長短経 / 運命
又曰、「鄭桓公友者、周厲王之少子也。幽王以為司徒、問太史伯曰、『王室多故、予安逃死乎、吾欲南之江上、何如?』對曰、『昔祝融為髙辛火正、其功大矣。而其於周、未有興者。楚、其後也。周衰、楚必興、興非鄭之利也。』公曰、『周衰、何國興?』對曰、『齊、秦、晉、楚乎!夫齊、姜姓、伯夷之後也。伯夷佐堯典禮。秦、嬴氏、伯翳之後也。伯翳佐舜、懐柔百物。及楚之先、皆甞有功於天下。而武王封虞叔於唐、其地險、阻以此有徳。若周衰、並必興矣。』」按、周公、馬遷、太史伯之談、言興亡、長短、必依徳矣。
新字:又曰、「鄭桓公友者、周厲王之少子也。幽王以為司徒、問太史伯曰、『王室多故、予安逃死乎、吾欲南之江上、何如?』対曰、『昔祝融為高辛火正、其功大矣。而其於周、未有興者。楚、其後也。周衰、楚必興、興非鄭之利也。』公曰、『周衰、何国興?』対曰、『斉、秦、晋、楚乎!夫斉、姜姓、伯夷之後也。伯夷佐堯典礼。秦、嬴氏、伯翳之後也。伯翳佐舜、懐柔百物。及楚之先、皆甞有功於天下。而武王封虞叔於唐、其地険、阻以此有徳。若周衰、並必興矣。』」按、周公、馬遷、太史伯之談、言興亡、長短、必依徳矣。
書き下し
又た曰く「鄭の桓公友は、周の厲王の少子なり。幽王以て司徒と為す。太史伯に問いて曰く『王室故多し。予安くにか死を逃れん。吾南のかた江上に之かんと欲す。何如』と。対えて曰く『昔、祝融は高辛の火正と為る。其の功大なり。而して其の周に於けるや、未だ興る者有らず。楚は其の後なり。周衰うれば、楚必ず興らん。興るは鄭の利に非ざるなり』と。公曰く『周衰うれば、何れの国か興らん』と。対えて曰く『斉・秦・晋・楚か。夫れ斉は姜姓、伯夷の後なり。伯夷は堯を佐けて礼を典る。秦は嬴氏、伯翳の後なり。伯翳は舜を佐けて、百物を懐柔す。楚の先に及ぶまで、皆嘗て天下に功有り。而して武王は虞叔を唐に封ず。其の地険にして、阻むに此を以てし徳有り。若し周衰うれば、並びに必ず興らん』と」と。按ずるに、周公・馬遷・太史伯の談は、興亡・長短は必ず徳に依ることを言うなり。
現代語訳
また『史記』に言う。「鄭の桓公友は周の厲王の末子で、幽王は彼を司徒にした。桓公は太史伯に問うた。『王室には事件が多い。私はどこへ行けば死を逃れられるか。南の長江のほとりへ行きたいがどうか』。太史伯は答えた。『昔、祝融は高辛氏の火の官としてその功は大きかったのに、周の時代にはまだその子孫で興った者がいません。楚はその子孫です。周が衰えれば楚は必ず興ります。楚が興るのは鄭にとって利ではありません』。桓公が『周が衰えたら、どの国が興るか』と問うと、太史伯は答えた。『斉・秦・晋・楚でしょう。斉は姜姓で伯夷の子孫です。伯夷は堯を助けて礼をつかさどりました。秦は嬴氏で伯翳の子孫です。伯翳は舜を助けてあらゆる物をなつけました。楚の祖先に至るまで、皆かつて天下に功がありました。また武王は虞叔を唐に封じましたが、その地は険しく、それに加えて徳があります。周が衰えれば、これらは皆必ず興るでしょう』」。考えてみると、周公・司馬遷・太史伯の話は、興亡や長短は必ず徳によると言っている。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『長短経』運命〔議に曰く、夫れ吉凶は人に由り、興亡は徳に在り。前載に稽うるに、其の徳に在ること必せり。今、論者は堯・舜の嗣無きを以て、以為えらく命に在りと。此れ繆れり。何となれば、夫れ佐命の功臣は、必ず興る者有り。若し子に伝えしむれば、則ち功臣の徳廃る。何を以て之を言う。昔、鄭の桓公、太史伯に問いて曰く「周衰うれば、何れの国か興らん」と。対えて曰く「昔、祝融は高辛の火正と為る。其の功大なり。而して其の周に於けるや、未だ興る者有らず。楚は其の後なり。周衰うれば、楚必ず興らん。斉は姜姓、伯夷の後なり。伯夷は堯を佐けて礼を典る。秦は嬴姓、伯翳の後なり。伯翳は舜を佐けて百物を懐柔す。若し周衰うれば、並びに必ず興らん」と。是を以て班固の典引に云う「陶唐は胤を捨てて有虞に禅り、有虞も亦た夏后・稷・契に命じて載を煕め、成湯・武に越ぶ。股肱既に周く、天乃ち功を元首に帰し、将に漢の劉に授けんとす」と。此に由りて之を言えば、安くにか其の嗣無きに在らんや。
