講孟余話 / 告子下 第七章
天子適諸侯、曰巡狩、已ニ時アリ勢アリテ、皇道再興ラハ、巡狩ノ事第一ニ議セサルヘカラス、巡狩ノ事書ノ舜典周官ニ依ルニ、皆天子四岳東岳ハ泰山、南岳ハ衡山、西岳ハ華山、北岳ハ恒山迄行幸シ、其地方ノ諸侯ヲ來朝セシムルコトト見ユ、然レハ天下中ノ山陬海濱悉ク巡行スルニ非ス、因テ皇国ニテモ此意ニ做ヒ、東海東山二道ハ伊勢国ニ、北陸山陰二道ハ若狭国ニ、山陽南海西海三道ハ攝津国ニ行宮ヲ営シ、其道ノ諸侯ヲ茲ニ會セハ、甚其宜キヲ得ン、明ノ宣宗云ク、舜時五載一巡狩、成周十二年一巡、周官云、六年、五服一朝、又六年、王乃時巡、時不同也、况以後世侍衛之衆、征求之廣、欲行時巡之礼、難矣、余謂ラク宣宗ハ明ノ賢主ニシテ、議論実ヲ貴テ名ヲ好マズ、秦皇漢武以來歴代ノ帝王、多ク封禪ニ惑ヒ、神仙ニ耽リ、誇大ヲ喜ヒ下民ノ困苦ヲ顧ミサルカ如キニ懲リ、深ク巡狩ヲ難ンスルナリ、故ニ宣宗ノ巡狩セサルハ、秦漢ノ封禪ニ比セハ、其勝ルコト萬々ナリ、然トモ痛ク侍衛ヲ省キ、大ニ征求ヲ寬シテ、虞周ノ古ニ復シ、儉朴ヲ天下ニ示ス、豈其術ナカランヤ、而シテ宣宗茲ニ及フコト能ハス、是余深ク惜ム所ナリ、嗟々皇道ニ志アル者、巡狩ノ義ニ於テ豈講求セサルヘケンヤ、
新字:天子適諸侯、曰巡狩、已ニ時アリ勢アリテ、皇道再興ラハ、巡狩ノ事第一ニ議セサルヘカラス、巡狩ノ事書ノ舜典周官ニ依ルニ、皆天子四岳東岳ハ泰山、南岳ハ衡山、西岳ハ華山、北岳ハ恒山迄行幸シ、其地方ノ諸侯ヲ来朝セシムルコトト見ユ、然レハ天下中ノ山陬海浜悉ク巡行スルニ非ス、因テ皇国ニテモ此意ニ做ヒ、東海東山二道ハ伊勢国ニ、北陸山陰二道ハ若狭国ニ、山陽南海西海三道ハ摂津国ニ行宮ヲ営シ、其道ノ諸侯ヲ茲ニ会セハ、甚其宜キヲ得ン、明ノ宣宗云ク、舜時五載一巡狩、成周十二年一巡、周官云、六年、五服一朝、又六年、王乃時巡、時不同也、況以後世侍衛之衆、征求之広、欲行時巡之礼、難矣、余謂ラク宣宗ハ明ノ賢主ニシテ、議論実ヲ貴テ名ヲ好マズ、秦皇漢武以来歴代ノ帝王、多ク封禅ニ惑ヒ、神仙ニ耽リ、誇大ヲ喜ヒ下民ノ困苦ヲ顧ミサルカ如キニ懲リ、深ク巡狩ヲ難ンスルナリ、故ニ宣宗ノ巡狩セサルハ、秦漢ノ封禅ニ比セハ、其勝ルコト万々ナリ、然トモ痛ク侍衛ヲ省キ、大ニ征求ヲ寛シテ、虞周ノ古ニ復シ、倹朴ヲ天下ニ示ス、豈其術ナカランヤ、而シテ宣宗茲ニ及フコト能ハス、是余深ク惜ム所ナリ、嗟々皇道ニ志アル者、巡狩ノ義ニ於テ豈講求セサルヘケンヤ、
書き下し
天子諸侯に適くを巡狩と曰ふ。已に時あり勢ありて、皇道再び興らば、巡狩の事第一に議せざるべからず。巡狩の事書の舜典・周官に依るに、皆天子四岳東岳は泰山、南岳は衡山、西岳は華山、北岳は恒山まで行幸し、其の地方の諸侯を来朝せしむることと見ゆ。然れば天下中の山陬海浜悉く巡行するに非ず。因りて皇国にても此の意に倣ひ、東海・東山二道は伊勢国に、北陸・山陰二道は若狭国に、山陽・南海・西海三道は摂津国に行宮を営し、其の道の諸侯を茲に会せば、甚だ其の宜しきを得ん。明の宣宗云く、「舜の時は五載に一たび巡狩し、成周は十二年に一たび巡る。周官に云ふ、六年、五服一たび朝し、又六年、王乃ち時に巡ると。時同じからざるなり。況んや後世侍衛の衆、征求の広きを以て、時巡の礼を行はんと欲するは、難し」と。余謂へらく宣宗は明の賢主にして、議論実を貴びて名を好まず。秦皇漢武以来歴代の帝王、多く封禅に惑ひ、神仙に耽り、誇大を喜び下民の困苦を顧みざるが如きに懲り、深く巡狩を難んずるなり。故に宣宗の巡狩せざるは、秦漢の封禅に比せば、其の勝ること万々なり。然れども痛く侍衛を省き、大いに征求を寛くして、虞周の古に復し、倹朴を天下に示す、豈に其の術なからんや。而して宣宗茲に及ぶこと能はず。是れ余深く惜しむ所なり。嗟々皇道に志ある者、巡狩の義に於て豈に講求せざるべけんや。
現代語訳
