呻吟語 / 内篇・問學・不自滿假の四字
堯、舜、禹、湯、文、武全從「不自滿假」四字做出,至於孔子,平生謙退沖虛,引過自責,只看著世間有無窮之道理,自家有未盡之分量。聖人之心蓋如此。孟子自任太勇,自視太高,而孜孜向學,〔舀欠〕〔舀欠〕自歉之意,似不見有宋儒口中談論都是道理,身所持循亦不著世俗,豈不聖賢路上人哉?但人非堯、舜,誰無氣質?稍偏,造詣未至,識見未融,體驗未到,物欲未忘底過失,只是自家平生之所不足者,再不肯口中說出,以自勉自責,亦不肯向別人招認,以求相勸相規。所以自孟子以來,學問都似登壇說法,直下承當,終日說短道長,談天論性,看著自家便是聖人,更無分毫可增益處。只這見識,便與聖人作用已自不同,如何到得聖人地位?
新字:堯、舜、禹、湯、文、武全従「不自満仮」四字做出,至於孔子,平生謙退沖虚,引過自責,只看著世間有無窮之道理,自家有未尽之分量。聖人之心蓋如此。孟子自任太勇,自視太高,而孜孜向学,〔舀欠〕〔舀欠〕自歉之意,似不見有宋儒口中談論都是道理,身所持循亦不著世俗,豈不聖賢路上人哉?但人非堯、舜,誰無気質?稍偏,造詣未至,識見未融,体験未到,物欲未忘底過失,只是自家平生之所不足者,再不肯口中説出,以自勉自責,亦不肯向別人招認,以求相勧相規。所以自孟子以来,学問都似登壇説法,直下承当,終日説短道長,談天論性,看著自家便是聖人,更無分毫可增益処。只這見識,便与聖人作用已自不同,如何到得聖人地位?
書き下し
堯・舜・禹・湯・文・武は全て「不自滿假」の四字より做し出だす。孔子に至りては、平生謙退沖虛、過ちを引きて自ら責む。只だ世間に無窮の道理有り、自家に未だ盡くさざるの分量有るを看著するのみ。聖人の心は蓋し此の如し。但だ人は堯・舜に非ず、誰か氣質無からん。稍しく偏り、造詣未だ至らず、識見未だ融せず、體驗未だ到らず、物欲未だ忘れざる底の過失は、只だ是れ自家平生の足らざる所の者なり。再び肯へて口中より說き出だして、以て自ら勉め自ら責めず、亦た肯へて別人に向かひて招認して、以て相勸め相規するを求めず。
現代語訳
堯舜禹湯文王武王は、みな自ら満ち足りたとせず高ぶらないという四字から出てきました。孔子に至っては、生涯へりくだり退き心を空しくし、過ちを自分に引き受けて責めました。ただ世の中に窮まりない道理があり、自分には尽くしきれない分量があると見ていただけです。聖人の心はこうでした。しかし人は堯舜ではなく、誰に気質が無いでしょうか。少し偏り、到達がまだで、見識が溶け合わず、体験が届かず、物欲を忘れきれない。そういう過ちは、自分が生涯足りないところです。それを口に出して自ら励まし自ら責めようともせず、人に打ち明けて忠告し合うことも求めないのです。
解説
この章句が説くこと
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『呻吟語』外篇・聖賢・才かに足れりと覺ゆれば便ち堯舜ならず堯・舜の心上に多少の缺然として滿足せざる處有らんや。道は原と體し盡くさず、心は原と趁ひ滿たず。勢分は強ふ可からず、力量は勉む可からず。聖人怎ぞ放ち得下さん。是を以て聖人は身は勢分・力量の中に囿はれ、心は勢分・力量の外に長ず。才かに足れりと覺ゆれば、便ち堯・舜ならず。
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『呻吟語』外篇・聖賢・獨精を以て未至を補ふ聖人は嘗て自ら人に如かずと視る。故に天下に聖の如き者有る無し。聖人の過虛に非ざるなり。四海の廣、兆民の眾、其の一才一智は未だ必ずしも皆な聖人の下に出でざるなり。聖人の能はざる所無きを以てするも、豈に一毫の未だ至らざる無からんや。眾人の能ふ所無きを以てするも、豈に一見の獨り精なる無からんや。獨精を以て未至を補ふは、固より聖人の樂しみて取る所なり。此れ聖人の心日に歉然として自ら滿足せず、日に汲汲然として善を取るに已まざる所以なり。
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『呻吟語』外篇・聖賢・畢竟各人に各人の氣質有り堯・舜・禹・文・周・孔は、振古の聖人にして一毫の偏倚無し。然れども五行の鍾まる所、各おの厚き所有り。畢竟各人に各人の氣質有り。堯は敦大の氣多く、舜は精明の氣多く、禹は收斂の氣多く、文王は柔嘉の氣多く、周公は文為の氣多く、孔子は莊嚴の氣多し。經史を熟讀すれば自ら見る。若し天縱の聖人は、太和の元氣流行して略ぼ一些も沾著せずと說かば、則ち六聖人は須らく一個の氣象毫髮も同じからざる無くして方に是なるべし。
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『呻吟語』内篇・問學・世間に一件の人に驕る可き事無し世間に一件の人に驕る可き事無し。才藝は人に驕るに足らず。德行は是れ我が性分の事なり。堯・舜・周・孔に到らざれば、便ち是れ欠缺なり。欠缺なれば便ち自ら恥づ可し。如何ぞ人に驕り得ん。
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『呻吟語』内篇・談道・聖人の妙處は只だ是れ個の庸常堯・舜・周・孔の道は、只だ是れ人情に傍ひ、物理に依り、個の天然自有の中を拈出して行き將り、人を驚かさず、人を苦しめず。所以に及び難し。後來の人は他に勝ち得ずして、卻つて甚だ高くして行ひ難きの事、玄冥隱僻の言、怪異新奇・偏曲幻妄を尋ね出だして以て勝を求む。知らず、聖人の妙處は只だ是れ個の庸常なることを。『六經』『四書』の語言を看るに何等ぞ平易なる、其の聖人の筆為るを害せず。亦た未だ嘗て不明不備の道有らず。嗟夫、賢智なる者は之に過ぐ。佛・老・楊・墨・莊・列・申・韓是れのみ。彼の意見は、才かに是れ聖人の中の萬分の一なり。而るに漫衍閎肆にして以て偏重に至りて道を賊ふ。後學識無く、遂に菽粟を棄てて玉屑を餐し、布帛を厭ひて火浣を慕ふに至る。饑寒に補無く、反つて奇病を生ず。悲しいかな。
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『呻吟語』内篇・應務・可に當たりて又た跡無し聖人の事に處するは、變易して方無き底有り、執極して變ぜざる底有り、一事にして處する所同じからざる底有り、殊事にして處する所一致なる底有り。惟だ其の可のみ。古より聖人、適に其の可に當たる者は、堯・舜・禹・文・周・孔の數聖人のみ。可に當たりて又た跡無し、此れを之れ至聖と謂ふ。