講孟余話 / 梁惠王下 首章
今之樂由古之樂也、臣請爲王言樂、或疑フ今之樂由古之樂也トイヘハ、孔子ノ樂則韶舞ト云ヒ、放鄭声ト云、皆非カ、且臣請爲王言樂ト云テ、鼓樂ノ事ノミナラズ、田獵ノ事ニモ及フハ何ソヤ、荅曰、今之樂由古之樂也ト云ハ、大區別ヲ云也、大區別トハ民ト樂ヲ同フスルト樂ヲ同フセサルトノ區別ナリ、故ニ民ト樂ヲ同フスル時ハ韶濩ニテモ鄭衞ニテモ皆可ナリ、樂ヲ同フセサル時ハ韶護ニテモ鄭衞ニテモ皆不可ナリト云意ニテ、此章ハ樂ノ善悪ハ姑ク置テ、樂ヲ同フスルト同フセサルトノ善悪ヲ區別スルナリ、若シ孟子ヲシテ細カニ樂ノ善悪ヲ論セシメハ、固亦孔子ノ論ノ如キノミ、然トモ其実ハ樂ハ樂ナリ、和樂ヲ本トス、故ニ爲王言樂ト云モ樂ノ本ヲ論スルナリ、鼓樂ニモセヨ、田獵ニモセヨ、民心、上ノスル所ヲ樂ムニテコソ樂ノ本ナレ、乃チ上篇第二章ノ文王麋鹿魚鼈ノ如キ皆眞ノ樂ト云ヘシ、此意ヲ知テ此章ヲ読ム時ハ何ノ疑カアラン、
新字:今之楽由古之楽也、臣請為王言楽、或疑フ今之楽由古之楽也トイヘハ、孔子ノ楽則韶舞ト云ヒ、放鄭声ト云、皆非カ、且臣請為王言楽ト云テ、鼓楽ノ事ノミナラズ、田猟ノ事ニモ及フハ何ソヤ、荅曰、今之楽由古之楽也ト云ハ、大区別ヲ云也、大区別トハ民ト楽ヲ同フスルト楽ヲ同フセサルトノ区別ナリ、故ニ民ト楽ヲ同フスル時ハ韶濩ニテモ鄭衛ニテモ皆可ナリ、楽ヲ同フセサル時ハ韶護ニテモ鄭衛ニテモ皆不可ナリト云意ニテ、此章ハ楽ノ善悪ハ姑ク置テ、楽ヲ同フスルト同フセサルトノ善悪ヲ区別スルナリ、若シ孟子ヲシテ細カニ楽ノ善悪ヲ論セシメハ、固亦孔子ノ論ノ如キノミ、然トモ其実ハ楽ハ楽ナリ、和楽ヲ本トス、故ニ為王言楽ト云モ楽ノ本ヲ論スルナリ、鼓楽ニモセヨ、田猟ニモセヨ、民心、上ノスル所ヲ楽ムニテコソ楽ノ本ナレ、乃チ上篇第二章ノ文王麋鹿魚鼈ノ如キ皆真ノ楽ト云ヘシ、此意ヲ知テ此章ヲ読ム時ハ何ノ疑カアラン、
書き下し
今の楽は由ほ古の楽のごときなり。臣請ふ王の為めに楽を言はん。或ひと疑ふ、今の楽は由ほ古の楽のごときなりといへば、孔子の楽は則ち韶舞と云ひ、鄭声を放てと云ふ、皆非か。且つ臣請ふ王の為めに楽を言はんと云ひて、鼓楽の事のみならず、田猟の事にも及ぶは何ぞや。答へて曰く、今の楽は由ほ古の楽のごときなりと云ふは、大区別を云ふなり。大区別とは、民と楽を同じうすると楽を同じうせざるとの区別なり。故に民と楽を同じうする時は、韶濩にても鄭衛にても皆可なり。楽を同じうせざる時は、韶濩にても鄭衛にても皆不可なりと云ふ意にて、此の章は楽の善悪は姑く置きて、楽を同じうすると同じうせざるとの善悪を区別するなり。若し孟子をして細かに楽の善悪を論ぜしめば、固より亦孔子の論の如きのみ。然れども其の実は楽は楽なり、和楽を本とす。故に王の為めに楽を言はんと云ふも楽の本を論ずるなり。鼓楽にもせよ、田猟にもせよ、民心、上のする所を楽しむにてこそ楽の本なれ。乃ち上篇第二章の文王の麋鹿魚鼈の如き、皆真の楽と云ふべし。此の意を知りて此の章を読む時は、何の疑ひかあらん。
現代語訳
