講孟余話 / 告子下 第十四章
凢ソ言行ハレス、礼貌ナケレバ、仕官祿位ヲ辞スルハ固ナレトモ、周救ヲ受ルコトハ害アルコトナキハ、亦又往役、義也、往見、不義也、萬章第七章ニ見ユト同義ナリ、礼貌ノ爲ニ仕ルハ正義ニ非ルニ似タレトモ、亦已ムヲ得サル者アリ、司馬溫公神宗ノ朝ニ在テ、王安石ト合サルヲ以テ、屢々辞退アレトモ、遂ニ免サレズ、因テ政權ヲ離レ、十九年間優待渥遇ヲ受ケテ、資治通鑑三百五十四卷ヲ成シテ上ル如キ、天下後世誰カ是ヲ不可ト云ハン、故ニ溫公孟子ヲ非スト云トモ、其身ノ居ル所豈孟子ノ云フ所ナラスヤ、且孟子ノ所謂言行ルヽト云ハ、舜ノ堯ニ於ル、禹皐陶ノ舜ニ於ル、伊尹ノ殷ニ於ル、周公ノ周ニ於ル、管晏ノ桓景ニ於ル如キヲ云、斯ノ如キハ実ニ千載一遇ト云ヘシ、其次ハ礼貌アル如キハ、德ヲ慕ヒ其能ヲ重ンスレトモ、断然トシテ是ヲ大用スルコト能ハサルノミ、声音笑貌ヲ以テ正士ヲ外敬スルノ謂ニ非ス、若シ声音笑貌ノ礼貌ナラハ、郷黨ノ自ラ善スル者モ將ニ嘔噎シテ去ントス、安ンソ大聖賢ヲ畄ルニ足ランヤ、凢ソ書ヲ読ムニハ立言ノ本旨ヲ味フヲ主トス、此章ノ如キ亦滕文公下篇首四章、及ヒ第七章、万章下篇第三章ヨリ第七章迄ト合セ考フヘシ、盖シ孟子當時有爲ノ才ヲ抱キ、難進ノ節ヲ守ラルヽ故、門人輩其一度用ラレテ功業アランコトヲ願ヒ、色々ト問難スル也、故ニ其荅仕ルヲ欲セサルニ非ズ、已ムヲ得サルノ由アルコトヲ云、其婉切ノ意、諸章ヲ合シテ熟味セハ自ラ知ラン
新字:凢ソ言行ハレス、礼貌ナケレバ、仕官禄位ヲ辞スルハ固ナレトモ、周救ヲ受ルコトハ害アルコトナキハ、亦又往役、義也、往見、不義也、万章第七章ニ見ユト同義ナリ、礼貌ノ為ニ仕ルハ正義ニ非ルニ似タレトモ、亦已ムヲ得サル者アリ、司馬温公神宗ノ朝ニ在テ、王安石ト合サルヲ以テ、屡々辞退アレトモ、遂ニ免サレズ、因テ政権ヲ離レ、十九年間優待渥遇ヲ受ケテ、資治通鑑三百五十四巻ヲ成シテ上ル如キ、天下後世誰カ是ヲ不可ト云ハン、故ニ温公孟子ヲ非スト云トモ、其身ノ居ル所豈孟子ノ云フ所ナラスヤ、且孟子ノ所謂言行ルヽト云ハ、舜ノ堯ニ於ル、禹皐陶ノ舜ニ於ル、伊尹ノ殷ニ於ル、周公ノ周ニ於ル、管晏ノ桓景ニ於ル如キヲ云、斯ノ如キハ実ニ千載一遇ト云ヘシ、其次ハ礼貌アル如キハ、徳ヲ慕ヒ其能ヲ重ンスレトモ、断然トシテ是ヲ大用スルコト能ハサルノミ、声音笑貌ヲ以テ正士ヲ外敬スルノ謂ニ非ス、若シ声音笑貌ノ礼貌ナラハ、郷党ノ自ラ善スル者モ将ニ嘔噎シテ去ントス、安ンソ大聖賢ヲ畄ルニ足ランヤ、凢ソ書ヲ読ムニハ立言ノ本旨ヲ味フヲ主トス、此章ノ如キ亦滕文公下篇首四章、及ヒ第七章、万章下篇第三章ヨリ第七章迄ト合セ考フヘシ、盖シ孟子当時有為ノ才ヲ抱キ、難進ノ節ヲ守ラルヽ故、門人輩其一度用ラレテ功業アランコトヲ願ヒ、色々ト問難スル也、故ニ其荅仕ルヲ欲セサルニ非ズ、已ムヲ得サルノ由アルコトヲ云、其婉切ノ意、諸章ヲ合シテ熟味セハ自ラ知ラン
書き下し
凡そ言行はれず、礼貌なければ、仕官禄位を辞するは固よりなれども、周救を受くることは害あることなきは、亦又「往きて役するは義なり、往きて見ゆるは不義なり」萬章第七章に見ゆと同義なり。礼貌の為めに仕ふるは正義に非ざるに似たれども、亦已むを得ざる者あり。司馬温公神宗の朝に在りて、王安石と合はざるを以て、屡々辞退あれども、遂に免されず。因りて政権を離れ、十九年間優待渥遇を受けて、資治通鑑三百五十四巻を成して上る如き、天下後世誰か是れを不可と云はん。故に温公孟子を非ずと云へども、其の身の居る所豈に孟子の云ふ所ならずや。且つ孟子の所謂言行はると云ふは、舜の堯に於ける、禹・皐陶の舜に於ける、伊尹の殷に於ける、周公の周に於ける、管晏の桓景に於ける如きを云ふ。斯くの如きは実に千載一遇と云ふべし。其の次は礼貌ある如きは、徳を慕ひ其の能を重んずれども、断然として是れを大用すること能はざるのみ。声音笑貌を以て正士を外敬するの謂に非ず。若し声音笑貌の礼貌ならば、郷党の自ら善しとする者も将に嘔噎して去らんとす、安んぞ大聖賢を留むるに足らんや。凡そ書を読むには立言の本旨を味ふを主とす。此の章の如き亦滕文公下篇首四章、及び第七章、萬章下篇第三章より第七章までと合はせ考ふべし。蓋し孟子当時有為の才を抱き、難進の節を守らるる故、門人輩其の一度用ひられて功業あらんことを願ひ、色々と問難するなり。故に其の答、仕ふるを欲せざるに非ず、已むを得ざるの由あることを云ふ。其の婉切の意、諸章を合して熟味せば自ら知らん。
