講孟余話 / 告子下 第十四章
司馬溫公云ク、君子之仕也、行其道也、非爲礼貌與飮食也、孟子之言曰、雖未行其言也、迎之有礼則就之、礼貌衰則去之、是爲礼貌仕也、又曰、朝不食、夕不食、君曰、吾不能從其言、行其道、使飢餓於我土地、吾耻之、周之、亦可受也、是爲飮食而仕也、必如是、是不免於鬻先王之道以售其身也、古之君子之仕也、殆不如此、」然トモ朝不食夕不食云々ハ、末ニ免死而已トアレハ、仕ルニ非ズ、伯夷叔斉ハ周ノ粟ヲ食ズシテ西山ノ薇ヲ采リ、陶淵明ハ劉宋ノ年号ヲ用ヒスシテ東籬ノ菊ヲ愛ス、况ヤ國君周救賑恤ノ意アレハ、暴君ト云ニモアラズ、且人ノ用捨遇否ハ又一概ニ論シ難キコトアリ、漢文ノ君ニシテ賈誼用ラレズ、明祖ノ君ニシテ方孝孺遣帰セラルヽ様ノ事モアリ、漢文明祖ノ二才子ヲ用ヒサルハ別ニ深慮アルコトナレトモ、姑ク用捨遇否ノ概論スヘカラサルヲ証スルナリ、其他袁盎晁錯相仇シ、姚崇張說相容レサル如キ、豈一二ナランヤ、故ニ道行ハレズトテ、飢餓シテ死スルニハ及ハヌナリ、大丈夫ノ一死豈犬豕ト同フスヘケンヤ、免死而已、何ソ不可ナラン、
新字:司馬温公云ク、君子之仕也、行其道也、非為礼貌与飲食也、孟子之言曰、雖未行其言也、迎之有礼則就之、礼貌衰則去之、是為礼貌仕也、又曰、朝不食、夕不食、君曰、吾不能従其言、行其道、使飢餓於我土地、吾耻之、周之、亦可受也、是為飲食而仕也、必如是、是不免於鬻先王之道以售其身也、古之君子之仕也、殆不如此、」然トモ朝不食夕不食云々ハ、末ニ免死而已トアレハ、仕ルニ非ズ、伯夷叔斉ハ周ノ粟ヲ食ズシテ西山ノ薇ヲ采リ、陶淵明ハ劉宋ノ年号ヲ用ヒスシテ東籬ノ菊ヲ愛ス、況ヤ国君周救賑恤ノ意アレハ、暴君ト云ニモアラズ、且人ノ用捨遇否ハ又一概ニ論シ難キコトアリ、漢文ノ君ニシテ賈誼用ラレズ、明祖ノ君ニシテ方孝孺遣帰セラルヽ様ノ事モアリ、漢文明祖ノ二才子ヲ用ヒサルハ別ニ深慮アルコトナレトモ、姑ク用捨遇否ノ概論スヘカラサルヲ証スルナリ、其他袁盎晁錯相仇シ、姚崇張説相容レサル如キ、豈一二ナランヤ、故ニ道行ハレズトテ、飢餓シテ死スルニハ及ハヌナリ、大丈夫ノ一死豈犬豕ト同フスヘケンヤ、免死而已、何ソ不可ナラン、
書き下し
司馬温公云く、「君子の仕ふるや、其の道を行ふなり、礼貌と飲食との為めに非ざるなり。孟子の言に曰く、『未だ其の言を行はずと雖も、之れを迎ふるに礼有れば則ち就き、礼貌衰ふれば則ち去る』と。是れ礼貌の為めに仕ふるなり。又曰く、『朝に食はず、夕に食はず、君曰く、吾其の言に従ひ其の道を行ふこと能はず、我が土地に飢餓せしむるは、吾之れを恥づと。之れを周はば亦受くべし』と。是れ飲食の為めに仕ふるなり。必ず是くの如くんば、是れ先王の道を鬻ぎて以て其の身を售るを免れざるなり。古の君子の仕ふるや、殆ど此くの如くならず」と。然れども「朝に食はず夕に食はず」云々は、末に「死を免るるのみ」とあれば、仕ふるに非ず。伯夷・叔斉は周の粟を食はずして西山の薇を采り、陶淵明は劉宋の年号を用ひずして東籬の菊を愛す。況や国君周救賑恤の意あれば、暴君と云ふにもあらず。且つ人の用捨遇否は又一概に論じ難きことあり。漢文の君にして賈誼用ひられず、明祖の君にして方孝孺遣はし帰さるる様の事もあり。漢文・明祖の二才子を用ひざるは別に深慮あることなれども、姑く用捨遇否の概論すべからざるを証するなり。其の他袁盎・晁錯相仇し、姚崇・張説相容れざる如き、豈に一二ならんや。故に道行はれずとて、飢餓して死するには及ばぬなり。大丈夫の一死豈に犬豕と同じうすべけんや。「死を免るるのみ」、何ぞ不可ならん。
現代語訳
司馬光(温公)はこう言う。「君子が仕えるのは、その道を行うためであって、礼遇や飲食のためではない。孟子は『まだその言葉を行わなくても、礼をもって迎えるなら仕え、礼遇が衰えれば去る』と言う。これは礼遇のために仕えることだ。また『朝も夕も食べられず、君主が〈私はその言葉に従いその道を行うことはできないが、我が国で飢え死にさせるのは恥だ〉と言って援助するなら、受けてもよい』と言う。これは飲食のために仕えることだ。もし必ずそうするなら、先王の道を売って自分の身を売り込むことを免れない。昔の君子の仕え方は、ほとんどこのようではなかった」と。しかし「朝も夕も食べられず」云々は、最後に「死を免れるだけだ」とあるのだから、仕えるのではない。伯夷・叔斉は周の穀物を食べずに西山の薇を摘み、陶淵明は劉宋の年号を用いずに東の垣根の菊を愛した。