国語 / 楚語下
子西使人召王孫勝,沈諸梁聞之,見子西曰:「聞子召王孫勝,信乎?」曰:「然。」子高曰:「將焉用之?」曰:「吾聞之,勝直而剛,欲寘之境。」 子高曰:「不可。其為人也,展而不信,愛而不仁,詐而不智,毅而不勇,直而不衷,周而不淑。復言而不謀身,展也;愛而不謀長,不仁也;以謀蓋人,詐也;彊忍犯義,毅也;直而不顧,不衷也;周言棄德,不淑也。是六德者,皆有其華而不實者也,將焉用之。 「彼其父為戮於楚,其心又狷而不絜。若其狷也,不忘舊怨,而不以絜悛德,思報怨而已。則其愛也足以得人,其展也足以復之,其詐也足以謀之,其直也足以帥之,其周也足以蓋之,其不絜也足以行之,而加之以不仁,奉之以不義,蔑不克矣。 「夫造勝之怨者,皆不在矣。若來而無寵,速其怒也。若其寵之,毅貪無厭,既能得入,而耀之以大利,不仁以長之,思舊怨以修其心,苟國有釁,必不居矣。非子職之,其誰乎?彼將思舊怨而欲大寵,動而得人,怨而有術,若果用之,害可待也。余愛子與司馬,故不敢不言。」
新字:子西使人召王孫勝,沈諸梁聞之,見子西曰:「聞子召王孫勝,信乎?」曰:「然。」子高曰:「将焉用之?」曰:「吾聞之,勝直而剛,欲寘之境。」 子高曰:「不可。其為人也,展而不信,愛而不仁,詐而不智,毅而不勇,直而不衷,周而不淑。復言而不謀身,展也;愛而不謀長,不仁也;以謀蓋人,詐也;彊忍犯義,毅也;直而不顧,不衷也;周言棄徳,不淑也。是六徳者,皆有其華而不実者也,将焉用之。 「彼其父為戮於楚,其心又狷而不絜。若其狷也,不忘旧怨,而不以絜悛徳,思報怨而已。則其愛也足以得人,其展也足以復之,其詐也足以謀之,其直也足以帥之,其周也足以蓋之,其不絜也足以行之,而加之以不仁,奉之以不義,蔑不克矣。 「夫造勝之怨者,皆不在矣。若来而無寵,速其怒也。若其寵之,毅貪無厭,既能得入,而耀之以大利,不仁以長之,思旧怨以修其心,苟国有釁,必不居矣。非子職之,其誰乎?彼将思旧怨而欲大寵,動而得人,怨而有術,若果用之,害可待也。余愛子与司馬,故不敢不言。」
書き下し
子西(しせい)人をして王孫勝(おうそんしょう)を召さしむ。沈諸梁(しんしょりょう)之を聞き、子西に見えて曰く、「子、王孫勝を召すと聞く、信(まこと)なるか」と。曰く、「然り」と。子高曰く、「将(は)た焉(いずく)んぞ之を用いん」と。曰く、「吾之を聞く、勝は直にして剛なりと。之を境に寘(お)かんと欲す」と。 子高曰く、「不可なり。其の人と為りや、展(まこと)にして信ならず、愛して仁ならず、詐(いつわ)りて智ならず、毅(き)にして勇ならず、直にして衷(ちゅう)ならず、周にして淑(よ)からず。言を復(ふ)みて身を謀らざるは、展なり。愛して長を謀らざるは、不仁なり。謀を以て人を蓋(おお)うは、詐なり。彊忍(きょうにん)にして義を犯すは、毅なり。直にして顧みざるは、不衷なり。言を周(あまね)くして徳を棄つるは、不淑なり。是の六徳なる者は、皆其の華有りて実ならざる者なり。将た焉んぞ之を用いん。 「彼其の父は楚に戮せられ、其の心又狷(けん)にして絜(いさぎよ)からず。若し其れ狷なれば、旧怨を忘れずして、絜を以て徳に悛(あらた)めず、怨みを報ぜんことを思うのみ。則ち其の愛や以て人を得るに足り、其の展や以て之を復むに足り、其の詐や以て之を謀るに足り、其の直や以て之を帥(ひき)いるに足り、其の周や以て之を蓋うに足り、其の不絜や以て之を行うに足る。而して之に加うるに不仁を以てし、之を奉ずるに不義を以てせば、克たざること蔑(な)し。 