講孟余話 / 告子上 第九章
家兄ノ此說、唐ノ太宗所謂人主惟一心、攻之者衆、或以勇力、或以辯口、或以詔訣、或以姦詐、或以嗜欲、輻湊各求自售、人主少懈、而受其一、則危亡隨之、此其所以難也ノ意ニシテ、盖シ切ニ時事ニ感スル所アリテ云ナリ、久保翁亦云ク、我今公ノ剛明知ルヘシ、茶道某云ク、公深ク茶湯ヲ好給ヘトモ、近來絶テ之ヲ廃シ給フ、盖シ君公一タヒ好ミ給ヘハ、群下靡然風從シ、士民ノ風ヲ敗リ財ヲ糜スルヲ惧テナリト、嗚呼此種ノ剛明、古ノ人君絕テ無クシテ僅ニアル所、豈仰カサルヘケンヤト、余此二事ニ感シテ謂ラク、人主ノ難キ実ニ爰ニアリ、而シテ孟子嘗テ云ク、吾君不能謂之賊離婁上首章又云ク逢君之惡其罪大下篇ト、然レハ人主自ラ其心ヲ清シ欲ヲ寡フシ、大罪ノ賊アリト雖トモ、乘スルコト能ハサラシムルハ勿論ナレトモ、亦其大罪ノ賊ヲ誅責セスンハ、此輩何ノ懲ルゝ所アラン、國家何ソ治平ナルコトヲ得ンヤ、此說亦以テ一日暴之十日寒之ノ說ニ附考スヘシ、
新字:家兄ノ此説、唐ノ太宗所謂人主惟一心、攻之者衆、或以勇力、或以弁口、或以詔訣、或以姦詐、或以嗜欲、輻湊各求自售、人主少懈、而受其一、則危亡随之、此其所以難也ノ意ニシテ、盖シ切ニ時事ニ感スル所アリテ云ナリ、久保翁亦云ク、我今公ノ剛明知ルヘシ、茶道某云ク、公深ク茶湯ヲ好給ヘトモ、近来絶テ之ヲ廃シ給フ、盖シ君公一タヒ好ミ給ヘハ、群下靡然風従シ、士民ノ風ヲ敗リ財ヲ糜スルヲ惧テナリト、嗚呼此種ノ剛明、古ノ人君絶テ無クシテ僅ニアル所、豈仰カサルヘケンヤト、余此二事ニ感シテ謂ラク、人主ノ難キ実ニ爰ニアリ、而シテ孟子嘗テ云ク、吾君不能謂之賊離婁上首章又云ク逢君之悪其罪大下篇ト、然レハ人主自ラ其心ヲ清シ欲ヲ寡フシ、大罪ノ賊アリト雖トモ、乗スルコト能ハサラシムルハ勿論ナレトモ、亦其大罪ノ賊ヲ誅責セスンハ、此輩何ノ懲ルゝ所アラン、国家何ソ治平ナルコトヲ得ンヤ、此説亦以テ一日暴之十日寒之ノ説ニ附考スヘシ、
書き下し
家兄の此の説、唐の太宗の所謂「人主は惟だ一心、之を攻むる者衆し。或は勇力を以てし、或は弁口を以てし、或は諂諛を以てし、或は姦詐を以てし、或は嗜欲を以てす。輻湊して各自ら售らんことを求む。人主少しく懈りて其の一を受くれば、則ち危亡之に随ふ。此れ其の難き所以なり」の意にして、蓋し切に時事に感ずる所ありて云ふなり。久保翁亦云く、「我が今公の剛明知るべし。茶道某云く、公深く茶の湯を好み給へども、近来絶えて之を廃し給ふ。蓋し君公一たび好み給へば、群下靡然として風従し、士民の風を敗り財を糜すを懼れてなりと。嗚呼此の種の剛明、古の人君絶えて無くして僅かにある所、豈に仰がざるべけんや」と。余此の二事に感じて謂へらく、人主の難き実に爰にあり。而して孟子嘗て云く、「吾が君能はずと謂ふ、之を賊と謂ふ」離婁上首章、又云く、「君の悪を逢ふるは其の罪大なり」下篇と。然れば人主自ら其の心を清くし欲を寡くし、大罪の賊ありと雖も、乗ずること能はざらしむるは勿論なれども、亦其の大罪の賊を誅責せずんば、此の輩何の懲る所あらん、国家何ぞ治平なることを得んや。此の説亦以て一日暴之十日寒之の説に附考すべし。
現代語訳
