講孟余話 / 萬章下 第二章
諸侯惡其害己也、而皆去其籍、古昔ノ良法美意後世ニ傳ラサルハ、常ニ暴慢ノ二ツニ因ルコトナリ、己ヲ害スルヲ惡ンテ其籍ヲ去ルト云ハ暴ナリ、後世秦ノ李斯書ヲ焚キ儒ヲ坑ニスル、暴ノ甚シキ者ニシテ、其由テ來ル所盖シ亦一日ニ非ス、孟子以前已ニ籍ヲ去ルヲ見テ知ヘシ、慢ト云者ハ、記錄ニ怠リ修補ニ怠リ、年序ヲ經ルニ隨ヒ、漸滅シテ盡ルヲ言ナリ、茲ニ暴ノ事ヲ擧テ慢ノ事ニ及ハサル者ハ、特ニ其甚シキヲ擧ルナリ、抑國政ノ要ハ祖法ヲ守ルヨリ重キハナシ、祖法ハ皆載セテ籍ニアリ、中庸ニ文武ノ政、布テ方策ニアリト云モ、告子下篇ニ守宗廟之典籍ト云モ、皆祖法ノ事ナリ、今ヤ天下明良相遇フノ時、豈遽ニ暴ニシテ籍ヲ去ルニ至ル者アランヤ、或云、是亦覺束ナシ、然レトモ慢ニシテ籍ノ自ラ去ルヲ知サル者ニ至テハ、其必無ヲ保シ難シ、宜シク君相ノ責トスヘキハ守籍ニアルナリ、
新字:諸侯悪其害己也、而皆去其籍、古昔ノ良法美意後世ニ伝ラサルハ、常ニ暴慢ノ二ツニ因ルコトナリ、己ヲ害スルヲ悪ンテ其籍ヲ去ルト云ハ暴ナリ、後世秦ノ李斯書ヲ焚キ儒ヲ坑ニスル、暴ノ甚シキ者ニシテ、其由テ来ル所盖シ亦一日ニ非ス、孟子以前已ニ籍ヲ去ルヲ見テ知ヘシ、慢ト云者ハ、記録ニ怠リ修補ニ怠リ、年序ヲ経ルニ随ヒ、漸滅シテ尽ルヲ言ナリ、茲ニ暴ノ事ヲ挙テ慢ノ事ニ及ハサル者ハ、特ニ其甚シキヲ挙ルナリ、抑国政ノ要ハ祖法ヲ守ルヨリ重キハナシ、祖法ハ皆載セテ籍ニアリ、中庸ニ文武ノ政、布テ方策ニアリト云モ、告子下篇ニ守宗廟之典籍ト云モ、皆祖法ノ事ナリ、今ヤ天下明良相遇フノ時、豈遽ニ暴ニシテ籍ヲ去ルニ至ル者アランヤ、或云、是亦覚束ナシ、然レトモ慢ニシテ籍ノ自ラ去ルヲ知サル者ニ至テハ、其必無ヲ保シ難シ、宜シク君相ノ責トスヘキハ守籍ニアルナリ、
書き下し
「諸侯其の己を害するを悪みて、皆其の籍を去る」。古昔の良法美意の後世に伝はらざるは、常に暴慢の二つに因ることなり。己を害するを悪みて其の籍を去ると云ふは暴なり。後世秦の李斯の書を焚き儒を坑にする、暴の甚しき者にして、其の由りて来る所蓋し亦一日に非ず。孟子以前已に籍を去るを見て知るべし。慢と云ふ者は、記録に怠り修補に怠り、年序を経るに随ひ、漸く滅して尽くるを言ふなり。茲に暴の事を挙げて慢の事に及ばざる者は、特に其の甚しきを挙ぐるなり。抑々国政の要は祖法を守るより重きはなし。祖法は皆載せて籍にあり。中庸に「文武の政、布きて方策に在り」と云ふも、告子下篇に「宗廟の典籍を守る」と云ふも、皆祖法の事なり。今や天下明良相遇ふの時、豈に遽かに暴にして籍を去るに至る者あらんや。或ひと云ふ、是れ亦覚束なしと。然れども慢にして籍の自ら去るを知らざる者に至りては、其の必無を保し難し。宜しく君相の責とすべきは籍を守るにあるなり。
現代語訳
「諸侯は周の制度が自分に不都合なのを嫌って、みなその記録を捨ててしまった」。昔の良い法や美しい意図が後世に伝わらないのは、いつも暴と慢の二つによる。自分に不都合なのを嫌って記録を捨てるのは暴である。後世、秦の李斯が書物を焼き儒者を生き埋めにしたのは暴の極みだが、その由来は一朝一夕のものではない。孟子より前にすでに記録を捨てていたことを見ても分かる。慢とは、記録を怠り、補修を怠り、年月を経るにつれてしだいに消えてなくなることを言う。ここで暴のことを挙げて慢に触れないのは、とくに甚だしいほうを挙げたのである。そもそも国の政治の要は、祖先の定めた法を守ることより重いものはない。祖法はみな記録に載っている。中庸に「文王・武王の政治は記録に布いてある」と言い、告子下篇に「宗廟の典籍を守る」と言うのも、みな祖法のことである。今は天下に明君と良臣がめぐりあっている時代だから、にわかに暴によって記録を捨てるような者がいるだろうか。ある人は、それも心もとないと言う。しかし、怠慢のために記録がおのずから失われていくのに気づかない者となると、絶対にいないとは保証しがたい。君主と宰相が責任とすべきは、記録を守ることにある。
解説
この章句が説くこと
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