講孟余話 / 離婁上 第十二章
此章中庸全部ノ意ヲ括テ一章トス、又大學ト表裏ス、並ニ註已ニ是ヲ辨ス、而シテ善ニ明ナルト身ニ誠ナルト誠ト誠ヲ思フトノ四頂ニ歸ス、善ニ明ナルハ多ク知ニ於テ發明ス、書ヲ讀ミ道ヲ思フ皆是ニ属ス、身ニ誠ナルハ多ク行ニ於テ発明ス、仁ヲ行ヒ義ニ由ル皆是ニ属ス、然トモ知ハ行ノ本タリ、行ハ知ノ實タリ、二ツノ者固ヨリ相倚テ離レス、誠ハ知行ノ自ラ誠ナルナリ、思誠ハ知行ノ誠ナランコトヲ思フナリ、此義學庸ヲ熟讀セハ自ラ明ナリ、今必シモ贅セス、上章云ク道在爾、事在易ト云モノ此章ニ於テ益々明ナリ、獲於上ノ獲ハ上第九章得民、得心ノ得ノ如シ、但彼我ノ差別アルノミ、獲於上ハ我心ヲ上ニ獲ラレ上ノ物トナルナリ、我レ誠敬ヲ盡シ我レ忠貞ヲ致スト云トモ、上ノ信孚ヲ得ルコト能ハサルハ是我心ヲ上ニ獲ラレサルナリ、我誠敬ヲ盡セハ上其誠敬ヲ信シ、我忠貞ヲ致セハ上其忠貞ヲ信シ、凡ソ吾心ヲ竭ス所上皆是ヲ信スレハ、吾心皆上ノ心ト流通シテ、吾心ハ上ノ物トナリ、上ノ心ハ又吾物トナル、上下相得ルナリ、孫子所謂與衆相得ノ意ナリ、是ヲ上ニ獲ラルヽト云ナリ
新字:此章中庸全部ノ意ヲ括テ一章トス、又大学ト表裏ス、並ニ註已ニ是ヲ弁ス、而シテ善ニ明ナルト身ニ誠ナルト誠ト誠ヲ思フトノ四頂ニ帰ス、善ニ明ナルハ多ク知ニ於テ発明ス、書ヲ読ミ道ヲ思フ皆是ニ属ス、身ニ誠ナルハ多ク行ニ於テ発明ス、仁ヲ行ヒ義ニ由ル皆是ニ属ス、然トモ知ハ行ノ本タリ、行ハ知ノ実タリ、二ツノ者固ヨリ相倚テ離レス、誠ハ知行ノ自ラ誠ナルナリ、思誠ハ知行ノ誠ナランコトヲ思フナリ、此義学庸ヲ熟読セハ自ラ明ナリ、今必シモ贅セス、上章云ク道在爾、事在易ト云モノ此章ニ於テ益々明ナリ、獲於上ノ獲ハ上第九章得民、得心ノ得ノ如シ、但彼我ノ差別アルノミ、獲於上ハ我心ヲ上ニ獲ラレ上ノ物トナルナリ、我レ誠敬ヲ尽シ我レ忠貞ヲ致スト云トモ、上ノ信孚ヲ得ルコト能ハサルハ是我心ヲ上ニ獲ラレサルナリ、我誠敬ヲ尽セハ上其誠敬ヲ信シ、我忠貞ヲ致セハ上其忠貞ヲ信シ、凡ソ吾心ヲ竭ス所上皆是ヲ信スレハ、吾心皆上ノ心ト流通シテ、吾心ハ上ノ物トナリ、上ノ心ハ又吾物トナル、上下相得ルナリ、孫子所謂与衆相得ノ意ナリ、是ヲ上ニ獲ラルヽト云ナリ
書き下し
此の章、中庸全部の意を括りて一章とす。又大学と表裏す。並びに註已に是れを弁ず。而して善に明らかなると、身に誠なると、誠と、誠を思ふとの四項に帰す。善に明らかなるは多く知に於て発明す。書を読み道を思ふ、皆是れに属す。身に誠なるは多く行に於て発明す。仁を行ひ義に由る、皆是れに属す。然れども知は行の本たり、行は知の実たり。二つの者固より相倚りて離れず。誠は知行の自ら誠なるなり。思誠は知行の誠ならんことを思ふなり。此の義、学庸を熟読せば自ら明らかなり。今必ずしも贅せず。上章に云ふ「道は邇きに在り、事は易きに在り」と云ふもの、此の章に於て益々明らかなり。「上に獲らる」の獲は、上第九章「民を得」「心を得」の得の如し。但し彼我の差別あるのみ。「上に獲らる」は我が心を上に獲られ、上の物となるなり。我れ誠敬を尽くし、我れ忠貞を致すと云へども、上の信孚を得ること能はざるは、是れ我が心を上に獲られざるなり。我れ誠敬を尽くせば上其の誠敬を信じ、我れ忠貞を致せば上其の忠貞を信じ、凡そ吾が心を竭くす所、上皆是れを信ずれば、吾が心皆上の心と流通して、吾が心は上の物となり、上の心は又吾が物となる。上下相得るなり。孫子の所謂「衆と相得」の意なり。是れを上に獲らると云ふなり。