まして君主に救い恵む心があるのなら、暴君というわけでもない。それに、人が用いられるか捨てられるか、時に遇うか遇わないかは、また一律に論じにくいところがある。漢の文帝のような君主のもとでも賈誼は用いられず、明の太祖のような君主のもとでも方孝孺は郷里に帰されたというようなこともある。文帝と太祖がこの二人の才子を用いなかったのには別に深い考えがあったのだが、ここではしばらく、用いられるかどうかは一概に論じられないことの証としておく。そのほか、袁盎と晁錯が互いに仇とし、姚崇と張説が互いに相容れなかったような例は、一つや二つではない。だから、道が行われないからといって、飢え死にするには及ばないのである。男子の一死を、どうして犬や豚の死と同じにしてよかろうか。「死を免れるだけ」というのに、何の不都合があろう。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『講孟余話』告子下 第十四章凡そ言行はれず、礼貌なければ、仕官禄位を辞するは固よりなれども、周救を受くることは害あることなきは、亦又「往きて役するは義なり、往きて見ゆるは不義なり」萬章第七章に見ゆと同義なり。礼貌の為めに仕ふるは正義に非ざるに似たれども、亦已むを得ざる者あり。司馬温公神宗の朝に在りて、王安石と合はざるを以て、屡々辞退あれども、遂に免されず。因りて政権を離れ、十九年間優待渥遇を受けて、資治通鑑三百五十四巻を成して上る如き、天下後世誰か是れを不可と云はん。故に温公孟子を非ずと云へども、其の身の居る所豈に孟子の云ふ所ならずや。且つ孟子の所謂言行はると云ふは、舜の堯に於ける、禹・皐陶の舜に於ける、伊尹の殷に於ける、周公の周に於ける、管晏の桓景に於ける如きを云ふ。斯くの如きは実に千載一遇と云ふべし。其の次は礼貌ある如きは、徳を慕ひ其の能を重んずれども、断然として是れを大用すること能はざるのみ。声音笑貌を以て正士を外敬するの謂に非ず。若し声音笑貌の礼貌ならば、郷党の自ら善しとする者も将に嘔噎して去らんとす、安んぞ大聖賢を留むるに足らんや。凡そ書を読むには立言の本旨を味ふを主とす。此の章の如き亦滕文公下篇首四章、及び第七章、萬章下篇第三章より第七章までと合はせ考ふべし。蓋し孟子当時有為の才を抱き、難進の節を守らるる故、門人輩其の一度用ひられて功業あらんことを願ひ、色々と問難するなり。故に其の答、仕ふるを欲せざるに非ず、已むを得ざるの由あることを云ふ。其の婉切の意、諸章を合して熟味せば自ら知らん。
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孟子・告子章句下陳子曰く、「古の君子は何如なれば則ち仕うる。」孟子曰く、「就く所は三、去る所は三。之を迎うるに敬を致して、以て禮有り、言、將に其の言を行わんとすれば、則ち之に就く。禮貌未だ衰えざるも、言行われざれば、則ち之を去る。其の次は、未だ其の言を行わずと雖も、之を迎うるに敬を致して、以て禮有れば、則ち之に就く。禮貌衰うれば、則ち之を去る。其の下は、朝に食わず、夕に食わず、飢餓して門戶を出づること能わず。君之を聞きて曰く、『吾大にしては其の道を行うこと能わず、又其の言に從うこと能わざるなり。我が土地に飢餓せしむるは、吾之を恥づ。』之を周(すくう)わば、亦た受く可きなり。死を免るるのみ。」
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『講孟余話』公孫丑下 第十四章孟子初めて王に見えてより、已に去る志あり、故に禄を受けず。是れを以て古人苟も禄を受けざることを知るべし。韓信言へることあり、「人の車に乗る者は人の患を載せ、人の衣を衣る者は人の憂を懐き、人の食を食む者は人の事に死す」と。故に仕へて禄を受くれば、此の身を挙げて君に献ず、君の為に用に供することなかるべけんや。是れ古人禄を受くるの苟もせざる所以なり。今世清平の深沢と、祖先の余恩とに因り、許多の俸禄を賜ひ、其の初めを知らず、其の受くるの苟もすべからざるを知る者少なし。此等の章に於て、宜しく感悟する所あるべし。右下篇凡そ十四章、朱子曰く、「第二章より以下、孟子の出処行実を記すこと詳かなりと為す」。今案ずるに、第二章孟子自ら処する所と時君に望む所見るべし。第三章自ら処するなり。四章時君に望むなり。五章・六章・七章並びに自ら居るなり。八章・九章の間、梁恵王下篇の十章・十一章を加へ、共に四章叙事相承け、燕を伐つの始末甚だ備はる、亦時君に望むなり。以下五章又叙事相承け、斉を去るの始末甚だ備はる、亦自ら処するなり。就中第十三章、尽心下篇の末章と大意同じうして文少しく省くのみ。是れ孟子深慨の在る所にして、此の篇記す所の出処行実を結ぶなり。
