講孟余話 / 盡心上 第十章
待文王而後興者、凢民也、若夫豪傑之士、雖無文王、猶興、凢民ト豪傑ノ分ヲ明ニ知ルヘシ、豪傑トハ万事自ラ草創シテ敢テ人ノ轍跡ヲ踐ヌコト也、滕文公上篇第四章ニ、陳良ヲ称シテ云ク、彼所謂豪傑之士也ト、盖シ陳良ハ楚ノ產ナリ、楚ハ南方ニ在リ蛮夷ニ交ル、而シテ陳良獨リ能ク習俗ノ表ニ拔テ、北方中国ニ遊学シ、剩サヘ中国ノ学者モ是ニ先スルコト能ハサルヲ以テ也、西漢人ノ詞ニ、山東ノ豪傑並ヒ興テ秦ヲ亡スト云コトアリ、是モ天下滔々秦ノ威風ヲ畏ルヽ中ニ、陳涉項籍ヲ初メ劉季抔ノ如キ者、決然自ラ断シテ大事ヲ起スコトヲ爲ス、是豈豪傑ト云ハサルヘケンヤ、勿体ナクモ皇朝ニテ、神后ノ三韓ヲ征シ、時宗ノ蒙古ヲ殲シ、秀吉ノ朝鮮ヲ伐ツ如キ豪傑ト云ヘシ、西洋ニテモ墨瓦蘭ガ西洋ヨリ東洋ニ航シ、閣龍カ亞墨利加ヲ撿出シ、那樸列翁ガ歐羅巴ヲ混一スル如キ豪傑ト云ヘシ、近世、徂徠翁仁斎ヲ称シテ豪傑ト云、是ハ滿世宋学世界ヨリ宋学ヲ看破シ、古学ヲ唱フルヲ以テ也、然トモ宋学ヲ疑ヒ書ヲ著シ是ヲ弁シ、終ニ流謫ニ遇フノ山鹿素行先生ノ如キハ、又仁斎徂徠ノ先ニアレハ、尤モ豪傑ト云ヘシ、
新字:待文王而後興者、凢民也、若夫豪傑之士、雖無文王、猶興、凢民ト豪傑ノ分ヲ明ニ知ルヘシ、豪傑トハ万事自ラ草創シテ敢テ人ノ轍跡ヲ践ヌコト也、滕文公上篇第四章ニ、陳良ヲ称シテ云ク、彼所謂豪傑之士也ト、盖シ陳良ハ楚ノ産ナリ、楚ハ南方ニ在リ蛮夷ニ交ル、而シテ陳良独リ能ク習俗ノ表ニ抜テ、北方中国ニ遊学シ、剰サヘ中国ノ学者モ是ニ先スルコト能ハサルヲ以テ也、西漢人ノ詞ニ、山東ノ豪傑並ヒ興テ秦ヲ亡スト云コトアリ、是モ天下滔々秦ノ威風ヲ畏ルヽ中ニ、陳渉項籍ヲ初メ劉季抔ノ如キ者、決然自ラ断シテ大事ヲ起スコトヲ為ス、是豈豪傑ト云ハサルヘケンヤ、勿体ナクモ皇朝ニテ、神后ノ三韓ヲ征シ、時宗ノ蒙古ヲ殲シ、秀吉ノ朝鮮ヲ伐ツ如キ豪傑ト云ヘシ、西洋ニテモ墨瓦蘭ガ西洋ヨリ東洋ニ航シ、閣竜カ亜墨利加ヲ撿出シ、那樸列翁ガ欧羅巴ヲ混一スル如キ豪傑ト云ヘシ、近世、徂徠翁仁斎ヲ称シテ豪傑ト云、是ハ満世宋学世界ヨリ宋学ヲ看破シ、古学ヲ唱フルヲ以テ也、然トモ宋学ヲ疑ヒ書ヲ著シ是ヲ弁シ、終ニ流謫ニ遇フノ山鹿素行先生ノ如キハ、又仁斎徂徠ノ先ニアレハ、尤モ豪傑ト云ヘシ、
書き下し
「文王を待ちて而る後に興る者は、凡民なり。夫の豪傑の士の若きは、文王無しと雖も猶興る」。凡民と豪傑の分を明らかに知るべし。豪傑とは万事自ら草創して敢へて人の轍跡を践まぬことなり。滕文公上篇第四章に、陳良を称して云く、「彼は所謂豪傑の士なり」と。蓋し陳良は楚の産なり。楚は南方に在りて蛮夷に交はる。而して陳良独り能く習俗の表に抜けて、北方中国に遊学し、剰さへ中国の学者も是れに先んずること能はざるを以てなり。西漢人の詞に、「山東の豪傑並び興りて秦を亡ぼす」と云ふことあり。是れも天下滔々秦の威風を畏るる中に、陳渉・項籍を初め劉季などの如き者、決然自ら断じて大事を起すことを為す、是れ豈に豪傑と云はざるべけんや。勿体なくも皇朝にて、神后の三韓を征し、時宗の蒙古を殲し、秀吉の朝鮮を伐つ如き豪傑と云ふべし。西洋にても墨瓦蘭が西洋より東洋に航し、閣竜が亜墨利加を検出し、那波列翁が欧羅巴を混一する如き豪傑と云ふべし。近世、徂徠翁仁斎を称して豪傑と云ふ。是れは満世宋学の世界より宋学を看破し、古学を唱ふるを以てなり。然れども宋学を疑ひ書を著して是れを弁じ、終に流謫に遇ふの山鹿素行先生の如きは、又仁斎・徂徠の先にあれば、尤も豪傑と云ふべし。
現代語訳
「文王のような聖王が現れるのを待ってから奮い立つ者は凡人である。豪傑の士のような者は、文王がいなくてもなお奮い立つ」。凡人と豪傑の区別をはっきり知るべきである。豪傑とは、万事自分から始めて、あえて人の通った跡を踏まないことである。滕文公上篇第四章に、陳良をほめて「彼はいわゆる豪傑の士だ」とある。思うに陳良は楚の生まれである。楚は南方にあって異民族と交わっていた。その中で陳良ひとりが土地の習俗を抜け出して、北方の中国に遊学し、そのうえ中国の学者も彼に先んじることができなかったからである。前漢の人の言葉に「山東の豪傑が並び立って秦を滅ぼした」とある。これも天下がこぞって秦の威勢を恐れる中で、陳勝・項羽をはじめ劉邦のような者が、決然と自ら決断して大事を起こした。どうして豪傑と言わずにいられようか。恐れ多くも我が国では、神功皇后が三韓を征し、北条時宗が蒙古を撃ち滅ぼし、豊臣秀吉が朝鮮を攻めたようなことは豪傑というべきである。西洋でも、マゼランが西洋から東洋へ航海し、コロンブスがアメリカを見つけ出し、ナポレオンがヨーロッパを一つにまとめたようなことは豪傑というべきである。近世では、荻生徂徠が伊藤仁斎を豪傑とたたえた。これは世の中すべてが宋学の世界であった中で宋学を見破り、古学を唱えたからである。しかし宋学を疑って書物を著してそれを論じ、ついに流罪にあった山鹿素行先生のような人は、仁斎・徂徠よりも先にいたのだから、最も豪傑というべきである。
解説
この章句が説くこと
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孟子・盡心章句上孟子曰く、「文王を待ちて而る後に興る者は、凡民なり。夫の豪傑の士の若きは、文王無しと雖も猶ほ興る。」
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