五常訓 / 巻之一・総論
一仁義禮智の四德、古今天下の人の心に、皆生れつきてそなはれる事、何を以てか知るや。四端あるを以て知れり。四端とは、惻隱、羞惡、辭讓、是非を云ふ。是仁義禮智の四德、心の内にありて、物にふれて自ら心上におこりて、外にあらはるゝを云ふ。故に四端と名づく。端とは、物内にありて見えずといへども、其端少し外にあらはれ出づるを以て、其物の内にあることを知るが如し。仁義禮智の性、心の内にありて、いまだ起らざる時は、其有無見るべからずといへども、物に感じておこり、用となるにいたりて、仁は惻隱となり、義は羞惡となり、禮は恭敬となり、智は是非となる。もし内に、仁義禮智の四德なくんば、必此四端あらはるべからず。内にある故に、外に四端あらはる。
新字:一仁義礼智の四徳、古今天下の人の心に、皆生れつきてそなはれる事、何を以てか知るや。四端あるを以て知れり。四端とは、惻隠、羞悪、辞譲、是非を云ふ。是仁義礼智の四徳、心の内にありて、物にふれて自ら心上におこりて、外にあらはるゝを云ふ。故に四端と名づく。端とは、物内にありて見えずといへども、其端少し外にあらはれ出づるを以て、其物の内にあることを知るが如し。仁義礼智の性、心の内にありて、いまだ起らざる時は、其有無見るべからずといへども、物に感じておこり、用となるにいたりて、仁は惻隠となり、義は羞悪となり、礼は恭敬となり、智は是非となる。もし内に、仁義礼智の四徳なくんば、必此四端あらはるべからず。内にある故に、外に四端あらはる。
書き下し
一仁義礼智の四徳、古今天下の人の心に、皆生れつきてそなはれる事、何を以てか知るや。四端あるを以て知れり。四端とは、惻隠、羞悪、辞譲、是非を云ふ。是仁義礼智の四徳、心の内にありて、物にふれて自ら心上におこりて、外にあらはるるを云ふ。故に四端と名づく。端とは、物内にありて見えずといへども、其端少し外にあらはれ出づるを以て、其物の内にあることを知るが如し。仁義礼智の性、心の内にありて、いまだ起らざる時は、其有無見るべからずといへども、物に感じておこり、用となるにいたりて、仁は惻隠となり、義は羞悪となり、礼は恭敬となり、智は是非となる。もし内に、仁義礼智の四徳なくんば、必此四端あらはるべからず。内にある故に、外に四端あらはる。
現代語訳
仁義礼智の四徳が、昔も今も天下の人の心にみな生まれつき備わっていることは、何によって知るのでしょうか。四端があることによって知るのです。四端とは、惻隠・羞悪・辞譲・是非をいいます。これは仁義礼智の四徳が心の内にあって、物にふれて自然に心の上に起こり、外に現れることをいいます。ゆえに四端と名づけます。端とは、物が内にあって見えなくても、その端が少し外に現れ出ることによって、その物が内にあることを知るようなものです。仁義礼智の性は、心の内にあってまだ起こらないときは、あるかないかを見ることができませんが、物に感じて起こり、働きとなるに至って、仁は惻隠となり、義は羞悪となり、礼は恭敬となり、智は是非となります。もし内に仁義礼智の四徳がなければ、必ずこの四端は現れないはずです。内にあるから、外に四端が現れるのです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『五常訓』巻之一・総論是を以て、人心に四徳ある証とすべし。惻隠は、いたみいたむと訓む。人のうれひ苦むを見ては、あはれみいたむを云ふ。是仁の心のあらはるる端なり。もし人の憂苦を見ながら、あはれむ心無くんば、仁無きなり。羞悪とは、はぢにくむと訓む。悪むとは嫌ふなり。わが不義なるを恥ぢ、人の不義なるを嫌ふ。是義の端なり。もし人の不義をきらはず、わが不義を恥ぢずんば、義なきなり。辞譲は、我が身に取るを辞退して受けざるは辞なり。人にゆづりて与ふるは譲なり。飲食するを以ていはば、飲食を辞して、まづ人にゆづり与ふるを云ふ。是礼の端なり。もし譲らずして、争ひうばはば、是禽獣のわざにして、礼にあらず。是非とは、事の善なるをば善と知りて是とし、不善なるをば不善と知りて非とす。
