講孟余話 / 離婁上 第二十五章
而シテ樂正子乃チ子敖ニ從ヒ來ル、是孟子ノ責ル所ナリ、カツ子學古之道而以餔啜也ノ一語ヲ以テ是ヲ考フルニ、樂正子ノ子敖ニ從フハ子敖ノ扶持ヲ受ケタルト見ヘタリ、定テ其臣トナルカ其客トナルカナルヘシ、故ニ孟子深ク是ヲ責ムルハ、其身ヲ小人ニ失フ君子ノ道ニ非ルヲ以テナリ、不然ンハ孟子何ソ來見ルノ遲キト子敖ニ從ヒ來ルトヲ責ムルコト甚タ深キヤ、然トモ樂正子モ亦輕スヘカラス、梁惠王下篇末章ニ見ユル所ノ、魯ノ平公ノ爲ニ孟子ノ賢ヲ說ク所ヲ觀テ知ルヘシ、又告子下篇ニ云、魯欲使樂正子爲政、孟子曰、吾聞之、喜而不寐、又曰、其爲人也好善、盡心下篇ニ云、浩生不害問曰、樂正子何人也、孟子曰、善人也、信人也、ト此類ヲ以テ樂正子ノ人トナリ大抵知ルヘシ、又案スルニ子敖ハ齊人ナリ、樂正子ハ魯人ナルヘシ、樂正子子敖ニ從ヒ來ルハ、子敖魯ニ徃テ樂正子ヲ連テ齊ニ歸リ、孟子時ニ齊ニ居ラルヽナルヘシ
新字:而シテ楽正子乃チ子敖ニ従ヒ来ル、是孟子ノ責ル所ナリ、カツ子学古之道而以餔啜也ノ一語ヲ以テ是ヲ考フルニ、楽正子ノ子敖ニ従フハ子敖ノ扶持ヲ受ケタルト見ヘタリ、定テ其臣トナルカ其客トナルカナルヘシ、故ニ孟子深ク是ヲ責ムルハ、其身ヲ小人ニ失フ君子ノ道ニ非ルヲ以テナリ、不然ンハ孟子何ソ来見ルノ遅キト子敖ニ従ヒ来ルトヲ責ムルコト甚タ深キヤ、然トモ楽正子モ亦軽スヘカラス、梁恵王下篇末章ニ見ユル所ノ、魯ノ平公ノ為ニ孟子ノ賢ヲ説ク所ヲ観テ知ルヘシ、又告子下篇ニ云、魯欲使楽正子為政、孟子曰、吾聞之、喜而不寐、又曰、其為人也好善、尽心下篇ニ云、浩生不害問曰、楽正子何人也、孟子曰、善人也、信人也、ト此類ヲ以テ楽正子ノ人トナリ大抵知ルヘシ、又案スルニ子敖ハ斉人ナリ、楽正子ハ魯人ナルヘシ、楽正子子敖ニ従ヒ来ルハ、子敖魯ニ往テ楽正子ヲ連テ斉ニ帰リ、孟子時ニ斉ニ居ラルヽナルヘシ
書き下し
而して楽正子乃ち子敖に従ひ来る、是れ孟子の責むる所なり。且つ「子の古の道を学びて以て餔啜するや」の一語を以て是れを考ふるに、楽正子の子敖に従ふは子敖の扶持を受けたると見えたり。定めて其の臣となるか其の客となるかなるべし。故に孟子深く是れを責むるは、其の身を小人に失ふ君子の道に非ざるを以てなり。然らずんば孟子何ぞ来り見ることの遅きと子敖に従ひ来るとを責むること甚だ深きや。然れども楽正子も亦軽んずべからず。梁恵王下篇末章に見ゆる所の、魯の平公の為めに孟子の賢を説く所を観て知るべし。又告子下篇に云ふ、「魯楽正子をして政を為さしめんと欲す。孟子曰く、吾之れを聞きて、喜んで寐ねられず」と。又曰く、「其の人と為りや善を好む」と。尽心下篇に云ふ、「浩生不害問ひて曰く、楽正子は何人ぞや。孟子曰く、善人なり、信人なり」と。此の類を以て楽正子の人となり大抵知るべし。又案ずるに、子敖は斉人なり、楽正子は魯人なるべし。楽正子子敖に従ひ来るは、子敖魯に往きて楽正子を連れて斉に帰り、孟子時に斉に居らるるなるべし。
現代語訳
そして楽正子はその子敖に付き従ってやって来た。これが孟子の責めるところである。さらに「あなたは古の道を学んで、ただ飲み食いのためにそれを使うのか」という一言から考えると、楽正子が子敖に従ったのは、子敖から扶持(給与)を受けていたからだと見える。きっとその家臣か食客になっていたのだろう。だから孟子が深く責めたのは、小人のもとに身を置いて自分を失うことが君子の道ではないからである。そうでなければ、孟子が来訪の遅さと子敖に従って来たことをこれほど深く責めるはずがない。とはいえ楽正子も軽んじてはならない。梁恵王下篇末章で、魯の平公のために孟子の賢さを説いているのを見れば分かる。また告子下篇には「魯が楽正子に政治を任せようとした。孟子は『私はそれを聞いて、うれしくて眠れなかった』と言った」とあり、また「その人柄は善を好む」とある。尽心下篇には「浩生不害が『楽正子はどういう人か』と尋ねると、孟子は『善人であり、信のある人だ』と答えた」とある。こうした記事から楽正子の人柄はおおよそ分かる。また考えるに、子敖は斉の人で、楽正子は魯の人であろう。楽正子が子敖に従って来たのは、子敖が魯へ行って楽正子を連れて斉へ帰り、孟子がそのとき斉にいたからであろう。