講孟余話 / 公孫丑上 第六章
此章不忍人ノ心ヨリ、遂ニ四端ノ論ニ及フナリ、不忍人ハ即惻隱ノ心ニシテ、羞惡辞讓是非皆是ヨリ出ル所ナリ、嗚呼人々斯心ナキハアラジ、而テ凢人ハ皆擴充ノ術ヲ知ラズ、以テ聖人ニ及ハサル所ナリ、孺子入井ノ譬、及ヒ梁惠王上篇牽牛ノ說、事大ニ相類ス、宜シク良心発見ノ所ヲ知テ擴充ヲ勤ムベシ、擴充ノ二字是孟子人ヲ教ルノ良術ナリ
新字:此章不忍人ノ心ヨリ、遂ニ四端ノ論ニ及フナリ、不忍人ハ即惻隠ノ心ニシテ、羞悪辞譲是非皆是ヨリ出ル所ナリ、嗚呼人々斯心ナキハアラジ、而テ凢人ハ皆擴充ノ術ヲ知ラズ、以テ聖人ニ及ハサル所ナリ、孺子入井ノ譬、及ヒ梁恵王上篇牽牛ノ説、事大ニ相類ス、宜シク良心発見ノ所ヲ知テ擴充ヲ勤ムベシ、擴充ノ二字是孟子人ヲ教ルノ良術ナリ
書き下し
此の章「人に忍びざるの心」より、遂に四端の論に及ぶなり。人に忍びざるは即ち惻隠の心にして、羞悪・辞譲・是非皆是れより出づる所なり。嗚呼人々斯の心なきはあらじ、而して凡人は皆拡充の術を知らず、以て聖人に及ばざる所なり。孺子井に入るの譬へ、及び梁恵王上篇牛を牽くの説、事大いに相類す。宜しく良心発見の所を知りて拡充を勤むべし。拡充の二字是れ孟子人を教ふるの良術なり。
現代語訳
この章は「人の苦しみを見過ごせない心」から説き起こして、ついに四端の論に及んでいる。人の苦しみを見過ごせない心とは、すなわち惻隠(あわれみ)の心であって、羞悪(恥じ憎む心)・辞譲(へりくだり譲る心)・是非(善悪を見分ける心)はみなここから出てくる。ああ、人にこの心がない者はいない。それなのに凡人はみな、それを押し広げ満たす方法を知らない。それが聖人に及ばないところである。幼な子が井戸に落ちかけるたとえと、梁恵王上篇の牛を引いていく話とは、事柄がたいへんよく似ている。良心がふと現れたところを見つけて、それを押し広げることに努めるべきである。「拡充」の二字こそ、孟子が人を教える優れた方法である。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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孟子・公孫丑章句上孟子曰く、「人皆人に忍びざるの心有り。先王、人に忍びざるの心有り、斯に人に忍びざるの政有り。人に忍びざるの心を以て、人に忍びざるの政を行わば、天下を治むること、之を掌上に運らす可し。人皆人に忍びざるの心有りと謂う所以の者は、今、人乍(たちまち)ち孺子の將に井に入らんとするを見れば、皆怵惕惻隱の心有り。交わりを孺子の父母に内るる所以に非ざるなり。譽を鄉黨朋友に要むる所以に非ざるなり。其の聲を惡んで然るに非ざるなり。是に由りて之を觀れば、惻隱の心無きは、人に非ざるなり。羞惡の心無きは、人に非ざるなり。辭讓の心無きは、人に非ざるなり。是非の心無きは、人に非ざるなり。惻隱の心は、仁の端なり。羞惡の心は、義の端なり。辭讓の心は、禮の端なり。是非の心は、智の端なり。人の是の四端有るや、猶ほ其の四體有るがごときなり。是の四端有りて、而して自ら能わざると謂う者は、自ら賊う者なり。其の君能わずと謂う者は、其の君を賊う者なり。凡そ我に四端有る者は、皆擴して之を充たすことを知る。火の始めて然え、泉の始めて達するが若し。苟くも能く之を充たさば、以て四海を保んずるに足る。苟くも之を充たさざれば、以て父母に事うるに足らず。」
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『大和俗訓』巻之三・心術上一およそ人の心、必仁義礼智の性あるゆるに、良心時におこる。其良心をむなしくせずして、擴充つべし。おしひろめみつとは、善心の僅におこるをそこなはずして、そだて養ひ、さかんならしめ、其分量を十分にみてて、いづくにも行きわたらしむるを云ふ。たとへば水のはじめて流れ出づるを、せき止めずして流し、火のはじめてもえ出づるを打消さずして、さかんにおこらしむるが如くすべし。此良心をおしひろめば、遠き四海ををさめて余あり。おしひろめざれば、近き父母に事ふるだにも足らず。これ孟子の説、殊に親切なるるなり。学者必服膺して、つとめ行ふべし。
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『五常訓』巻之一・総論猶もせちなる事をいはば、孟子の書に見えしごとく、唯今三四歳なる小児が、井のはたにあたりて、智なくして、たちまち井の内におち入らんとするを見ては、如何なる至愚極悪の人も、おどろき悲みて、救はざるは無し。是其子の父母に親あるにあらず、人の子を救ひたるとて、誉を求むるにあらず。又見捨てたりと、人にいはるる悪名をおそるるにもあらず。唯天性にむまれつきたる仁愛のまことの心より出づるなり。これによりて見れば、人皆此善心むまれつきて、心にそなはれる事を知るべし。君子の道を行ふ工夫は、わが心の内にある四端の善心の、少し萌したるを養ひそだてて、外におしひろめ、十分に行ふにあり。たとへば火のはじめてもえ出でたるを打消さずして、ふきおこし熾ならしむれば、ひろき原、大なる山をも焼くが如し。