「今の音楽も、昔の音楽と同じようなものです。王のために音楽について申し上げましょう」。ある人が疑う。今の音楽も昔の音楽と同じと言うなら、孔子が「音楽は舜の韶の舞がよい」と言い、「鄭の音楽を追い払え」と言ったのは、みな間違いなのか。しかも「王のために音楽について申し上げよう」と言いながら、鼓や楽器のことだけでなく、狩りのことにまで話が及ぶのはなぜか。答えよう。「今の音楽も昔の音楽と同じ」というのは、大きな区別を言っているのである。大きな区別とは、民と楽しみを共にするか、共にしないかの区別である。民と楽しみを共にするなら、聖王の韶や濩の音楽でも、鄭や衛の俗な音楽でも、みなよい。共にしないなら、韶や濩でも鄭や衛でも、みないけない。この章は、音楽そのものの善し悪しはひとまず置いて、楽しみを共にするか共にしないかの善し悪しを区別しているのである。もし孟子に音楽の善し悪しを細かく論じさせれば、もちろん孔子の論と同じになるだろう。しかし本当のところ、音楽は楽しみであり、和やかに楽しむことを根本とする。だから王のために音楽を語るというのも、楽しみの根本を論じているのである。鼓楽であれ狩りであれ、民の心が、上の者のすることを共に楽しむことこそが楽しみの根本である。つまり上篇第二章の、文王の大鹿や魚や亀のようなものは、みな真の楽しみと言うべきである。この意味を知ってこの章を読めば、何の疑いもない。
解説
この章句が説くこと
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『十善法語』巻第四・不妄語戒左伝ニ。八音ヲ節ニシテ八風ヲ行フトアリ。書経ニ。夔カ石ヲ拊擊スレハ。百獣率ヰ舞トアル。毗奈耶雑事ニ。緊那羅女ヨリ伝ヘシ箜篌ノ第一絃ヲ奏スルトキ。船舶破砕シ。商人悉ク漂没ストアル。又史記ニ。晋ノ平公音ヲ好ム。師曠カ黄帝合鬼神ノ楽ヲ奏ス。晋ノ国三年旱スト有ル。殷ノ紂王カ靡靡ノ楽ヲ作ル。是ニ由テ国ヲ亡スト云コトシヤ。此等ヲモ虚言トハカリ云レヌシヤ。近代書生ノ類カ大言ヲ好テ古人ヲ排シ。此般ノ事ヲ疑フハ。古ヲ信スルコトノナキト云ヘシ。孔子モ信シテ古ヲ好ムトアル。古ヲハ信スヘキコトシヤ。
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『墨子』三辯程繁、子墨子に問いて曰く、「『聖王は樂を為さず』と。昔、諸侯は聴治に倦めば、鍾鼔の樂に息い、士大夫は聴治に倦めば、竽瑟の樂に息い、農夫は春に耕し夏に耘り、秋に斂め冬に蔵むれば、聆缶の樂に息う。今、夫子は『聖王は樂を為さず』と曰う。此れ之を譬うるに猶お馬駕して稅かず、弓張りて弛めざるがごとし。乃ち血氣有る者の至る能わざる所に非ざる無からんや」と。子墨子曰く、「昔者、堯舜に《第期》なる者有り、且つ以て禮と為し、且つ以て樂と為す。湯、桀を大水に放ち、天下を環りて自ら立ちて以て王と為り、事成り功立ちて、大いなる後患無し。自ら樂を作り、命じて《九招》と曰う。武王、殷に勝ち紂を殺し、天下を環りて自ら立ちて以て王と為り、事成り功立ちて、大いなる後患無し。先王の樂に因り、又た自ら樂を作り、命じて《象》と曰う。周の成王は先王の樂に因り、命じて《騶虞》と曰う。周の成王の天下を治むるや、武王に若かず。武王の天下を治むるや、成湯に若かず。成湯の天下を治むるや、堯舜に若かず。故に其の樂の逾いよ繁き者は、其の治、逾いよ寡し。此れより之を觀れば、樂は天下を治むる所以に非ざるなり」と。
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論語・八佾篇子、魯の太師に楽を語りて曰く、『楽は其れ知る可し。始め作せば翕(きゅう)の如く、之れに従えば純の如く、繹(えき)の如くして以て成る。』
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