞれ自分の親を見るのも、幼子が親を愛するようになり、天下の親が子を見るのも、幼子を見るようになる。そうなれば不孝の子も、慈しまない親もいなくなる。兄弟の間も同じである。昔から今までこの章を読んだ者は数限りない。ところがただ王陽明だけが、これによって大いに悟り、ついに一家の学を打ち立てた。古今の人の誰も及ばないところである。このことから分かる。書物は深く考え練り上げなければ、どうしてその源に行き当たり、その流れの行き着く先まで通じることができようか。また考えるに、「ほかでもない、これを天下に押し広めるだけだ」という結びの一句は、どれほどの応用と工夫を含んでいることか。離婁上篇第十一章の「人々がそれぞれ自分の親を親しみ、目上を目上として敬えば、天下は平らかになる」と同じ種類の言葉である。

解説

孟子はこの章で、学ばずにできる良能、考えずに分かる良知を説き、幼子が親を愛し兄を敬うのがその現れだとしました。王陽明はこの良知の説から自分の学問を打ち立てています。松陰が感心しているのは、誰もが読んできた短い章から、陽明ひとりが一家の学を引き出したことです。同じ本を読んでも、深く考え抜くかどうかで得るものはまるで違う。読書量より、一つの言葉を源まで掘り下げる読み方こそが学問を生むという、松陰自身の読書観がよく表れています。

この章句が説くこと

良知良能王陽明読書熟考

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