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孟子・告子章句上公都子曰く、「告子曰く、『性は善も無く不善も無きなり。』或ひと曰く、『性は以て善を為す可く、以て不善を為す可し。是の故に文武興れば、則ち民善を好み、幽厲興れば、則ち民暴を好む。』或ひと曰く、『性善なる有り、性不善なる有り。是の故に堯を以て君と為して、象有り、瞽瞍を以て父と為して舜有り。紂を以て兄の子と為し、且つ以て君と為して、微子啓・王子比干有り。』今、性は善なりと曰う。然らば則ち彼は皆非なるか。」孟子曰く、「乃ち其の情に若えば、則ち以て善を為す可し。乃ち所謂善なり。夫の不善を為すが若きは、才の罪に非ざるなり。惻隱の心は、人皆之れ有り。羞惡の心は、人皆之れ有り。恭敬の心は、人皆之れ有り。是非の心は、人皆之れ有り。惻隱の心は、仁なり。羞惡の心は、義なり。恭敬の心は、禮なり。是非の心は、智なり。仁義禮智は、外由り我を鑠(シャク)するに非ざるなり。我之を固有するなり。思わざるのみ。故に曰く、『求むれば則ち之を得、舍つれば則ち之を失う。』或いは相倍蓰して、算無き者は、其の才を盡くすこと能わざる者なり。詩に曰く、『天の蒸民を生ずる、物有れば則有り。民は夷を秉(とる)る、是の懿德を好む。』孔子曰く、『此の詩を為る者は、其れ道を知れるか。』故に物有れば必ず則有り。民は夷を秉る、故に是の懿德を好む。」
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『講孟余話』告子上 第六章第六章。「乃ち其の情の若きは則ち以て善を為すべし、乃ち所謂善なり。夫の不善を為すが若きは、才の罪に非ざるなり」。孟子の性善を論ずる此の二句あるのみ。然れば善をなすは性なるべけれども、不善を為すは何を以てなすか、遂に説明せず。且つ情は性の動にして、喜怒哀楽の発して節に中るは、中庸の所謂和にして、即ち孟子の所謂善なり。然れども或は節に中らずんば、和に非ず、善に非ず。然れば情は善をなすべきのみに非ず、又不善をもなすべし。是に於て程子曰く、「性を論じて気を論ぜざれば備はらず」、張子曰く、「形ありて後気質の性あり」と。気質の説興りてより孟子性善の説初めて礙る所なし、備はれりと云ふべし。然れども余是に於て孟子と程張と学問の優劣あるを知るべし。程張は議論上の事にて、孟子は事実上の教へなり。孟子の人を教ふる、始終人の性善を引き起こすことを主とす。故に人あり孟子に謁して性悪と云ふ者あれば、孟子教へて云く、汝惻隠の心はなきか、云く、あり。云く、是れ仁なり。汝羞悪の心はなきか、云く、あり。云く、是れ義なり。汝恭敬の心はなきか、云く、あり。云く、是れ礼なり。汝是非の心はなきか、云く、あり。云く、是れ智なり。汝已に仁義礼智を具す、是れ性善にあらずやと。其の人若し貨を好み色を好み楽を好むと云へば、衆と共にするの良心を引き起こし、大欲ありと云へば、心に快きかと云ふ。故に孟子の前にて性悪を主張する者ありとも、其の人々に就きて其の本然の良心を引き起こさるる故、絶えて性悪の説を云ふに暇あらず。孟子の人を教ゆる斯くの如し。程張に至りては、孟子を後立てにして、荀卿・揚雄・韓愈の徒と難を構ふるのみ。其の説愈々備はりて其の実愈々疎なり。
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『五常訓』巻之一・総論一仁義礼智の四徳、古今天下の人の心に、皆生れつきてそなはれる事、何を以てか知るや。四端あるを以て知れり。四端とは、惻隠、羞悪、辞譲、是非を云ふ。是仁義礼智の四徳、心の内にありて、物にふれて自ら心上におこりて、外にあらはるるを云ふ。故に四端と名づく。端とは、物内にありて見えずといへども、其端少し外にあらはれ出づるを以て、其物の内にあることを知るが如し。仁義礼智の性、心の内にありて、いまだ起らざる時は、其有無見るべからずといへども、物に感じておこり、用となるにいたりて、仁は惻隠となり、義は羞悪となり、礼は恭敬となり、智は是非となる。もし内に、仁義礼智の四徳なくんば、必此四端あらはるべからず。内にある故に、外に四端あらはる。
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