講孟余話 / 離婁下 第二十三章
此章孟子事ニ臨テ深思熟慮スルノ目ヲ擧ク、此類推シテ廣メハ豈極リアランヤ、抑朱子註ニ於テ過取固害於廉、然過與亦反害其惠、過死亦反害其勇、ト云、固・然・亦・反ノ四字ヲ下シ、斟酌商量ヲ示ス、本文語意モト此抑揚アルニ非ス、特ニ朱子書ヲ觧シ後人ヲ曉サント欲スルノ老婆心ヲ見ルヘシ、常人ノ情多クハ取易キニ失ス、故ニ固ト云テ抑中ノ抑ヲ示ス、與ルト死スルトハ多クハ難キニ失ス、故ニ過テ與ヘ過テ死スルニ於テハ、過テ取ルト文ヲ異ニシ、然亦反ノ三字ニテ抑中ノ揚ヲ示ス、學者中道ニ志スハ固ヨリナレトモ、其次ハ過テ取ランヨリハ過テ與ヘンニ如カス、過テ生キンヨリハ過テ死センニ如カス、是亦知ラスンハアルヘカラス
新字:此章孟子事ニ臨テ深思熟慮スルノ目ヲ挙ク、此類推シテ広メハ豈極リアランヤ、抑朱子註ニ於テ過取固害於廉、然過与亦反害其恵、過死亦反害其勇、ト云、固・然・亦・反ノ四字ヲ下シ、斟酌商量ヲ示ス、本文語意モト此抑揚アルニ非ス、特ニ朱子書ヲ觧シ後人ヲ暁サント欲スルノ老婆心ヲ見ルヘシ、常人ノ情多クハ取易キニ失ス、故ニ固ト云テ抑中ノ抑ヲ示ス、与ルト死スルトハ多クハ難キニ失ス、故ニ過テ与ヘ過テ死スルニ於テハ、過テ取ルト文ヲ異ニシ、然亦反ノ三字ニテ抑中ノ揚ヲ示ス、学者中道ニ志スハ固ヨリナレトモ、其次ハ過テ取ランヨリハ過テ与ヘンニ如カス、過テ生キンヨリハ過テ死センニ如カス、是亦知ラスンハアルヘカラス
書き下し
此の章、孟子事に臨みて深思熟慮するの目を挙ぐ。此の類推して広めば豈に極まりあらんや。抑々朱子註に於て「過ぎて取るは固より廉を害す、然れども過ぎて与ふるも亦反つて其の恵を害し、過ぎて死するも亦反つて其の勇を害す」と云ひ、固・然・亦・反の四字を下して斟酌商量を示す。本文の語意もと此の抑揚あるに非ず、特に朱子書を解し後人を暁さんと欲するの老婆心を見るべし。常人の情多くは取り易きに失す、故に「固より」と云ひて抑中の抑を示す。与ふると死するとは多くは難きに失す、故に過ぎて与へ過ぎて死するに於ては、過ぎて取ると文を異にし、「然」「亦」「反」の三字にて抑中の揚を示す。学者中道に志すは固よりなれども、其の次は、過ちて取らんよりは過ちて与へんに如かず、過ちて生きんよりは過ちて死せんに如かず、是れ亦知らずんばあるべからず。
現代語訳
この章は、孟子が事に臨んで深く考え慎重に思慮する項目を挙げている。この類を推し広めれば際限があろうか。そもそも朱子は注で「取りすぎるのはもとより清廉を損なう。しかし与えすぎるのもまたかえって恵みを損ない、死にすぎるのもまたかえって勇を損なう」と言い、「固」「然」「亦」「反」の四字を置いて、加減と比べ合わせを示している。本文の言葉にはもともとこの抑揚があるわけではない。とりわけ朱子が書を解いて後人を教え諭そうとした老婆心を見るべきである。普通の人の心は多くは取りやすい方に過ちを犯す。だから「固より」と言って、抑える中でも強く抑えることを示す。与えることと死ぬことは、多くは難しくてしない方に過ちを犯す。だから与えすぎ死にすぎについては、取りすぎとは書き方を変え、「然」「亦」「反」の三字で、抑える中にも持ち上げる意を示している。学ぶ者が中道を志すのはもとよりだが、その次には、取りすぎるよりは与えすぎる方がよく、生きすぎるよりは死にすぎる方がよい。これもまた知っておかなければならない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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孟子・離婁章句下孟子曰く、「以て取る可く、以て取る無かる可し。取れば廉を傷つく。以て與う可く、以て與うる無かる可し。與うれば惠を傷つく。以て死す可く、以て死する無かる可し。死すれば勇を傷つく。」
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『講孟余話』離婁下 第十三章此の章註已に明なり。今更に一異説を発して考へに備ふ。生を養ふは父母の目前の事なれば、甚だ狂妄の人に非ざるよりは、可なりに恭敬を致す者なれば、是れを以て遽かに其の人を信じ孝子とし、孝あれば悌もあるべく忠もあるべくなどと思ひ、大事に当てんとせば、大いなる誤りなるべし。死を送るに至りても尚能く必ず誠に必ず信なることこそ実の孝子にて、かかる人こそ大事に当るに足るべし。大事に当るとは、大切の事に当り、善く是れに堪ゆるを云ふ。即ち大節に臨みて奪ふべからざるの胆腸あるを云ふなり。当の字義、朱註と小異なり。是れ父母の生死のみならず、万事皆此の理なり。国強く勢盛んなる時は、孰れも忠勤を励むものなり。国衰へ勢去るに至りては、志を変じ敵に降り主を売る類寡なからず。故に人は晩節を全うするに非ざれば、何程才智学芸ありと雖も、亦何ぞ尊ぶに足らんや。明主に忠あるは珍らしからず、暗主に忠なるこそ真忠なれ。慈父に孝あるは珍らしからず、頑父に孝なるこそ真孝なれ。賞誉せられて忠孝なること珍らしからず、責罰せられて忠孝なるこそ真の忠孝なれ。士大夫たる者嗜むべきこと実に爰にあり。
