講孟余話 / 梁惠王下 第九章
此章二喩、前喩ノ如クナレハ国家ヲ視ルコト、巨室ニ如カサルナリ、後喩ノ如クナレハ、国家ヲ視ルコト璞玉ニ如カサルナリ、輕重ヲ失ヒ本末ヲ忘ルヽ、亦甚シト云ベシ、其故何ソヤ從我ノ二字ニ過キズ、從我ノ心ハ何ヨリ起ルト尋ルニ、私欲ノミ、故ニ私欲ノ念能ク人ヲシテ国家ヲ視ルコト巨室璞玉ニモ及ハサラシム、類ヲ以テ是ヲ推セハ、人間今日ノ事、斯ノ如キ者甚衆シ、畏ルヘキカナ愼ムヘキカナ
新字:此章二喩、前喩ノ如クナレハ国家ヲ視ルコト、巨室ニ如カサルナリ、後喩ノ如クナレハ、国家ヲ視ルコト璞玉ニ如カサルナリ、軽重ヲ失ヒ本末ヲ忘ルヽ、亦甚シト云ベシ、其故何ソヤ従我ノ二字ニ過キズ、従我ノ心ハ何ヨリ起ルト尋ルニ、私欲ノミ、故ニ私欲ノ念能ク人ヲシテ国家ヲ視ルコト巨室璞玉ニモ及ハサラシム、類ヲ以テ是ヲ推セハ、人間今日ノ事、斯ノ如キ者甚衆シ、畏ルヘキカナ慎ムヘキカナ
書き下し
此の章二喩、前喩の如くなれば国家を視ること巨室に如かざるなり、後喩の如くなれば国家を視ること璞玉に如かざるなり。軽重を失ひ本末を忘るる、亦甚しと云ふべし。其の故何ぞや、我に従への二字に過ぎず。我に従ふの心は何より起こると尋ぬるに、私欲のみ。故に私欲の念、能く人をして国家を視ること巨室璞玉にも及ばざらしむ。類を以て是れを推せば、人間今日の事、斯くの如き者甚だ衆し。畏るべきかな、慎むべきかな。
現代語訳
この章には二つのたとえがある。前のたとえのようであれば、国家を大きな家を建てることにも及ばないものと見ていることになり、後のたとえのようであれば、国家を磨く前の玉にも及ばないものと見ていることになる。物事の軽重を見失い、本と末を忘れるのも、はなはだしいと言うべきである。そのわけは何か。「我に従え」の一言にすぎない。自分に従えという心はどこから起こるかとたずねれば、私欲だけである。だから私欲の念は、人に、国家を大きな家や玉ほどにも見させなくしてしまう。同じ類で推し量れば、今日の世の中にも、このようなことがたいへん多い。恐るべきことだ、慎むべきことだ。
解説
この章句が説くこと
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