講孟余話 / 告子下 第十章
抑本朝及ヒ漢制、能ク三十而稅一シテ足リテ、唐虞三代乃チ十一ナラサレハ足ラズ、方今邦國ノ稅ニ至テハ四公六民ト云ヘハ、十一ヨリ更ニ重シ、是其故何ソヤ、盖シ封建ノ制、百官有司衆多ニシテ穀祿モ重ク、且世襲ス、會同朝覲儀衛盛ニ、礼文繁シ、是唐虞三代ノ稅重キ所以也、特ニ當今ノ如キハ、無用ノ武士無用ノ僧徒無用ノ工商甚タ夥シキ上ニ、奢侈淫逸ノ風甚シク、加之江戶ノ參勤年々大役ヲ興ス、是稅ノ更ニ重キ所以ナリ、郡縣ノ制ハ、郡守縣令國司郡司皆當座物ニテ世襲スルニ非ス、故ニ臣隷モ少ク百事簡易ナリ、是本朝及ヒ漢代ノ稅輕キ所以ナリ、然トモ封建郡縣ハ立国ノ大体ナレハ、各得失アリト云トモ、勢変更セラルヽ者ニ非ス、唯封建ノ制ニテモ簡易ノ政ヲ行ハヽ、稅ヲ輕クスルノ実アルヘシ、郡縣ノ制ニテモ繁冗ノ政ヲ行ハヽ、稅ノ重キヲ免カレズ、且余疑フ、三代稅ノ大畧、滕文公上篇第三章ニ其実皆什一也トアレトモ、堯舜ノ稅法他篇ニ於テ稽ル所ナシ、禹貢ニ田賦九等ノ事見ユ、禹貢ハ卽チ唐虞ノ時ノ定メナレトモ、九等ノ目ノミ見ヘテ、十一カ二十一カ遂ニ未ダ知ルヘカラズ、十一而稅、堯舜之道也ト云ト雖トモ、唐虞簡易古朴ノ政ニシテ、乃チ漢代ノ稅ヨリ重シトハ思ハレズ、但シ名ハ十一ト云トモ二十一ト云トモ三十一ト云トモ正稅ノ外徭役貢篚ノ得失モアルヘケレハ、一概ニ論シ難キコトアリ、唯著実ニ當今ノ事ニ目ヲ注ケ心ヲ潜メ、勇断ヲ以テ橫費ヲ省キ、一分ナリトモ稅ヲ輕クシ、大桀小桀ノ誚ヲ免レ、膏沢ヲ蒼赤ニ被ラシメハ、実論ト云ヘシ、
新字:抑本朝及ヒ漢制、能ク三十而税一シテ足リテ、唐虞三代乃チ十一ナラサレハ足ラズ、方今邦国ノ税ニ至テハ四公六民ト云ヘハ、十一ヨリ更ニ重シ、是其故何ソヤ、盖シ封建ノ制、百官有司衆多ニシテ穀禄モ重ク、且世襲ス、会同朝覲儀衛盛ニ、礼文繁シ、是唐虞三代ノ税重キ所以也、特ニ当今ノ如キハ、無用ノ武士無用ノ僧徒無用ノ工商甚タ夥シキ上ニ、奢侈淫逸ノ風甚シク、加之江戸ノ参勤年々大役ヲ興ス、是税ノ更ニ重キ所以ナリ、郡県ノ制ハ、郡守県令国司郡司皆当座物ニテ世襲スルニ非ス、故ニ臣隷モ少ク百事簡易ナリ、是本朝及ヒ漢代ノ税軽キ所以ナリ、然トモ封建郡県ハ立国ノ大体ナレハ、各得失アリト云トモ、勢変更セラルヽ者ニ非ス、唯封建ノ制ニテモ簡易ノ政ヲ行ハヽ、税ヲ軽クスルノ実アルヘシ、郡県ノ制ニテモ繁冗ノ政ヲ行ハヽ、税ノ重キヲ免カレズ、且余疑フ、三代税ノ大略、滕文公上篇第三章ニ其実皆什一也トアレトモ、堯舜ノ税法他篇ニ於テ稽ル所ナシ、禹貢ニ田賦九等ノ事見ユ、禹貢ハ即チ唐虞ノ時ノ定メナレトモ、九等ノ目ノミ見ヘテ、十一カ二十一カ遂ニ未ダ知ルヘカラズ、十一而税、堯舜之道也ト云ト雖トモ、唐虞簡易古朴ノ政ニシテ、乃チ漢代ノ税ヨリ重シトハ思ハレズ、但シ名ハ十一ト云トモ二十一ト云トモ三十一ト云トモ正税ノ外徭役貢篚ノ得失モアルヘケレハ、一概ニ論シ難キコトアリ、唯著実ニ当今ノ事ニ目ヲ注ケ心ヲ潜メ、勇断ヲ以テ横費ヲ省キ、一分ナリトモ税ヲ軽クシ、大桀小桀ノ誚ヲ免レ、膏沢ヲ蒼赤ニ被ラシメハ、実論ト云ヘシ、
書き下し