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『講孟余話』離婁下 第二十八章此の章切実痛快、宜しく一通を録し座右に貼して朝夕観省すべし。其の義明白、弁を待たず。存心の二字一章の骨子、仁礼は其の目なり。「人恒に之れを愛敬す」は是れ常を云ひ、二の「自ら反す」は是れ変を云ふ。愈々反して愈々切なり。「忠なり」と云ふに至りては自ら居ること甚だ高し。常人或は前の二反を能くすと雖も、「忠なり」に至りては多くは忿恨に堪ふること能はず、是れ其の自ら居ること妄人と均しきのみ。説いて「終身の憂ひ」「一朝の患ひ」に至りて、字々直ちに肺腸を刺すを覚ゆ。遂に「舜の如くせんのみ」に落着す。其の工夫は則ち亦仁礼の二字のみ、是れ一章首尾照応の所なり。是等の章、孟子中に在りても亦多く得べからず、況んや他書に於てをや、豈に容易に看過すべけんや。
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『講孟余話』離婁下 第二十四章十一月十七日。此の章、尹公之他の友を取ることの端しきを以て、羿の罪は其の友を取ること端しからざるにあるを明かす。而して二人の事、固より論ずるに足ることなきは、註已に弁ず。扨て友を取ることの端しきと否らざるとは、実に一身禍福の根元たること斯くの如し。但し羿の罪あるは徒らに友を取ることの端しからざるのみに非ず、彼固より逆戻の人、他人の殺す所となる固より其の所なり。凡そ人の殺害疾悪する所となる、大氏自ら致す所以の罪あり。譬へば吾人を罵れば人亦吾を罵り、吾人を辱むれば人も亦吾を辱むるが如し。徒らに他人を咎むべきのみに非ず、是れ則ち本文言外の意、察せずんばあるべからず。
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『講孟余話』離婁下 第九章十一月十二日。此の章註に「為にする有りて言ふ」とあり、此の義深く講究すべし。君子の語黙動静は、義に合ふと義に合はぬとを顧るのみ、何ぞ後患の有無を論ぜんや。若し後患を懼るる故にて、人の不善を言はざるを以て道とせば、唐の韓退之が「史を為る者は人禍あらざれば則ち天刑あり、畏懼せずして軽々しく之れを為すべけんや」と云ふと同日の論にて、甚だ非なり。柳宗元の駁する如く、凡そ其の位に居ては其の道を直くせんことを思ふ、刑禍は懼るる所に非ずとの論、最も其の正を得たり。然れども職にも非ずして好んで人を誹謗し、其の不善を言ひて無益の刑禍を買ふは、亦愚昧の至りと云ふべし。故に孟子斯の人の為めに是の言を発し之れを誡むるなり。故に「為にする有りて言ふ」と註するなり。
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『講孟余話』離婁下 第三十三章此の章富貴利達を求むるの人を恥かしむ、痛快と云ふべし。此の種の人物頑鈍無恥、古今同流、国の萎靡振はざる、実に是れに由る。願はくは大有力の人ありて、此の章を三復して其の人を罵詈し、以て廉恥の風を一振したきことなり。離婁の篇茲に終る。孟子先生意あることにや、離婁下篇凡そ三十三章、甚だ条理あるを見ず。但し首章「先聖後聖其の揆一なり」に始まり、第二十九章「禹稷顔回道を同じうす」とあり、第三十一章「曾子子思道を同じうす」とあり、三章同意にして皆時中の義を明かす。又舜第十九章、禹湯文武周公第二十章、孔子第二十一章、及び自ら言ふの章第二十二章の如き、亦群聖時に中するの意を見す。因りて知る、通篇時に中するの義、且つ世俗の惑ひを解き誤りを正す者多し。子産の恵第二章、旧君の服第三章、仲尼の甚第十章、羿の罪第二十四章、公行子の喪第二十七章、匡章の不孝第三十章の諸章、尤も明らかなり。其の他推して知るべし。然れども深く拘ることなかれ。
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