講孟余話 / 滕文公下 第四章
余江戶獄中ニ在テ、法華僧日命ナル者ト同居ス、僧常ニ云フ、人マサニ四恩ヲ知ルヘシ、一ニハ君恩也、二ニハ親恩ナリ、三ニハ師恩ナリ、四ニハ一切衆生ノ恩也、三恩迄ハ儒家ニモ論スル所ナレトモ、四恩ニ至テハ佛家ニ非レハ知ルコト能ハス、五車韻瑞ニ、大乘本経注ヲ引ク、恩有四種、一父母、二師長、三国王、四施主ト云ヘリ、日命云フ所ト異ナリ、當考、凢人此世ニ居ル、雞ニ因テ時ヲ知リ、犬ニ因テ盜ヲ知リ、牛ヲ以耕シ、馬ヲ以テ載スルヨリ、米穀ノ人ヲ養ヒ、藥石ノ人ヲ治スルニ至ル迄、禽獸草木一切衆生、皆人ニ恩ナキハナシ、是知ラサルヘカラズト、其說甚理アリ、功食スルノ論ニ因テ思起セリ、但シ君父師ノ外更ニ衆生ノ恩ト云ハ、亦是レ異端ノ見ナリ、三恩ヲ離レテ豈更ニ衆生ノ恩アランヤ、三恩ノ外更ニ衆生ノ恩アリト云ハ、即所謂二本ノ說ナリ、夫ハ兎モ角モ、功無シテ食ミ、恩ヲ受テ忘レタラン者ハ、天地間ニ容ルヘカラズ
新字:余江戸獄中ニ在テ、法華僧日命ナル者ト同居ス、僧常ニ云フ、人マサニ四恩ヲ知ルヘシ、一ニハ君恩也、二ニハ親恩ナリ、三ニハ師恩ナリ、四ニハ一切衆生ノ恩也、三恩迄ハ儒家ニモ論スル所ナレトモ、四恩ニ至テハ仏家ニ非レハ知ルコト能ハス、五車韻瑞ニ、大乗本経注ヲ引ク、恩有四種、一父母、二師長、三国王、四施主ト云ヘリ、日命云フ所ト異ナリ、当考、凢人此世ニ居ル、鶏ニ因テ時ヲ知リ、犬ニ因テ盗ヲ知リ、牛ヲ以耕シ、馬ヲ以テ載スルヨリ、米穀ノ人ヲ養ヒ、薬石ノ人ヲ治スルニ至ル迄、禽獣草木一切衆生、皆人ニ恩ナキハナシ、是知ラサルヘカラズト、其説甚理アリ、功食スルノ論ニ因テ思起セリ、但シ君父師ノ外更ニ衆生ノ恩ト云ハ、亦是レ異端ノ見ナリ、三恩ヲ離レテ豈更ニ衆生ノ恩アランヤ、三恩ノ外更ニ衆生ノ恩アリト云ハ、即所謂二本ノ説ナリ、夫ハ兎モ角モ、功無シテ食ミ、恩ヲ受テ忘レタラン者ハ、天地間ニ容ルヘカラズ
書き下し
余、江戸獄中に在りて、法華僧日命なる者と同居す。僧常に云ふ、「人まさに四恩を知るべし。一には君恩なり、二には親恩なり、三には師恩なり、四には一切衆生の恩なり。三恩までは儒家にも論ずる所なれども、四恩に至りては仏家に非ざれば知ること能はず」と。五車韻瑞に大乗本経注を引く、「恩に四種有り、一に父母、二に師長、三に国王、四に施主」と云へり。日命云ふ所と異なり、当に考ふべし。「凡そ人此の世に居る、鶏に因りて時を知り、犬に因りて盗を知り、牛を以て耕し、馬を以て載するより、米穀の人を養ひ、薬石の人を治するに至るまで、禽獣草木一切衆生、皆人に恩なきはなし。是れ知らざるべからず」と。其の説甚だ理あり。功に食むの論に因りて思ひ起こせり。但し君父師の外、更に衆生の恩と云ふは、亦是れ異端の見なり。三恩を離れて豈に更に衆生の恩あらんや。三恩の外更に衆生の恩ありと云ふは、即ち所謂二本の説なり。夫れは兎も角も、功無くして食み、恩を受けて忘れたらん者は、天地の間に容るべからず。
現代語訳
私は江戸の獄中で、日命という法華宗の僧と同じ牢にいた。僧はいつも言っていた。「人は四つの恩を知らなければならない。一に君の恩、二に親の恩、三に師の恩、四に一切の生きものの恩である。三つの恩までは儒者も論じるが、四つ目の恩は仏家でなければ知ることができない」と。『五車韻瑞』には『大乗本生心地観経』の注を引いて「恩に四種あり。一に父母、二に師長、三に国王、四に施主」とある。日命の言うところとは違うので、考えてみる必要がある。日命はさらに言った。「およそ人がこの世にいるのは、鶏によって時を知り、犬によって盗人を知り、牛で耕し、馬で荷を運ぶことから、米や穀物が人を養い、薬が人を治すことに至るまで、鳥獣草木あらゆる生きものの恩を受けないものはない。これを知らなければならない」と。その説はたいへん理がある。働きに対して食むという論から思い出したのである。ただし、君・父・師のほかにさらに衆生の恩があると言うのは、やはり異端の見方である。三つの恩を離れて、別に衆生の恩などあろうか。三恩のほかに衆生の恩があると言うのは、いわゆる二本の説である。それはともかく、働きもせずに食べ、恩を受けて忘れるような者は、天地の間に居場所がない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『講孟余話』滕文公下 第四章「志を食ましむるに非ず、功を食ましむるなり」。此の章の論此の二句にあり、而して食功の二字に帰す。其の論明白、復た弁を待たず。唯だ君の臣を養ひ、民の上に奉ずる、既に皆功に食ましむる為めなれば、是れに酬ゆる者将た如何すべき。日々三度の箸を把る毎に、此の食の徒食すべからざるを思ひ、又衣服に付きても居処に付きても器用に付きても、皆此の物徒らに着るべからず、徒らに居るべからず、徒らに用ふべからざるを思はば、豈放辟邪侈の念を生ぜんや。