抑も本朝及び漢の制、能く三十にして一を税して足りて、唐虞三代は乃ち十一ならざれば足らず。方今邦国の税に至りては四公六民と云へば、十一より更に重し。是れ其の故何ぞや。蓋し封建の制は、百官有司衆多にして穀禄も重く、且つ世襲す。会同朝覲、儀衛盛んに、礼文繁し。是れ唐虞三代の税重き所以なり。特に当今の如きは、無用の武士・無用の僧徒・無用の工商甚だ夥しき上に、奢侈淫逸の風甚しく、加之江戸の参勤年々大役を興す。是れ税の更に重き所以なり。郡県の制は、郡守・県令・国司・郡司皆当座物にて世襲するに非ず、故に臣隷も少く百事簡易なり。是れ本朝及び漢代の税軽き所以なり。然れども封建・郡県は立国の大体なれば、各得失ありと云へども、勢変更せらるる者に非ず。唯封建の制にても簡易の政を行はば、税を軽くするの実あるべし。郡県の制にても繁冗の政を行はば、税の重きを免かれず。且つ余疑ふ、三代の税の大略、滕文公上篇第三章に「其の実は皆什一なり」とあれども、堯舜の税法は他篇に於て稽ふる所なし。禹貢に田賦九等の事見ゆ。禹貢は即ち唐虞の時の定めなれども、九等の目のみ見えて、十一か二十一か遂に未だ知るべからず。「十一にして税するは堯舜の道なり」と云ふと雖も、唐虞簡易古朴の政にして、乃ち漢代の税より重しとは思はれず。但し名は十一と云ふとも二十一と云ふとも三十一と云ふとも、正税の外徭役・貢篚の得失もあるべければ、一概に論じ難きことあり。唯著実に当今の事に目を注け心を潜め、勇断を以て横費を省き、一分なりとも税を軽くし、大桀小桀の誚りを免れ、膏沢を蒼赤に被らしめば、実論と云ふべし。
現代語訳
そもそも我が国と漢の制度は三十分の一の税で足り、堯・舜や夏・殷・周の三代は十分の一でなければ足りなかった。今の諸藩の税に至っては四公六民(収穫の四割を年貢とする)というから、十分の一よりさらに重い。これはなぜか。思うに封建の制度では、役人が多く俸禄も重く、しかも世襲である。諸侯の会合や朝見、儀仗も盛んで、礼の作法も煩雑だ。これが三代の税が重かった理由である。特に今は、役に立たない武士・僧侶・職人や商人がおびただしいうえに、ぜいたくな風がはなはだしく、加えて江戸への参勤が毎年大きな負担を生む。これが税がさらに重い理由である。郡県の制度では、郡守・県令・国司・郡司はみな一代限りの任官で世襲ではないから、家来も少なく万事が簡素である。これが我が国の古代と漢代の税が軽かった理由である。しかし封建と郡県は国の立て方の大本だから、それぞれ得失はあっても、たやすく変えられるものではない。ただ封建の制度でも簡素な政治を行えば税を軽くする実があがるし、郡県の制度でも煩雑な政治をすれば税が重くなるのは免れない。それに私は疑っている。三代の税のあらましは、滕文公上篇第三章に「実はみな十分の一である」とあるが、堯・舜の税法は他の篇に考える手がかりがない。『書経』禹貢に田の租税を九等に分けたことが見え、禹貢は堯・舜の時代の定めであるが、九等の名目が見えるだけで、十分の一か二十分の一かはついに分からない。「十分の一の税が堯舜の道だ」と言っても、堯・舜の簡素で素朴な政治が漢代の税より重かったとは思えない。ただ名目は十分の一でも二十分の一でも三十分の一でも、正規の税のほかに労役や貢ぎ物の多少もあるから、一律には論じにくい。ただ着実に今の事に目を向け心を沈め、思い切って無駄な出費を省き、一分でも税を軽くして、暴政だというそしりを免れ、恵みを民に行き渡らせるなら、それこそ実のある議論といえる。
