国語 / 鄭語
幽王八年而桓公為司徒,九年而王室始騷,十一年而斃。及平王之末,而秦、晉、齊、楚代興,秦景、襄於是乎取周土,晉文侯於是乎定天子,齊莊、僖於是乎小伯,楚蚠冒于是乎始啟濮。
新字:幽王八年而桓公為司徒,九年而王室始騷,十一年而斃。及平王之末,而秦、晋、斉、楚代興,秦景、襄於是乎取周土,晋文侯於是乎定天子,斉荘、僖於是乎小伯,楚蚠冒于是乎始啓濮。
書き下し
幽王の八年にして桓公司徒と為り、九年にして王室始めて騒がしく、十一年にして斃(たお)る。平王の末に及びて、秦・晋・斉・楚代わるがわる興る。秦の景・襄是に於てか周の土を取り、晋の文侯是に於てか天子を定め、斉の荘・僖是に於てか小伯たり、楚の蚠冒(ふんぼう)是に於てか始めて濮(ぼく)を啓く。
現代語訳
幽王の八年に桓公は司徒となり、九年に王室ははじめて乱れ始め、十一年に幽王は倒れた。平王の末年になると、秦・晋・斉・楚が入れ替わるように興った。秦の景公(荘公)と襄公はこのとき周の旧領を手に入れ、晋の文侯はこのとき天子(平王)の位を定め、斉の荘公と僖公はこのとき諸侯の小さな旗頭となり、楚の蚠冒はこのとき初めて濮の地を切り開いた。
解説
鄭語の末尾に置かれた短い結びで、前章までの史伯の予言がどう当たったかを年代で示す。桓公が司徒となった幽王八年から三年目の十一年に幽王は倒れ、「三稔ならず」という見通しがそのとおりになった。続いて平王の末には、史伯が興ると言った秦・晋・斉・楚がそろって台頭したことを並べる。秦は周の旧領を得て諸侯となり、晋の文侯は東遷した平王を支え、斉の荘公・僖公は小さな覇者となり、楚の蚠冒は南の濮の地を開いた。韋昭は「秦の景」について、景は荘の誤りであり、秦仲の子で襄公の父の荘公を指すと注している。予言の書としての鄭語は、この数行で答え合わせをして閉じる構成になっている。先を読んだ者の言葉は、結果が出たときに初めて重みを持つ。見通しを語るなら、後で検証できる形で語れということでもある。
この章句が説くこと
国語鄭語予言興亡覇者
関連する章句
-
史記 鄭世家鄭の桓公友は、周の厲王の少子にして宣王の庶弟なり。宣王立ちて二十二年、友初めて鄭に封ぜらる。封ぜられて三十三歳、百姓皆便とし之を愛す。幽王以て司徒と為す。周民を和集し、周民皆説び、河雒の閒、人便とし之を思ふ。司徒と為りて一歳、幽王褒后の故を以て、王室の治多く邪にして、諸侯或いは之に畔く。是に於て桓公、太史伯に問ひて曰く、「王室故多し、予安くにか死を逃れん」と。太史伯対へて曰く、「独り雒の東土、河済の南居るべし」と。公曰く、「何を以てか」と。対へて曰く、「地は虢・鄶に近し。虢・鄶の君は貪にして利を好み、百姓附かず。今公は司徒為り、民皆公を愛す。公誠に之に居らんことを請はば、虢・鄶の君、公の方に事を用ふるを見て、軽々しく公に地を分たん。公誠に之に居らば、虢・鄶の民は皆公の民なり」と。公曰く、「吾南のかた江上に之かんと欲す、何如」と。対へて曰く、「昔祝融は高辛氏の火正と為り、其の功大なり。而して其の周に於ては未だ興る者有らず。楚は其の後なり。周衰へば、楚必ず興らん。興らば、鄭の利に非ざるなり」と。