「夫れ勝の怨みを造(な)す者は、皆在らず。若し来たりて寵無くんば、其の怒りを速(まね)かん。若し其れ之を寵せば、毅にして貪り厭くこと無く、既に能く入るを得て、之に耀かすに大利を以てし、不仁以て之を長じ、旧怨を思いて以て其の心を修めば、苟くも国に釁(きん)有らば、必ず居らざらん。子の之を職(つかさど)るに非ずんば、其れ誰ぞや。彼将に旧怨を思いて大寵を欲し、動きて人を得、怨みて術有らんとす。若し果たして之を用いば、害待つべきなり。余は子と司馬とを愛す。故に敢えて言わずんばあらず」と。
現代語訳
子西(楚の令尹、平王の子)が人をやって王孫勝(平王の太子建の子)を呼び寄せようとした。沈諸梁(葉公子高、楚の大夫)はこれを聞いて子西に会いに行き、「あなたが王孫勝を呼び寄せると聞きましたが、本当ですか」と尋ねた。子西は「そうだ」と答えた。子高が「いったい彼を何に使うおつもりですか」と言うと、子西は「勝は真っすぐで剛毅な人物だと聞いている。国境の守りに置こうと思う」と答えた。 子高は言った。「なりません。あの人となりは、誠実そうでいて信がなく、人を愛するようでいて仁がなく、策略を用いても智がなく、果断でいて勇がなく、真っすぐでいて中正を欠き、行き届いているようでいて善良ではありません。言ったことを必ず実行して我が身の損得を顧みないのが、彼の『誠実』です。人を愛しても先々のことを考えないのが、彼の『仁ならざる』ところです。策謀によって人を覆い隠すのが、彼の『詐り』です。無理を押し通して義を踏みにじるのが、彼の『果断』です。真っすぐではあっても周りを顧みないのが、中正を欠くところです。言葉は行き届いていても徳を捨てているのが、善良でないところです。この六つの徳は、どれも花だけあって実を結ばないものです。いったい彼を何に使うというのですか。 「そのうえ彼の父(太子建)は楚で罪人とされて殺され、彼の心はかたくなで清廉さを欠いています。かたくなであれば古い恨みを忘れず、清廉さによって徳へ改めることもなく、ただ恨みを晴らすことばかり考えるでしょう。そうなれば、その愛は人を引きつけるに足り、その誠実は約束を実行するに足り、その詐りは謀をめぐらすに足り、その真っすぐさは人を率いるに足り、その周到さは悪事を覆い隠すに足り、その清廉さの欠如はそれを実行するに足ります。そこへ不仁を加え、不義で推し進めれば、成し遂げられないことはありません。 「勝の恨みの元をつくった人々は、もう誰も生きていません。もし呼び寄せて厚く遇さなければ、かえって彼の怒りを早めるでしょう。逆に厚く遇すれば、果断で貪欲なうえに飽くことを知らず、すでに国内に入り込んでいるところへ大きな利をちらつかせ、不仁がそれを増長させ、古い恨みを思って心を固めるでしょう。そうなれば、ひとたび国にすきが生じたとき、彼は決してじっとしてはいません。その禍いを一身に受けるのは、あなたでなくて誰でしょうか。彼は古い恨みを忘れずに大きな地位を望み、動けば人を得、恨みを抱いて策を持っています。本当に彼を用いれば、害は目に見えています。私はあなたと司馬(子西の弟の子期)を大切に思っています。だからこそ、言わずにはいられないのです」