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孟子・滕文公章句下周霄問ひて曰く、「古の君子は仕へしか。」孟子曰く、「仕へたり。伝に曰く、『孔子は三月君無ければ、則ち皇皇如たり。疆を出づるに必ず質(し)を載す。』と。公明儀曰く、『古の人は三月君無ければ則ち弔す。』と。」「三月君無ければ則ち弔すとは、以(はなは)だ急ならずや。」曰く、「士の位を失ふや、猶ほ諸侯の国家を失ふがごときなり。礼に曰く、『諸侯は耕助して、以て粢盛(しせい)を供す。夫人は蚕繅(さんそう)して、以て衣服を為る。犠牲成らず、粢盛潔からず、衣服備はらざれば、敢へて以て祭らず。惟だ士も田無ければ、則ち亦た祭らず。』と。牲殺・器皿・衣服備はらず、敢へて以て祭らざれば、則ち敢へて以て宴せず、亦た弔するに足らざらんや。」「疆を出づるに必ず質を載すとは、何ぞや。」曰く、「士の仕ふるや、猶ほ農夫の耕すがごときなり。農夫豈に疆を出づるが為に其の耒耜(らいし)を舎てんや。」曰く、「晋国も亦た仕国なり。未だ嘗て仕ふること此くの如く其れ急なるを聞かず。仕ふること此くの如く其れ急なるに、君子の仕ふるを難しとするは、何ぞや。」曰く、「丈夫生まれては之が為に室有らんことを願ひ、女子生まれては之が為に家有らんことを願ふ。父母の心は、人皆之有り。父母の命、媒妁の言を待たずして、穴隙を鑽りて相窺ひ、墻を逾えて相従へば、則ち父母・国人皆之を賤しむ。古の人は未だ嘗て仕ふるを欲せずんばあらざるなり、又其の道に由らざるを悪む。其の道に由らずして往く者は、
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『講孟余話』孟子序說然れども此の論は是れ国体上より出で来る所なり。漢土に在りては君道自ら別なり。大抵聡明睿智、億兆の上に傑出する者其の君長となるを道とす。故に堯舜は其の位を他人に譲り、湯武は其の主を放伐すれども、聖人に害なしとす。我が邦は上天朝より下列藩に至る迄、千万世々襲して絶えざること、中々漢土などの比すべきに非ず。故に漢土の臣は縦へば半季渡りの奴婢の如し。其の主の善悪を択んで転移すること固より其の所なり。我が邦の臣は譜第の臣なれば、主人と死生休戚を同じうし、死に至ると雖も主を棄てて去るべきの道絶えてなし。嗚呼、我が父母は何国の人ぞ、我が衣食は何国の物ぞ、書を読み道を知る、亦誰が恩ぞ。今少しく主に遇はざるを以て、忽然として是れを去る、人心に於て如何ぞや。我孔孟を起して、与に此の義を論ぜんと欲す。聞く、近世海外の諸蛮、各々其の賢智を推挙し、其の政治を革新し、駸々然として上国を凌侮するの勢あり。我何を以てか是れを制せん。他なし、前に論ずる所の我が国体の外国と異なる所以の大義を明らかにし、闔国の人は闔国の為めに死し、闔藩の人は闔藩の為めに死し、臣は君の為めに死し、子は父の為めに死するの志確乎たらば、何ぞ諸蛮を畏れんや。願はくは諸君と茲に従事せん。
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『講孟余話』滕文公下 第四章「志を食ましむるに非ず、功を食ましむるなり」。此の章の論此の二句にあり、而して食功の二字に帰す。其の論明白、復た弁を待たず。唯だ君の臣を養ひ、民の上に奉ずる、既に皆功に食ましむる為めなれば、是れに酬ゆる者将た如何すべき。日々三度の箸を把る毎に、此の食の徒食すべからざるを思ひ、又衣服に付きても居処に付きても器用に付きても、皆此の物徒らに着るべからず、徒らに居るべからず、徒らに用ふべからざるを思はば、豈放辟邪侈の念を生ぜんや。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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