公曰く、「吾西方に居らんと欲す、何如」と。対へて曰く、「其の民貪にして利を好む。久しく居り難し」と。公曰く、「周衰へば、何の国か興る者ぞ」と。対へて曰く、「斉・秦・晋・楚か。夫れ斉は姜姓、伯夷の後なり。伯夷は堯を佐けて礼を典る。秦は嬴姓、伯翳の後なり。伯翳は舜を佐けて百物を懐柔す。楚の先に及ぶまで、皆嘗て天下に功有り。而して周の武王紂に克ちて後、成王叔虞を唐に封ず。其の地阻険なり。此の有徳を以て周の衰ふると并び、亦必ず興らん」と。桓公曰く、「善し」と。是に於て卒に王に言ひ、東のかた其の民を雒の東に徙す。而して虢・鄶果たして十邑を献じ、竟に之を国とす。二歳にして、犬戎幽王を驪山の下に殺し、并せて桓公を殺す。鄭人共に其の子掘突を立つ、是を武公と為す。武公十年、申侯の女を娶りて夫人と為す、武姜と曰ふ。
-
史記 周本紀是に於て諸侯乃ち申侯に即きて共に故の幽王の太子宜臼を立つ。是を平王と為し、以て周の祀を奉ず。平王立ちて、東のかた雒邑に遷り、戎寇を辟く。平王の時、周室衰微し、諸侯彊は弱を并せ、斉・楚・秦・晋始めて大きく、政は方伯に由る。四十九年、魯の隠公即位す。五十一年、平王崩ず。太子洩父早く死し、其の子林を立つ。是を桓王と為す。桓王は、平王の孫なり。桓王の三年、鄭の荘公朝す。桓王礼せず。五年、鄭怨み、魯と許田を易ふ。許田は、天子の太山に事を用ゐるの田なり。八年、魯隠公を殺し、桓公を立つ。十三年、鄭を伐つ。鄭桓王を射傷し、桓王去りて帰る。二十三年、桓王崩じ、子荘王佗立つ。荘王の四年、周公黒肩荘王を殺して王子克を立てんと欲す。辛伯王に告げ、王周公を殺す。王子克燕に奔る。十五年、荘王崩じ、子釐王胡斉立つ。釐王の三年、斉の桓公始めて霸たり。五年、釐王崩じ、子恵王閬立つ。恵王の二年。初め、荘王姚を嬖姫とし、子穨を生む。穨寵有り。恵王即位するに及び、其の大臣の園を奪ひて以て囿と為す。故に大夫辺伯等五人乱を作し、燕・衛の師を召して、恵王を伐たんと謀る。恵王温に犇り、已にして鄭の櫟に居る。釐王の弟穨を立てて王と為す。楽して徧舞に及ぶ。鄭・虢の君怒る。四年、鄭と虢の君王穨を伐ちて殺し、復た恵王を入る。恵王の十年、斉の桓公に賜ひて伯と為す。二十五年、恵王崩じ、子襄王鄭立つ。襄王の母蚤く死し、後母を恵后と曰ふ。恵后叔帯を生み、恵王に寵有り、襄王之を畏る。三年、叔帯戎・翟と謀りて襄王を伐たんとす。襄王叔帯を誅せんと欲し、叔帯斉に奔る。斉の桓公管仲をして戎を周に平らげしめ、隰朋をして戎を晋に平らげしむ。王上卿の礼を以て管仲を礼す。
-
国語・周語上「古は、先王既に天下を有(たも)ち、又上帝・明神を崇(たか)く立てて之を敬事す。是に於いてか朝日・夕月有りて以て民に君に事うることを教う。諸侯は春秋に職を王に受けて以て其の民に臨み、大夫・士は日に位著(いちょ)に恪(つつし)みて以て其の官を儆(いまし)め、庶人・工・商は各其の業を守りて以て其の上に共す。猶お其の墜失有らんことを恐る。故に車服・旗章を為(つく)りて以て之を旌(あら)わし、贄幣(しへい)・瑞節を為りて以て之を鎮(しず)め、班爵・貴賤を為りて以て之を列し、令聞・嘉誉を為りて以て之を声(な)らす。