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』哀公七年 信と仁の二徳對へて曰く、「豈に以て禮と為さんや。大國を畏るるなり。大國禮を以て諸侯に命ぜず。苟も禮を以てせずんば、豈に量るべけんや。寡君既に命に共(きょう)せり。其の老豈に敢へて其の國を棄てんや。大伯は端委して以て周禮を治む。仲雍之を嗣ぎ、髮を斷ち身に文し、臝(はだか)を以て飾りと為す。豈に禮ならんや。由りて然る有るなり」と。鄫より反りて、吳を以て能く為す無しと為す。季康子邾を伐たんと欲し、乃ち大夫を饗して以て之を謀る。子服景伯曰く、「小の大に事ふる所以は、信なり。大の小を保つ所以は、仁なり。大國に背くは不信、小國を伐つは不仁なり。民は城に保ち、城は德に保つ。二德を失ふ者は、危し。將た焉くにか保たん」と。孟孫曰く、「二三子以て何如と為す。惡んぞ賢にして之に逆はんや」と。對へて曰く、「禹、諸侯を塗山に合し、玉帛を執る者萬國。今其の存する者は、數十も無し。唯だ大は小を字(いつく)しまず、小は大に事へざればなり。必ず危ふきを知る、何の故に言はざらん。魯の德は邾の如くにして、眾を以て之に加ふ。可ならざらんや」と。樂しまずして出づ。
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『春秋左氏伝』昭公十二年 克己復礼王出でて復た語る。左史倚相趨りて過ぐ。王曰く、「是れ良史なり。子善く之を視よ。是れ能く三墳・五典・八索・九丘を讀む」と。對へて曰く、「臣嘗て焉に問ふ。昔穆王其の心を肆にせんと欲し、天下を周行して、將に皆必ず車轍馬跡有らしめんとす。祭公謀父祈招の詩を作りて、以って王の心を止む。王是を以って祗宮に沒するを獲たり。臣其の詩を問ひて知らざるなり。若し遠きを問はば、其れ焉んぞ能く之を知らん」と。王曰く、「子能くするか」と。對へて曰く、「能くす。其の詩に曰く、『祈招の愔愔たる、式て德音を昭らかにす。我が王の度を思ふ、式て玉の如く、式て金の如し。民の力を形りて、醉飽の心無し』と」と。王揖して入り、饋れども食はず、寢ぬれども寐ねず、數日自ら克つこと能はず、以って難に及ぶ。仲尼曰く、「古や志有り、『己に克ちて禮に復るは、仁なり』と。信に善きかな。楚の靈王若し能く是くの如くならば、豈に其れ乾谿に辱められんや」と。晉鮮虞を伐つ。肥の役に因るなり。
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史記 殷本紀紂曰く、「我生まれて命の天に在る有らずや」と。祖伊反りて、曰く、「紂諫む可からず」と。西伯既に卒し、周の武王の東伐して、盟津に至る。諸侯の殷に叛きて周に会する者八百。諸侯皆曰く、「紂伐つ可し」と。武王曰く、「爾未だ天命を知らず」と。乃ち復た帰る。紂愈淫乱して止まず。微子数諫むるも聴かず、乃ち大師・少師と謀り、遂に去る。比干曰く、「人臣為る者は、死を以て争はざるを得ず」と。迺ち強ひて紂を諫む。紂怒りて曰く、「吾聞く、聖人の心に七竅有りと」と。比干を剖き、其の心を観る。箕子懼れ、乃ち詳狂して奴と為る。紂又之を囚ふ。殷の大師・少師乃ち其の祭楽器を持ちて周に奔る。周の武王是に於て遂に諸侯を率ゐて紂を伐つ。紂も亦兵を発して之を牧野に距ぐ。甲子の日、紂の兵敗る。紂走り、入りて鹿台に登り、其の宝玉の衣を衣て、火に赴きて死す。
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史記 張丞相列伝帝、太子を廃して、戚姫の子如意を立てて太子と為さんと欲するに及び、大臣固く之を争へども、能く得る莫し。上、留侯の策を以て即ち止む。而して周昌廷に之を争ふこと彊し。上其の説を問ふ。昌は人と為り吃(ども)りにして、又盛んに怒りて曰く、「臣の口は言ふこと能はず。然れども臣期期として其の不可なるを知る。陛下太子を廃せんと欲すと雖も、臣期期として詔を奉ぜず」と。上欣然として笑ふ。既に罷むるや、呂后東箱に耳を側てて聴き、周昌を見て、為に跪きて謝して曰く、「君微(な)かりせば、太子幾(ほと)んど廃せられん」と。是の後戚姫の子如意、趙王と為り、