「天子が諸侯の国へ行くことを巡狩という」。時が来て勢いが整い、天皇の道が再び興るなら、巡狩のことを第一に議論しなければならない。巡狩のことは、『書経』の舜典・周官によれば、どれも天子が四岳(東岳は泰山、南岳は衡山、西岳は華山、北岳は恒山)まで行幸し、その地方の諸侯を来朝させることと見える。そうであれば、天下じゅうの山奥や海辺を残らず巡るのではない。だからわが国でもこの意にならい、東海道・東山道の二道は伊勢国に、北陸道・山陰道の二道は若狭国に、山陽道・南海道・西海道の三道は摂津国に行宮を設け、その道の諸侯をそこに集めれば、大いにその宜しきを得るだろう。明の宣宗はこう言った。「舜の時代は五年に一度巡狩し、周は十二年に一度巡った。『周官』には、六年に五服の諸侯が一度朝見し、また六年に王が時に応じて巡る、とある。時代によって同じではない。まして後世は護衛の者が多く、徴発が広いのだから、時に応じた巡狩の礼を行うのは難しい」と。私は思う。宣宗は明の賢い君主で、議論は実を貴んで名を好まなかった。秦の始皇帝・漢の武帝以来の歴代の帝王が、多く封禅に惑い、神仙に耽り、大げさなことを喜んで民の苦しみを顧みなかったことに懲りて、深く巡狩を難しいとしたのである。だから宣宗が巡狩しなかったのは、秦漢の封禅に比べれば、はるかに勝っている。しかし護衛を大幅に省き、徴発を大いに緩めて、舜や周の昔に戻り、質素倹約を天下に示す、その方法がどうしてないことがあろうか。それなのに宣宗はそこまで及べなかった。これが私の深く惜しむところである。ああ、天皇の道に志ある者は、巡狩の意義についてどうして研究しないでいられようか。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『墨子』尚賢下若の國の士に問う、孰か喜び孰か懼れんと。我れ以て必ず忠信の士は喜び、忠ならず信ならざる士は懼れんと為す。今、唯だ尚賢を以て其の國家百姓に政を為す毋くんば、國の善を為す者をして勸ましめ、暴を為す者をして沮ましむ。夫れ以て天下に政を為さば、天下の善を為す者をして勸ましめ、暴を為す者をして沮ましむ。然らば昔、吾が堯舜禹湯文武の道を貴ぶ所以の者は、何の故を以てなるか。其の唯だ衆に臨み政を發して民を治むるに毋くんば、天下の善を為す者をして得て勸む可からしめ、暴を為す者をして得て沮む可からしむるを以てなり。然らば則ち此の尚賢なる者は、堯舜禹湯文武の道と同じきなり。
-
『墨子』尚同中子墨子曰く、方今の時の正長は、則ち本より古者と異なれり。之を譬うるに量るに五刑を以てするが若く然り。昔者、聖王は制して五刑を為り、以て天下を治む。有苗の五刑を制するに逮び至りては、以て天下を亂る。則ち此れ豈に刑の不善ならんや。刑を用うること則ち不善なるなり。是を以て先王の書、呂刑の道いて曰く、「苗民、練を用いず、折くに則ち刑し、唯だ五殺の刑を作り、法と曰う」と。則ち此れ善く刑を用うる者は以て民を治め、善く刑を用いざる者は以て五殺と為すを言う。則ち此れ豈に刑の不善ならんや。刑を用うること則ち不善なり、故に遂に以て五殺と為す。是を以て先王の書、術令の道いて曰く、「惟れ口は好を出だし戎を興す」と。則ち此れ善く口を用うる者は好を出だし、善く口を用いざる者は以て讒賊冦戎と為すを言う。則ち此れ豈に口の不善ならんや。口を用うること則ち不善なり、故に遂に以て䜛賊冦戎と為す。
-
老子 第18章大道廃れて、仁義有り。智慧出でて、大偽有り。六親和せずして、孝慈有り。国家昏乱して、忠臣有り。
-
孫子・形篇善く兵を用うる者は、道を修めて法を保つ。故に能く勝敗の政を為す。
-
孫子・始計篇法とは、曲制・官道・主用なり。
-
『墨子』公孟公孟子、子墨子に謂いて曰く、「知に人より賢れる有らば、則ち知と謂う可きか」と。子墨子曰く、「愚の知に以て人より賢れる有るも、愚、豈に知と謂う可けんや」と。公孟子曰く、「三年の喪は、吾が父母を慕うを學ぶなり」と。子墨子曰く、「夫れ嬰兒子の知は、獨り父母を慕うのみ。父母、得可からざれば、然れども號びて止まず。此れ其の故は何ぞや。即ち愚の至りなり。然らば則ち儒者の知、豈に以て嬰兒子より賢れること有らんや」と。子墨子曰く、「儒者に問う、『何の故に樂を為すや』と」。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る