猶お散・遷・懈慢(かいまん)にして刑辟に著われ、裔土(えいど)に流さるる有り。是に於いてか蛮・夷の国有り、斧鉞(ふえつ)・刀墨の民有り。而るを況んや以て其の身を淫縦す可けんや。 「夫れ晋侯は嗣に非ずして、其の位を得たり。亹亹(びび)怵惕(じゅってき)し、保任戒懼するも、猶お未だしと曰う。若し将に其の心を広くして其の鄰を遠ざけ、其の民を陵(しの)ぎて其の上を卑しめば、将に何を以て固く守らんとするか。 「夫れ玉を執ること卑きは、其の贄を替(す)つるなり。拝して稽首せざるは、其の王を誣(し)うるなり。贄を替つれば鎮無く、王を誣うれば民無し。夫れ天の事は恒に象(しめ)す。任重く享大なる者は必ず速やかに及ぶ。故に晋侯王を誣うれば、人も亦将に之を誣いんとす。其の鎮を替てんと欲すれば、人も亦将に之を替てんとす。大臣其の禄を享けて、諫めずして之に阿(おもね)る、亦必ず及ばん」と。 襄王三年にして晋侯を立て、八年にして韓に隕(お)ち、十六年にして晋人懐公を殺す。懐公冑(ちゅう)無く、秦人子金・子公を殺す。
-
『長短経』運命又た曰く「鄭の桓公友は、周の厲王の少子なり。幽王以て司徒と為す。太史伯に問いて曰く『王室故多し。予安くにか死を逃れん。吾南のかた江上に之かんと欲す。何如』と。対えて曰く『昔、祝融は高辛の火正と為る。其の功大なり。而して其の周に於けるや、未だ興る者有らず。楚は其の後なり。周衰うれば、楚必ず興らん。興るは鄭の利に非ざるなり』と。公曰く『周衰うれば、何れの国か興らん』と。対えて曰く『斉・秦・晋・楚か。夫れ斉は姜姓、伯夷の後なり。伯夷は堯を佐けて礼を典る。秦は嬴氏、伯翳の後なり。伯翳は舜を佐けて、百物を懐柔す。楚の先に及ぶまで、皆嘗て天下に功有り。而して武王は虞叔を唐に封ず。其の地険にして、阻むに此を以てし徳有り。若し周衰うれば、並びに必ず興らん』と」と。按ずるに、周公・馬遷・太史伯の談は、興亡・長短は必ず徳に依ることを言うなり。
-
国語・鄭語桓公(かんこう)司徒と為り、甚だ周の衆と東土の人とを得たり。史伯(しはく)に問いて曰く、「王室故(こと)多し、余及ばんことを懼る。其れ何れの所か以て死を逃るべき」と。史伯対えて曰く、「王室将に卑(ひく)からんとし、戎・狄必ず昌(さか)んならん、偪(せま)るべからざるなり。成周に当たる者は、南に荊蛮・申・呂・応・鄧・陳・蔡・随・唐有り。北に衛・燕・狄・鮮虞(せんぐ)・潞(ろ)・洛・泉・徐・蒲有り。西に虞・虢(かく)・晋・隗(かい)・霍・楊・魏・芮(ぜい)有り。東に斉・魯・曹・宋・滕・薛・鄒・莒(きょ)有り。是れ王の支子・母弟・甥舅に非ざれば、則ち皆蛮・荊・戎・狄の人なり。親に非ざれば則ち頑なり、入るべからざるなり。其れ済・洛・河・潁(えい)の間か。是れ其の子男の国、虢・鄶(かい)を大と為す。虢叔は勢を恃み、鄶仲は険を恃む。是れ皆驕侈怠慢の心有りて、之に加うるに貪冒を以てす。君若し周の難の故を以て、孥(ど)と賄とを寄せば、敢えて許さずんばあらず。周乱れて弊れ、是れ驕りて貪らば、必ず将に君に背かんとす。君若し成周の衆を以て、辞を奉じて罪を伐たば、克たざること無からん。