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史記 田叔列伝魯の相初めて到るや、民自ら相に言ひ、王の其の財物を取るを訟ふる者百余人。田叔其の渠率二十人を取り、各々笞うつこと五十、余は各々搏つこと二十、之を怒りて曰く、「王は若の主に非ずや。何ぞ自ら敢へて若の主を言ふ」と。魯王之を聞きて大いに慚ぢ、中府の銭を発し、相をして之を償はしむ。相曰く、「王自ら之を奪ひ、相をして之を償はしむるは、是れ王悪を為して相善を為すなり。相は与に之を償ふ毋し」と。是に於て王乃ち尽く之を償ふ。魯王猟を好み、相常に従ひて苑中に入る。王輒ち相を休ませて館舎に就かしむ。相出でて、常に暴坐して王を苑外に待つ。王数々人をして相に休まんことを請はしむるも、終に休まず。曰く、「我が王苑中に暴露す。我独り何為れぞ舎に就かん」と。魯王故を以て大いには出游せず。
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史記 白起王翦列伝是の時、武安君病み、行くに任へず。四十九年正月、陵、邯鄲を攻むるも、利少なし。秦益々兵を発して陵を佐く。陵の兵、五校を亡ふ。武安君病愈ゆ、秦王、武安君をして陵に代はりて将たらしめんと欲す。武安君言ひて曰く、「邯鄲は実に未だ攻め易からざるなり。且つ諸侯の救ひ日に至らん。彼の諸侯の秦を怨むの日久し。今、秦は長平の軍を破ると雖も、秦の卒の死する者は半ばを過ぎ、国内空し。遠く河山を絶りて人の国都を争はば、趙はその内に応じ、諸侯はその外を攻めん。秦の軍を破ること必せり。不可なり」と。秦王自ら命ずるも、行かず。乃ち応侯をしてこれを請はしむ、武安君終に辞して行くことを肯んぜず、遂に病と称す。秦王、王齕をして陵に代はりて将たらしめ、八九月、邯鄲を囲むも、抜く能はず。楚、春申君及び魏の公子をして兵数十万を将ゐて秦の軍を攻めしむ、秦の軍失亡多し。武安君言ひて曰く、「秦、臣の計を聴かず、今如何ぞや」と。秦王これを聞きて怒り、彊ひて武安君を起こす、武安君遂に病甐しと称す。応侯これを請ふも、起たず。是に於いて武安君を免じて士伍と為し、これを陰密に遷す。武安君病み、未だ行く能はず。居ること三月、諸侯秦の軍を攻むること急にして、秦の軍数々卻き、使者日に至る。秦王乃ち人をして白起を遣らしめ、咸陽の中に留まるを得ざらしむ。武安君既に行き、咸陽の西門を出づること十里、杜郵に至る。秦の昭王、応侯・群臣と議して曰く、「白起の遷るや、その意尚ほ怏怏として服せず、余言有り」と。秦王乃ち使者をしてこれに剣を賜ひ、自裁せしむ。武安君、剣を引きて将に自ら剄ねんとして、曰く、「我何の罪ありて天に于いて此に至るや」と。良久しくして、曰く、「我固より当に死すべし。長平の戦ひ、趙の卒の降る者数十万人、我詐りて尽くこれを阬にす、是れ以て死するに足る」と。遂に自殺す。武安君の死するや、秦の昭王五十年十一月を以てす。死して其の罪に非ず、秦人これを憐れみ、郷邑皆これを祭祀す。
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