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『講孟余話』離婁上 第二十五章此の二章並びに楽正子を責む。前章は其の来り見ることの遅きを責め、後章は其の子敖に従ふを責む。子敖は王驩なり。王驩の事、公孫丑下篇第六章に見ゆ。云く、「孟子斉に卿たり、出でて滕に弔す。王、蓋の大夫王驩をして輔行たらしむ。王驩朝暮に見ゆれども、斉滕の路を反るまで、未だ嘗て之れと行事を言はざるなり」と。又離婁下篇にも見ゆ。云く、「公行子に子の喪有り、右師往きて弔す」、右師は王驩なり、「孟子右師と言はず。右師悦ばずして曰く、是れ驩を簡にするなりと。孟子之れを聞きて曰く、我礼を行はんと欲す、子敖我を以て簡なりと為す、亦異ならずや」と。此の二章を観ても亦王驩の小人たること知るべし。
-
孟子・離婁章句上樂正子、子敖に從いて齊に之く。樂正子、孟子に見ゆ。孟子曰く、「子も亦た來たりて我を見るか。」曰く、「先生何為れぞ此の言を出だすや。」曰く、「子來たること幾日ぞ。」曰く、「昔者なり。」曰く、「昔者ならば、則ち我、此の言を出だすも、亦た宜ならずや。」曰く、「舍館未だ定まらざればなり。」曰く、「子、之を聞けりや。舍館定まりて、然る後に長者に見ゆることを求むるか。」曰く、「克、罪有り。」 <語釈> ○「樂正子」、趙注:魯の人樂正克、孟子の弟子なり、齊の右師子敖に從う、子敖、使いして魯に之く、樂正子、之に随い、來たりて齊に之く。○「昔者」、趙注:「昔者」は往なり、數日の閒を謂う。
-
『講孟余話』公孫丑下 第十二章此の章に於て仁人の心を知るべし。燕の楽毅が所謂「古の君子は交はり絶ゆるも悪声を出さず、忠臣国を去るも其の名を潔くせず」と云ふも此の義なり。孟子平生斉王を諫争教戒する者甚だ備はれり、而るに王曾て是れを聴納せず、故に孟子斉を去るなり。常人をして是れに処せしめば、必ず怒罵して斉王の非を数へ、自己の名を衒はん。而して孟子斉を去る事を記すること、前後凡そ五章、一言の怨怒の気なく、斉王を謗刺するの言なし。其の和気藹然、掬するに余りあり。且つ徒に言語の末然るに非ず、三宿して昼を出で、濡滞の議を顧みず、真に国を去りて其の名を潔くせずと云ふべし。
-
孟子・離婁章句上孟子、樂正子に謂いて曰く、「子之の子敖に從いて來たるは、徒に餔啜するなり。我意わざりき、子、古の道を學びて、而も以て餔啜せんとは。」
-
孟子・告子章句下魯、樂正子をして政を為めしめんと欲す。孟子曰く、「吾之を聞き、喜びて寐ねず。」公孫丑曰く、「樂正子は強なるか。」曰く、「否。」「知慮有るか。」曰く、「否。」「聞識多きか。」曰く、「否。」「然ら則ち奚為れぞ喜びて寐ねられざる。」曰く、「其の人と為りや善を好めばなり。」「善を好めば足るか。」曰く、「善を好めば天下に優なり。而るを況んや魯國をや。夫れ苟くも善を好めば、則ち四海の內、皆將に千里を輕しとして來たり、之に告ぐるに善を以てせんとす。夫れ苟くも善を好まざれば、則ち人將に曰わんとす、『訑訑(イ・イ)たり。予既に已に之を知れり。』訑訑の聲音顏色は、人を千里の外に距ぐ。士、千里の外に止まらば、則ち讒諂面諛の人至らん。讒諂面諛の人と居らば、國治まらんことを欲するも、得可けんや。」
-
『講孟余話』盡心下 第三十章然りと雖も此の館人は隠君子なり、固より侮るべからず。「夫子の科を設くるや」の数語、聖賢の指に合ふことあるは論を待たず。其の言温かに其の気平らかなりと云へども、実に深く孟子を反詰するなり。謂へらく、夫子の従者とて、悉く顔・曾・冉・閔に非ず、又孺悲・闕童もあらん、又安んぞ屨を廋す者なきを知らん。然れども是れ亦夫子の罪にはあらず。「往く者は追はず、来る者は拒まず、是の心を以て至らば、斯に之れを受くるのみ」の教へなれば、其の勢ひ屨を廋すに至るとも、亦何ぞ傷まん、却つて夫子の広大を見るに足るのみと。是に於て蓋し孟子の気折れ顔和らぎ、又一言なかりしと想はる。七篇中、告子・淳于髠の輩の如き、言語を以て孟子を圧倒せんと欲して、却つて孟子の罵詈を受くる者、一にして足らず。何ぞ此の館人の温言平気以て孟子を心服せしむるに如かんや。然らば則ち此の館人隠君子にして侮るべからずと云ふとも、豈に不可ならんや。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る