現代語訳
この章は『中庸』全体の意味をくくって一章にしたものであり、また『大学』と表裏をなしている。どちらも朱子注がすでに説明している。そして、善に明らかであること、身に誠であること、誠そのもの、誠であろうと思うこと、の四つに帰着する。善に明らかであることは、多くは知において明らかになる。書を読み道を考えることは、みなこれに属する。身に誠であることは、多くは行いにおいて明らかになる。仁を行い義に従うことは、みなこれに属する。しかし知は行いの根本であり、行いは知の中身である。二つはもとより互いに寄り合って離れない。「誠」とは、知と行いがおのずから誠であることである。「誠を思う」とは、知と行いが誠であろうと思うことである。この意味は『大学』『中庸』を熟読すればおのずとわかるので、ここで繰り返さない。前の章で「道は近くにあり、事はたやすいところにある」と言ったことが、この章でますます明らかになる。「上に獲らる」の「獲」は、上の第九章の「民を得る」「心を得る」の「得」と同じである。ただ自分と相手の向きが違うだけである。「上に獲らる」とは、自分の心を上に獲られて、上のものとなることである。自分が誠と敬を尽くし、忠と貞を尽くしても、上の信頼を得られないのは、自分の心が上に獲られていないのである。自分が誠と敬を尽くせば上はその誠敬を信じ、忠貞を尽くせば上はその忠貞を信じ、およそ自分が心を尽くすところを上がすべて信じるなら、自分の心はすべて上の心と通い合い、自分の心は上のものとなり、上の心もまた自分のものとなる。上下が互いに得合うのである。孫子のいう「衆と相得る」の意味である。これを「上に獲らる」と言うのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『初学訓』巻之四一およそ、農工商の三民は、君に仕へずして禄なし。みづから利養を求むるを専とす。されど、義理を捨てて利養を求むるは、天道に背き、人事を妨げて、たとひ、一旦の利を得るといへど、必ず天の咎人のにくみ有りて、後の禍にあふ。おろかなるものは、眼前の利をのみ謀りて、後の禍を知らず。不善を行ひて、利をむさぼること小なれば、財を失ふ。甚しければ、家を破り身を亡す。天のせめ人のにくみ遁れがたし、愚なるにあらずや。誠は天の道なり。之を誠にするは、人の道なり。四時行はれ、百物生る。善にさいはひし悪にわざはひす。是天道のまことなり、古今たがはず。人の道は、これを則として、つとめて誠にするにあり。ここをもつて、人の心は誠を主とす。誠あらざれば物なし。君父によく仕へ、いかなる善を行ひても、誠なければ為す事皆ひがごとなり。是を物なしといふ。つとめて善を行ふも、誠なければ、みづから欺き、人を欺くに至る、惜むべし。欺くとは偽るなり。故に、万の事誠を本とすべし。孔子の主忠信とのたまふも、此意なり。忠信は誠の心なり。