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『大和俗訓』巻之六・躬行上一およそ天地、父母、主君、聖人の恩、相ならびて至ておもし。此四恩をわすれそむくは、人にあらずと思ふべし。報いずんばあるべからず。これを報いんと思はば、道を学びて行ふにあり。他の道あるべからず。一今の世に、道を教ふる師は有りがたし。もし有らば貴び仕ふべし。道の教をうけたる師は、其恩深きこと君父にひとし。又書を読みならひたる師を、句読の師と云ふ。其労はなはだし。芸術の師は、又其次なり。是等は、君父聖人の恩にはならべ難しといへども、其苦労の恩わするべからず。此外、人の生涯には、恩を受くること多し。およそ人の恩を受けば、心に銘して忘るべからず。一言の情をも感じ、一事の志をも心にかけて思ふべし。人の情あれども感ぜず、人の志をもむなしくするは、無下に心なきなり。
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『翁問答』上卷之本父母如此の慈愛、如此の苦労を積て、子の身を養ひ育てぬれば、人の子の一身毛一筋に至る迄父母千辛万苦の厚恩ならざるはなし、父母の恩徳は天よりも高く海よりも深し、余りに広大無類の恩なる故に、本心の昧き凡夫は報ひん事を忘れて、却て恩あり共恩無き共思はざると見へたり、人間の形ある程の者は、如何なる愚痴不肖の賤男賤女に至る迄も、一飯の恩を報んと思はざるはあるまじ、恩を報んと思ふは孝徳の本心ある故に、其端しの少し顕れたる者なり、本心の孝徳有て、父母の恩を報ん事を忘れぬるは人欲の雲に蔽れて、明徳の日の光り、昧き心の闇に迷ふ故なり、
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『初学訓』巻之二此四恩は人の本なり。人たる者、つねに尊びて忘るべからず。身を終るまで務めて、其恩を必ず報ずべきことなり。四恩に限らず、人倫には、必ず恩をうくる人あり。忘るべからず。一今の世に生るる人、乱世にあはず、治世に住めるは、大なる幸なり。是、世を治め給ふ大君の御めぐみなり。大君は、たとへば、天地を大父母とするが如し。主君の上なる大主君なり。其御威徳によりて、世をさまり、わが身安楽に此世に住めれば、是亦、四民ともに、大恩をかうぶれり。其御めぐみを仰ぎて、忘るべからず。
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『初学訓』巻之二一人倫に交るには、始終あつくすべし、うすくすべからず。或は、始に厚けれど、をはりに薄くするは、人に交る道を失へるなり。君子の交は、久しくしていよいよあつし。凡、人に交るに、四恩あり。又、四本とす。天地の恩、父母の恩、主君の恩、聖人の恩なり。天地は、生の初なり、我を生み、我をやしなひ給ふ大本なり。父母は、生の本なり、主君は、養の本なり、聖人は、教の本なり。天地にあらざれば、生養のはじめなし。父母にあらざれば生れず、主君にあらざれば養はれず、聖人にあらざれば、教なくして人の道を知らず。書をよみ、学問する人は、ことさら聖人の恩あつし。書を読まざる人も、おやには孝すべく、君には忠すべきことを知り、兄弟の愛、夫婦の別を知れるは、天性の良知なれど、又、しかしながら、聖人の教、あまねく我日の本まで伝はれる故なれば、無学の人も、聖人の恩深きことを思ふべし。
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『講孟余話』滕文公上 第五章二には父子と君臣と、善く見ざれば二本になるなり。三には養父と実父と。「人の後たる者は之れが子たり。故に後たる所の為めに斬衰三年を服し、而して其の父母を降して期とす。本祖を尊びて正統を重んずるを明らかにするなり」。是れ実父養父の義なり。善く見ざれば二本になるなり。四には君恩と教道と、善く見ざれば二本になるなり。迂儒の漢土に負最し、奸僧の釈迦に荷担する、皆是れなり。然れども近世文明の化行はれ、聖賢の道に志す者、絶えて此の弊なし。近頃浮屠虞淵なる者の護法小品を読むに、其の論甚だ善し。仏者の見、果して皆渠が如くなれば、二本の患なしと云ふべし。凡そ一本の誤りて二本となること、此の四つの外千百限りなし。今特に其の大なる者を挙ぐるのみ。
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