講孟余話 / 梁惠王上 第七章
請フ心身上ニ於テ猛省スヘキ者ヲ說ン、無恒產而有恒心者、惟士爲能ト、此一句ニテ士道ヲ悟ルベシ、諺ニ云、武士ハ食ネド高楊枝ト叉此意ナリ、然トモ是レ武士ヘノ教ト云ニハ非ズ、武士ノ有樣ナリ、武士ト云者ハ、飢テモ寒テモ、吾ガ持前ノ心懸ヲ失ワヌ程ノ事ハ申マテモナキコトニテ、教ト云ニハ足ラヌコトナリ、特ニ本邦ニテハ武義ヲ以テ本トシ、中世以來武門武士ト唱ヘ、專ラ武道武義ヲ勵ムコトナレバ、是程ノ事ハ三歲ノ小兒モ辨ヘ知ルコトナルヘケレハ、今更教ト云ニ及バヌコトナリ、
新字:請フ心身上ニ於テ猛省スヘキ者ヲ説ン、無恒産而有恒心者、惟士為能ト、此一句ニテ士道ヲ悟ルベシ、諺ニ云、武士ハ食ネド高楊枝ト叉此意ナリ、然トモ是レ武士ヘノ教ト云ニハ非ズ、武士ノ有様ナリ、武士ト云者ハ、飢テモ寒テモ、吾ガ持前ノ心懸ヲ失ワヌ程ノ事ハ申マテモナキコトニテ、教ト云ニハ足ラヌコトナリ、特ニ本邦ニテハ武義ヲ以テ本トシ、中世以来武門武士ト唱ヘ、専ラ武道武義ヲ励ムコトナレバ、是程ノ事ハ三歳ノ小児モ弁ヘ知ルコトナルヘケレハ、今更教ト云ニ及バヌコトナリ、
書き下し
請ふ、心身上に於て猛省すべき者を説かん。恒産無くして恒心有る者は惟だ士のみ能くすと為すと、此の一句にて士道を悟るべし。諺に云ふ、武士は食はねど高楊枝と、亦此の意なり。然れども是れ武士への教と云ふには非ず、武士の有様なり。武士と云ふ者は、飢ゑても寒えても、吾が持前の心懸けを失はぬ程の事は申すまでもなきことにて、教と云ふには足らぬことなり。特に本邦にては武義を以て本とし、中世以来武門武士と唱へ、専ら武道武義を励むことなれば、是れ程の事は三歳の小児も弁へ知ることなるべければ、今更教と云ふに及ばぬことなり。
現代語訳
では、自分の心身について猛省すべきことを説こう。「定まった財産がなくても定まった心を持ち続けられるのは、ただ士だけができる」。この一句で士の道を悟るべきである。ことわざに「武士は食わねど高楊枝」と言うのも、この意味である。しかしこれは武士への教えというより、武士のありさまそのものである。武士というものは、飢えても凍えても、自分のもともとの心がけを失わないことなど言うまでもないことで、教えと呼ぶほどのことではない。とりわけわが国では武の義を根本とし、中世以来武門・武士と称して、もっぱら武道と武義に励んできたのだから、これくらいのことは三歳の子どもでもわきまえているはずで、いまさら教えというまでもない。
解説
この章句が説くこと
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