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『大和俗訓』巻之三・心術上一我が身の慾を恣にするより大なる禍なし。人の非をそしるより大なる悪なしと、古人いへり。此二は、義理に乖くのみならず、身を亡す道なり。常に心にかけて戒むべし。一凡平生の心法は、真実にして偽なかるべし。中庸に、誠は天の道なり、之を誠にする者は、人の道なりといへり。誠は天の道なりとは、陰陽のしわざ、日月のめぐり、春夏秋冬の次第、いにしへ今かはらず、草木の、春生じ、夏長じ、秋みのり、冬をさまりて、年々にかはりなきも、皆是天道の誠なり。之を誠にすとは、人の力にて、つとめて誠にするを云ふ。人は天地の子なれば、天道の誠を法とし、したがひて行ふべし。是之を誠にするは人の道なり。孔子も忠信を主とすとのたまへり。此意は、誠を以て人の心の主とすべしとなり。
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『五常訓』巻之五・信是皆まことの道にあらず。忠孝にかぎらず、万事皆かくの如し。中庸に、不誠無物といへり。物なしとは、偽りて実なきなり。親につかへ、君につかふるに、誠なくして、右にいへる如くなれば、忠孝にあらず。是物なきなり。万の事、皆誠なければ物なし。凡名と利とを求めてする事は、たとひ天下に聞ゆるほどの善なりとも、其心真実ならざれば私とす。善にあらず。是物なきなり。四徳に誠なければ、仁義礼智にあらず、いつはりなり。是物なきなり。人の、天より生れつきたる性は、唯仁義礼智の四徳なり。此四徳にて、人道行はる。此故に、孟子は、ただ仁義礼智を説きて、信を説き給はず。程子曰く、四端に信を言はざるは、既に誠心有りて四端と為れば、則ち信其の中に在ればなり。これを以て、仁義礼智の外に、信なきことを知るべし。
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『武士道』第七章 至誠信實・礼に過ぐれば諂いとなる礼もし誠を欠かば諧謔となり、狂言となる。伊達政宗曰はく、『礼に過ぐれば諂ひとなる』と。又た菅公が誠の歌に、『心だに誠の道にかなひなば、祈らずとても神や守らん』とあるは、ポローニアスが、『自から已に誠なるべし。さらば人に誠無き能はず』との訓言に比するに、義はなはだ深し。子思は『中庸』に於て誠を崇め、之れに超自然力を帰し、而も殆ど其力を神明と同視す。『誠は物の終始なり。誠ならざれば物無し。是の故に君子は之を誠にするを貴しと為す』と曰ひ、且つ流麗快達の弁を以て、至誠息むこと無く、悠遠博厚、又た高明、動かさずして変じ、無為にして成すと説く。其旨の深玄にして神秘の妙域に騁するより、人の或は『誠』の一字を解けば、『言』と、完全の義ある『成』との二字より成れるを以て、之を新プラトン学説の『ロゴス』(道)に比儔せんとすることあり。
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『慎思録』巻之五聖賢の誠の字を言ふ、人の実心を以て言ふ者有り、天地鬼神の実理を以て言ふ者有り。李邦直、誠の字を解して曰く、欺かざる之を誠と謂ふ、と。此れ只実心を解し得たり。所謂之を誠にするは、人の道なり、といふものなり。実理に於ては、則ち説き去らず。程子改めて解して曰く、無妄之を誠と謂ふ、と。所謂誠は、天の道なり、といふものなり。此れ実心実理に通じて之を説くなり。精当と謂ふべし。
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