解説
この章句が説くこと
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『講孟余話』盡心下 第二十七章余別に臆度あり。凡そ民の征は粟米を出す、其の常なり。然れども地に因りては布縷をも出さすべし、吾が藩の山代・徳地諸宰判の紙の如き。又力役を用ゆる時は、布縷穀米の常征を免ずることもあるべし。是れ力征を以て征とするなり。凡そ征に此の三等あり、各々其の便に従ひて一等を出さしむるのみ。其の二を用ふれば民に餓殍あり、其の三を用ふれば父子離散すとなり。豈に一民より三征を三時に取るに似んや。力征の事、漢の董仲舒云く、「古者民を役すること歳に三日に過ぎず」と。然れども土功・軍旅・非常の興作あらん時は、恐らくは三日にては済まじきなり。故に三日は当り前の力征にて、三日を過ぐる時は日数を算へ、五日なれば常征の何分を減じ、十日なれば何分を減ずると定め、迭ひに減ずるの法あるべし。是れ即ち力役の制なり。然れども是れ皆制度上の事、古を執りて今を論じ難ければ皆空論なり。唯「其の一を用ひて其の二を緩くす」の一句を味ふべし。仁斎の説には「用ふとは之れを己に用ふるを謂ひ、緩くすとは其の余を存して盈つるを取らざるの謂なり」とあり、朱註の民に取るの意とする者と同じからず。余未だ其の当否を決すること能はざれども、民政の要務は節倹と(仁斎の用の説是れに当る)儲蓄と(仁斎の緩の説是れに当る)にあることなれば、仁斎の説、文も理も共に真切なるを覚ゆるなり。
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『講孟余話』盡心下 第二十七章「布縷の征、粟米の征、力役の征有り。君子は其の一を用ひて、其の二を緩くす。其の二を用ふれば民に殍有り、其の三を用ふれば父子離る」。余従来未だ周礼を読まず、故に此の章に於て考証を得ず。又漢書食貨志に於ても考ふる所なし。然れども註に拠れば一民より三征を三時に取るに似たり。余窃かに之れを疑ふ。公孫丑上篇第五章に云く、「廛に夫里の布無ければ、則ち天下の民皆悦びて之れが氓と為らんことを願ふ」。註に云く、「周礼に宅の不毛なる者には里布有り、民の職事無き者には夫家の征を出さしむ。鄭氏謂ふ、宅に桑麻を種ゑざる者は之れを罰し、一里二十五家の布を出さしむ。民の常業無き者は之れを罰し、一夫百畝の税、一家力役の征を出さしむと。今戦国の時、一切之れを取り、市宅の民、已に其の廛に賦し、又此の夫里の布を出さしむるは、先王の法に非ざるなり」と。按ずるに所謂里布は即ち布縷の征、夫征は即ち粟米の征、家征は即ち力役の征に似たり。而して朱注、前には「先王の法に非ざるなり」と云ひ、斯には「当に各々其の時を以てすべし」と云ふは、前後矛盾せり。然れども周礼鄭説最も疑ふべし。職事なきの民をして夫家の征を出さしむと云ふこと、遊民を苦しむる為めとは云へども、断々乎として行はれざることなり。里布と云ふも詳らかならず。或は二十五家用ゆる所の鈔を作る布と云ふと雖も、吾敢へて信ぜず。故に直ちに其の布縷の征たるを疑ふなり。
