講孟余話 / 梁惠王下 第十二章
鬨ハ鬪声也ト註セリ、盖シ鄒魯ノ兩軍相逼リ、未タ兵刄相接スルニ至ラズ、鯨波噇ト起リタルニテ、鄒軍一散ニ潰走シ將吏三十三人潰兵ノ跡ニ殘リテ擊殺サルヽナリ、固ヨリ力戰シテ死スルニ非ズ、若シ兵家ヲシテ是ヲ議セシメハ必ズ云ン、操練熟セス節制整ハスシテ是ニ至ルト、是本ヲ知ラサルノ論ナリ、故ニ孟子曰、君行仁政、斯民親其上、死其長矣、盖シ民心上ヲ親ム、故ニ上ノ令ニ從フコト臂ノ指ヲ使フカ如シ、長ニ死スル故ニ水火ノ中ヲ避ケズ、果シテ然ラハ我兵一塊石ノ如シ、此一塊石ノ兵ヲ以テ敵ニ當ル、克タサル所ナシ、所謂操練節制論セズシテ固ヨリ其中ニ存ス、孟子ノ言豈虛ナランヤ、又案スルニ古來名將ノ勝ツ所以ヲ観ルニ、大抵將吏、身士卒ニ先ンジ、堅陣強敵ヘ驀然ト驅入ル、士卒等大將ヲ討セテハト皆我先ニ衝蒐ル、是ニ因テ勢声猛烈ニシテ斉一、向フ所敵ナシ、是ヲ以テ上ヲ親ミ長ニ死スルノ兵ニ非サレハ用ベカラス、後世是ヲ知ラズシテ、勝ヲ器械節制ノ末ニ求ム、我其何ノ意ナルヲ知ラズ
新字:鬨ハ闘声也ト註セリ、盖シ鄒魯ノ両軍相逼リ、未タ兵刄相接スルニ至ラズ、鯨波噇ト起リタルニテ、鄒軍一散ニ潰走シ将吏三十三人潰兵ノ跡ニ残リテ撃殺サルヽナリ、固ヨリ力戦シテ死スルニ非ズ、若シ兵家ヲシテ是ヲ議セシメハ必ズ云ン、操練熟セス節制整ハスシテ是ニ至ルト、是本ヲ知ラサルノ論ナリ、故ニ孟子曰、君行仁政、斯民親其上、死其長矣、盖シ民心上ヲ親ム、故ニ上ノ令ニ従フコト臂ノ指ヲ使フカ如シ、長ニ死スル故ニ水火ノ中ヲ避ケズ、果シテ然ラハ我兵一塊石ノ如シ、此一塊石ノ兵ヲ以テ敵ニ当ル、克タサル所ナシ、所謂操練節制論セズシテ固ヨリ其中ニ存ス、孟子ノ言豈虚ナランヤ、又案スルニ古来名将ノ勝ツ所以ヲ観ルニ、大抵将吏、身士卒ニ先ンジ、堅陣強敵ヘ驀然ト駆入ル、士卒等大将ヲ討セテハト皆我先ニ衝蒐ル、是ニ因テ勢声猛烈ニシテ斉一、向フ所敵ナシ、是ヲ以テ上ヲ親ミ長ニ死スルノ兵ニ非サレハ用ベカラス、後世是ヲ知ラズシテ、勝ヲ器械節制ノ末ニ求ム、我其何ノ意ナルヲ知ラズ
書き下し
鬨は闘声なりと註せり。蓋し鄒魯の両軍相逼り、未だ兵刃相接するに至らず、鯨波どうと起こりたるにて、鄒軍一散に潰走し、将吏三十三人潰兵の跡に残りて撃ち殺さるるなり、固より力戦して死するに非ず。若し兵家をして是れを議せしめば必ず云はん、操練熟せず節制整はずして是れに至ると。是れ本を知らざるの論なり。故に孟子曰く、君仁政を行はば、斯の民其の上に親しみ、其の長に死せんと。蓋し民心上を親しむ、故に上の令に従ふこと臂の指を使ふが如し。長に死する故に水火の中を避けず。果して然らば我が兵一塊石の如し。此の一塊石の兵を以て敵に当たる、克たざる所なし。所謂操練節制、論ぜずして固より其の中に存す、孟子の言豈に虚ならんや。又案ずるに、古来名将の勝つ所以を観るに、大抵将吏身士卒に先んじ、堅陣強敵へ驀然と駆け入る。士卒等大将を討たせてはと皆我先に衝き蒐る。是れに因りて勢声猛烈にして斉一、向かふ所敵なし。是れを以て上を親しみ長に死するの兵に非ざれば用ふべからず。後世是れを知らずして、勝ちを器械節制の末に求む、我其の何の意なるを知らず。
現代語訳
鬨とは戦の声だと注にある。思うに鄒と魯の両軍が迫り合い、まだ刃を交えないうちに、ときの声がどっと上がっただけで、鄒の軍は一斉に逃げ散り、役人三十三人が逃げた兵の後に残されて討ち殺されたのである。もとより力戦して死んだのではない。もし兵法家にこれを論じさせれば、必ず「訓練が足りず、統制が整っていなかったからだ」と言うだろう。これは根本を知らない議論である。だから孟子は言った。「君が仁政を行えば、民は上に親しみ、長のために死ぬだろう」と。思うに民の心が上に親しんでいるので、上の命令に従うことは、腕が指を使うようである。長のために死ぬので、水や火の中も避けない。本当にそうなら、わが兵は一つの固い石のようである。この一塊の石のような兵で敵に当たれば、勝てないところはない。いわゆる訓練や統制は、論じなくても、もとからその中にある。孟子の言葉がどうしてむなしかろうか。また考えるに、昔の名将が勝ったわけを見ると、たいてい将や役人が兵より先に立って、堅い陣や強い敵へまっしぐらに駆け入る。兵たちは大将を討たせてなるものかと、みな我先に突きかかる。そのため勢いと声が激しく一つにそろい、向かうところ敵がない。だから上に親しみ長のために死ぬ兵でなければ、役に立たない。後世はこれを知らずに、勝ちを武器や統制という末のことに求める。私にはそれが何のつもりなのか分からない。
解説
この章句が説くこと
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