現代語訳
およそ言葉が行われず、礼遇もなければ、官職や俸禄を辞退するのは当然だが、援助を受けることには差し支えがない。これは「行って労役に就くのは義であり、行って会見するのは不義だ」(萬章下篇第七章)というのと同じ意味である。礼遇のために仕えるのは正しい道ではないように見えるが、これにもやむを得ない場合がある。司馬光は神宗の朝廷で王安石と意見が合わず、たびたび辞退を願ったが、ついに許されなかった。そこで政権を離れ、十九年間手厚い待遇を受けて、『資治通鑑』三百五十四巻を完成させて献上した。天下後世の誰がこれをいけないと言おうか。だから司馬光は孟子を非難したが、その身の処し方はまさに孟子の言うところではないか。それに孟子の言う「言葉が行われる」とは、舜が堯に、禹や皐陶が舜に、伊尹が殷に、周公が周に、管仲・晏子が斉の桓公・景公に用いられたようなことをいう。こういうのは実に千年に一度の巡り合わせというべきである。その次の「礼遇がある」とは、徳を慕いその能力を重んじはするが、思い切って大いに用いることができないだけのことで、声や笑顔で正しい士を表面だけ敬うことを言うのではない。もし声や笑顔だけの礼遇なら、郷里で善人ぶっている程度の者さえ吐き気をもよおして去るだろう。どうして大聖賢を引き留められようか。およそ書物を読むには、言葉を立てた本来の趣旨を味わうことを第一とする。この章も、滕文公下篇の初めの四章と第七章、萬章下篇の第三章から第七章までと合わせて考えるべきである。思うに孟子は当時、大事をなす才を抱きながら、軽々しく進まない節操を守られたので、門人たちは一度用いられて功業を立ててほしいと願い、いろいろと問いただしたのである。だからその答えは、仕えたくないのではなく、やむを得ない理由があることを言っている。その婉曲で切実な心は、諸章を合わせてよく味わえばおのずと分かるだろう。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『講孟余話』告子下 第十四章司馬温公云く、「君子の仕ふるや、其の道を行ふなり、礼貌と飲食との為めに非ざるなり。孟子の言に曰く、『未だ其の言を行はずと雖も、之れを迎ふるに礼有れば則ち就き、礼貌衰ふれば則ち去る』と。是れ礼貌の為めに仕ふるなり。又曰く、『朝に食はず、夕に食はず、君曰く、吾其の言に従ひ其の道を行ふこと能はず、我が土地に飢餓せしむるは、吾之れを恥づと。之れを周はば亦受くべし』と。是れ飲食の為めに仕ふるなり。必ず是くの如くんば、是れ先王の道を鬻ぎて以て其の身を售るを免れざるなり。古の君子の仕ふるや、殆ど此くの如くならず」と。然れども「朝に食はず夕に食はず」云々は、末に「死を免るるのみ」とあれば、仕ふるに非ず。伯夷・叔斉は周の粟を食はずして西山の薇を采り、陶淵明は劉宋の年号を用ひずして東籬の菊を愛す。況や国君周救賑恤の意あれば、暴君と云ふにもあらず。且つ人の用捨遇否は又一概に論じ難きことあり。漢文の君にして賈誼用ひられず、明祖の君にして方孝孺遣はし帰さるる様の事もあり。漢文・明祖の二才子を用ひざるは別に深慮あることなれども、姑く用捨遇否の概論すべからざるを証するなり。其の他袁盎・晁錯相仇し、姚崇・張説相容れざる如き、豈に一二ならんや。故に道行はれずとて、飢餓して死するには及ばぬなり。大丈夫の一死豈に犬豕と同じうすべけんや。「死を免るるのみ」、何ぞ不可ならん。
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『宋名臣言行録』後集巻七・司馬康君講官と爲り、嘗て上疏して歴ミ前世の治少なくして亂多きこと、祖宗創業の艱難、積累の勤勞を陳べ、以て上に時に及びて學に向かい、天下の大器を守らんことを勸む。又た太后に毎に禁中に於いて訓導せんことを勸む。其の言切至。又た言う、孟子は書と爲ること最も醇正。王道を陳ぶること尤も宜しく觀覽すべき所なりと。上曰く、方に孟子を讀むと。尋いで講筵の官に詔して孟子節解を編修し十四巻と爲して以て進ましむ。
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