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『秘本玉くしげ』上 年貢の由来近来百姓は殊に困窮の甚しき者のみ多し。これに二つの故あり。一には、地頭へ上る年貢甚多きが故也。二つには、世上一同の奢につれて、百姓もおのづから身分のおごりもつきたる故也。まづ一つに、地頭へ上る年貢のはなはだ多きと申す子細は、まづ唐土の上古には、十か一といふを中分の宜しきほどとしたるなれども、後には段段多くなりたり。然れ共、此方の今のごとくに多くはあらず。さて本朝は、大宝のころ令の御定めを考ふるに、廿分の一ほどにあたりて、たとへば米廿俵とる所にて、年貢はわづかに一俵ほどにて済たる也。但しこれにはいささか不審なることありて、別に僕が考へもあれど、たとひその考への如くにしても、十分の一には過ざること也。其外に調庸など云物ありしか共、それ何もほどの事にもあらず。大寳のころかくのごとくなれば、それより以前上古はなほなほすくなかりけん事、思ひやるべし。
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『講孟余話』告子下 第十章白圭曰く、「吾二十にして一を取らんと欲す」。此の章の義、又滕文公下篇第八章割記する所と参観すべし。孟子の時に方りて、十一の税にてさへ足らざる列国の習なるに、況して「二十にして一を取らんと欲す」とは、其の誇誕実効なきこと云はずして知るべし。故に孟子、城郭・宮室・宗廟・祭祀・幣帛・饔飧・百官有司、中国人倫の道を行ふに於て、十一の税なくては不足なることを云ふなり。若し十一は中正の制にして、是れより重きは大桀小桀、是れより軽きは大貉小貉と、古今を一概に通論せば、大いに非なり。果して然らば、漢の制は三十にして一を税し、本朝の古制は三十にして一を税するよりも又軽し、是れ皆貉の道と云ふべきか。故に什一より重くするの大桀小桀は、是れが民たる者実に憐むべしと云ふとも、什一より軽くするの大貉小貉は、甚だ願はしき事どもなり。然れども中国人倫の道を去りて是れを為すに至りては、又不可なり。
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『塩鉄論』未通篇文學曰く、什一にして籍するは、民の力なり。豐耗美惡、民と之を共にす。民勤むれば、己獨り衍かならず、民衍かなれば、己獨り勤めず。故に曰く、『什一は、天下の中正なり』と。田は三十なりと雖も、而も頃畝を以て稅を出す、樂歲に粒米狼戾たるに之を寡く取り、凶年饑饉なるに必ず足るを求む。之に加うるに口賦更繇の役を以てす、率ね一人の作、中ばにして其の功を分かつ。農夫は其の得る所を悉くし、或いは假貸して之を益す。是を以て百姓は疾く耕し力めて作すに、饑寒遂に己に及ぶなり。城を築く者は、先ず其の基を厚くして後に其の高きを求む、民を畜う者は、先ず其の業を厚くして後に其の贍るを求む。論語に曰く、『百姓足らば、君孰と與にか足らざらんや』と。
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