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『五常訓』巻之一・総論是智の端なり。もし是非をわきまへずんば、智なきなり。此四端は、人となれる者は必あり。此四端あるを以て、仁義礼智内にあることを知るべし。又如何なる愚なる人も、親を愛し、君をたふとび、兄を敬ひ、弟をあはれみ、善をほめ、悪を悪まざる者なし。是仁義あればなり。飢寒する人を見ては、あはれむ心おこるは、仁あればなり。又小人といへども、我がいつはりあらはれ、不義を人に知らるれば、赤面し、汗をながす。是義あればなり。凡かやうの類、物にふれて、善心おこること多し。みづから心見て知るべし。皆是仁義礼智の四徳を生れつきたるにあらずや。ここを以て、孟子は、人の性は善なりとのたまふ。もし五常の徳なくんば、何ぞ性は善なりといはんや。
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『五常訓』巻之二・仁之上一四徳四端、いづれも四の者をならべ説くといへども、其はじめ、まづ仁心なければ、必義礼智なし。惻隠の心なくては、生理ほろび、心かたくなに愚にして、羞悪辞譲是非の端もおこらず。たとへば石の頑にして、生気もなく、心もなきが如し。俗語に、物のあはれを知らざるは、木石の如しといへるが如し。又身のなえしびれたる所は、刀にてつき、火にてやけども痛をおほえざるが如し。仁は生理なり、あはれみなり。あはれみ無くて、物のあはれを知らざる人は、義理もなく、礼もなく、知慧もなきものなり。是惻隠なければ四端なし。惻隠の四端を兼ねたる所なり。
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孟子・公孫丑章句上孟子曰く、「人皆人に忍びざるの心有り。先王、人に忍びざるの心有り、斯に人に忍びざるの政有り。人に忍びざるの心を以て、人に忍びざるの政を行わば、天下を治むること、之を掌上に運らす可し。人皆人に忍びざるの心有りと謂う所以の者は、今、人乍(たちまち)ち孺子の將に井に入らんとするを見れば、皆怵惕惻隱の心有り。交わりを孺子の父母に内るる所以に非ざるなり。譽を鄉黨朋友に要むる所以に非ざるなり。其の聲を惡んで然るに非ざるなり。是に由りて之を觀れば、惻隱の心無きは、人に非ざるなり。羞惡の心無きは、人に非ざるなり。辭讓の心無きは、人に非ざるなり。是非の心無きは、人に非ざるなり。惻隱の心は、仁の端なり。羞惡の心は、義の端なり。辭讓の心は、禮の端なり。是非の心は、智の端なり。人の是の四端有るや、猶ほ其の四體有るがごときなり。是の四端有りて、而して自ら能わざると謂う者は、自ら賊う者なり。其の君能わずと謂う者は、其の君を賊う者なり。凡そ我に四端有る者は、皆擴して之を充たすことを知る。火の始めて然え、泉の始めて達するが若し。苟くも能く之を充たさば、以て四海を保んずるに足る。苟くも之を充たさざれば、以て父母に事うるに足らず。」
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『初学訓』巻之一一仁義礼智の真実にして偽なき理を信といふ。信はまことなり。まことなければ、仁義礼智も偽となり、万の善も、皆あだことなり。仁義礼智の四徳に、信をくはへて五常とす。又、五性といふ。性とは、心に生れつきたる理なり。此五性は、万世まで人にうまれつきて、かはらざる理なれば、五常といふ。百行万善、皆五常より出づ。五常を以て、万善をかねたり。人の心とするは、此五にあり。此外に心を求むるは、天地聖人の道にあらず。
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『五常訓』巻之一・総論一孝弟、忠順、愛敬などは、皆仁義礼智の性より行ひ出せる道理にして、其理は五常の性の内にあり。性の条目にはあらず。人の性は唯仁なり。わかてば五常となる。一人たるもの、必五常の性を生れつきたれば、事物にふれて、必四端おこる。たとへば物の中にありて、其はしの少し外に見ゆるが如し。性は見えがたしといへども、外にあらはるる四端を以て、内に実に此性あることの証とすべし。孟子の、性は善也と説き給へるも、五常の性あればなり。人の性善なる故、人もし学問し、道を知りて行はば、堯舜の聖にもいたるべしとなり。この故に、程子曰く、孟子の万世に功有る者は、性善の一言なり。
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