若し二邑に克たば、鄔(う)・弊・補・舟・依・𪑶・歴・華は、君の土なり。若し華を前にし河を後にし、洛を右にし済を左にし、芣(ふ)・騩(かい)を主として溱(しん)・洧(い)に食み、典刑を修めて以て之を守らば、是れ以て少しく固かるべし」と。 公曰く、「南方は不可なるか」と。対えて曰く、「夫れ荊子熊厳(ゆうげん)子四人を生む。伯霜・仲雪・叔熊・季紃(きじゅん)なり。叔熊は難を濮(ぼく)に逃れて蛮となり、季紃是れ立つ。薳氏(いし)将に之を起こさんとするも、禍又克たず。是れ天之が心を啓くなり。又甚だ聡明和協にして、其の先王を蓋(おお)う。臣之を聞く、天の啓く所は、十世替(すた)れず、と。夫れ其の子孫必ず光(おお)いに土を啓かん、偪るべからざるなり。且つ重・黎(ちょう・れい)の後なり。夫れ黎は高辛氏の火正と為り、淳燿敦大なるを以て、天明地徳、四海を光照す。故に之に命じて『祝融(しゅくゆう)』と曰う。其の功大なり。
-
国語・鄭語王婦人をして幃(い)せずして之を譟(さわ)がしむ。化して玄黿(げんげん)と為り、以て王府に入る。府の童妾未だ齓(しん)を既(つ)くさずして之に遭い、既に笄(けい)して孕み、宣王の時に当たりて生む。夫あらずして育(う)む、故に懼れて之を棄つ。弧服を為る者方(まさ)に戮せられんとして路に在り、夫婦其の夜号(な)くを哀れみて、之を取りて以て逸し、褒に逃る。褒人褒姁(ほうく)獄有りて、以て王に入る。王遂に之を置きて、是の女を嬖(へい)し、后と為るに至らしめて伯服を生む。天の此を生ずること久し、其の毒たること大なり。将に淫徳を候(うかが)いて之に加えんとす。毒の酋腊(しゅうせき)なる者は、其の殺すこと滋(ますます)速やかなり。申・繒(そう)・西戎方に彊く、王室方に騒がし。将に以て欲を縦(ほしいまま)にせんとす、亦難からずや。王太子を殺して以て伯服を成さんと欲せば、必ず之を申に求めん。申人畀(あた)えずんば、必ず之を伐たん。若し申を伐たば、繒と西戎と会して以て周を伐ち、周守らざらん。繒と西戎と方に将に申を徳とせんとし、申・呂方に彊し。其の太子を隩愛(いくあい)すること亦必ず知るべきなり。王師若し在らば、其の之を救うこと亦必然なり。王心怒り、虢公従う。凡そ周の存亡は、三稔(さんじん)ならず。君若し其の難を避けんと欲せば、其れ速やかに所を規(はか)れ。時至りて用を求むるも、恐らくは及ぶ無からん」と。 公曰く、「若し周衰えなば、諸姫其れ孰か興らん」と。対えて曰く、「臣之を聞く、武は実に文の功を昭らかにす。文の祚(そ)尽きなば、武其れ嗣がんか。武王の子は、応・韓在らず、其れ晋に在らんか。険に距(よ)りて小に隣す、若し之に加うるに徳を以てせば、以て大いに啓くべし」と。公曰く、「姜・嬴其れ孰か興らん」と。対えて曰く、「夫れ国大にして徳有る者は興るに近し。秦仲・斉侯は、姜・嬴の雋(しゅん)なり、且つ大なり、其れ将に興らんとするか」と。公説(よろこ)び、乃ち東のかた帑(ど)と賄とを寄す。虢・鄶之を受け、十邑皆寄地有り。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る