兄のこの説は、唐の太宗の言う「君主には心が一つしかないのに、それを攻める者は大勢いる。勇力で迫る者、弁舌で迫る者、へつらいで迫る者、悪だくみで迫る者、好みにつけこむ者がいて、四方から集まってそれぞれ自分を売り込もうとする。君主が少しでも気をゆるめてその一つを受け入れれば、国の危うさと滅亡がそれに続く。これが君主の難しいところだ」という意味と同じで、思うに今の世の事に強く感じるところがあって言ったのである。久保(五郎左衛門)翁もまたこう言った。「わが殿の剛明さは推して知るべしだ。茶道役の某が言うには、殿は茶の湯を深く好まれるのに、近ごろはすっかりやめておられる。殿がひとたび好まれれば、家臣がなびいて真似をし、武士や民の気風を損ない財を浪費することを恐れてのことだという。ああ、こうした剛明さは、昔の君主にもほとんどなく、まれにしかないものだ。仰がずにいられようか」と。私はこの二つの話に感じて思った。君主の難しさはまさにここにある。そして孟子はかつて「わが君には無理だと言うのは、君を損なう賊である」(離婁上首章)と言い、また「君の悪に迎合してそれを助けるのは罪が大きい」(離婁下篇)とも言った。だから君主が自ら心を清くし欲を少なくし、大罪の賊がいてもつけこませないのは当然だが、同時にその大罪の賊を罰し責めなければ、そうした連中が何を懲りることがあろうか。国家がどうして治まり平らかになれようか。この説もまた「一日暴之、十日寒之」の説に添えて考えるべきである。
解説
この章句が説くこと
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『講孟余話』告子上 第九章王の智ならざるを或しむこと無かれ。一日之を暴め、十日之を寒さば、未だ能く生ずる者有らざるなり。此の章の義、又滕文公下篇第六章、荘嶽に置くの喩、薛居州の事と、併せ考へて其の義尤も明なり。家兄伯教云く、人君たるも亦大艱と云ふべし。群臣数十百人日夜思惟し、何か一事君公の意に投じ歓に供せんことを謀る。少しく声色に顕るる者あれば、小人の逢迎至らざる所なし。一築造の役、一玩器の製より、声色狗馬に至るまで、皆然らざることなし。而して人君坐ながら其の奉承を受く。凡情に在りては愉快と思ふべし。而して超然として惑はざること、我が今公の如きは、実に剛明の資と云ふも恐れ多きことなりと。
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『大和俗訓』巻之五・言語一古語に、其国に居ては、其大夫をそしらずといへり。いはんや君をそしるは、大なるとがなり。古語に、臣の不忠、君をそしるより大なるはなしといへり。たとひ君にひが事ありとも、臣たるものは隠して語るべからず。又我が身其位に居らずんば、国政の是非を評議すべからず。下として上をそしるは、不忠不敬なり。つつしむべし。上をそしる人ありとて、それに雷同すべからず。口をとぢて語ることなかれ。上たる人は、わが行のあやまりを、下なるものに言はせそしらせて、ひろく聞くべし。下のそしりを聞くは、是上たる人の幸なり。人の口をとづるは悪し。口をとづれば、却てそしり多し。そしらすれば、後はそしり無し。此こと、古人の教明白なり。川の水は、下をほり流せば、水のうれひなし。下をせき止むれば、ふさがりて横流のわざはひとなる。人の口をとむるも、またかくの如し。故に明君は、人の口をとぢずして人にいはせ、下のそしりを聞くことを好めり。帝堯は、諫の鼓を置ていさめを聞き給ひ、殷の湯王は、誹謗の木を立てて政のあやまりを誹らしめ給ひしとかや。
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