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『長短経』運命史記陳世家に曰く「陳は舜の後なり。周の武王之を陳に封ず」と。太史公云う「舜の徳は至れり。夏に禅りて、後世血食する者、三代を歴たり。楚の陳を滅ぼすに及びて、田氏は政を斉に得、卒に建国を為し、百世絶えず」と。又た南越伝に云う「越は蛮夷なりと雖も、其の先豈に嘗て大功徳を人に有せんや。何ぞ其れ久しきや。数代を歴て、嘗て君王たり、勾践一たび伯を称す。蓋し禹の烈なり」と。
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『長短経』運命按ずるに、孫卿・墨翟・尉繚の説は、吉凶禍福は人に在ることを言うなり。周公、成王を誡めて曰く「昔、殷王中宗は、人を治むるに祇懼し、敢えて荒寧せず、国を享くること七十年。其の高宗に在りては、殷邦を嘉靖し、小大に至るまで、時に或いは怨むこと無く、国を享くること五十九年。其の祖甲に在りては、爰に小人の衣食を知り、能く庶人を保恵し、鰥寡を侮らず、国を享くること三十有三年。時れより厥の後、立王は生まれて則ち逸し、惟れ耽楽に之れ従い、亦た克く寿なる或る罔し。或いは十年、或いは七八年、或いは三四年。嗚呼、嗣王其れ茲に鑒みよ」と。
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『長短経』運命又た曰く「彼の戎狄なる者は、人面獣心、晏安鴆毒にして、誅殺を以て道徳と為し、烝報を仁義と為す。金行の競わざりしより、天地板蕩し、遂に瀍洛を覆し、五都を傾く。嗚呼、福善禍淫は徒に虚言なるのみ」と。此の論に拠りて、戎狄の内侵を以て、便ち命に由ると謂う。此れ所謂徳を量らざる者なり。何となれば、昔、秦の穆公、戎人由余に問いて曰く「中国は詩・書・礼・楽・法度を以て政を為す。然れども尚お時に乱る。今、戎夷は此無し。何を以て理を為すや」と。由余笑いて曰く「乃ち中国の乱るる所以なり。夫れ上聖黄帝より礼楽法度を作為し、身以て之に先んずるも、僅かに小しく理まるべし。其の後世に及びて、日に以て驕淫し、法度の盛んなるを阻みて以て下に責督す。下罷極すれば、則ち仁義を以て上を怨望す。上下交々争い怨みて相簒殺し、宗を滅ぼすに至る。皆此の類なり。夫れ戎狄は則ち然らず。上は淳徳を含みて、以て下に遇し、下は忠信を懐きて、以て其の上に事う。一国の政は、猶お一身の治のごとし。治むる所以を知らず。此れ真に聖人の治なり」と。夫れ戎狄の徳は此くの如き者有り。
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呂氏春秋・先識④晉の太史屠黍、晉の亂を見、晉公の驕りて德義無きを見るや、其の圖法を以て周に歸す。周の威公見て焉に問いて曰く、「天下の國孰れか先づ亡びん。」對えて曰く、「晉先づ亡びん。」威公其の故を問う。對えて曰く、「臣比晉に在るや、敢て直言せず。晉公に示すに天妖、日月星辰の行、多く以て當ならざるを以てす。曰く、『是れ何ぞ能く為さん。』又示すに、人事に不義多くして、百姓皆鬱怨するを以てす。曰く、『是れ何ぞ能く傷つけん。』又示すに鄰國服せずして、賢良舉げられざるを以てす。曰く、『是れ何ぞ能く害せん。』是きの如くなれば、是れ亡ぶる所以を知らざるなり。故に臣、晉先づ亡びん、と曰うなり。」居ること三年にして、晉果して亡ぶ。威公又屠黍を見て焉に問いて曰く、「孰れか之に次かん。」對えて曰く、「中山之に次がん。」威公、其の故を問う。對えて曰く、「天民を生じて別に有らしむ。別有るは、人の義なり。禽獸麋鹿に異なる所にして、君臣上下の立つ所以なり。中山の俗は、晝を以て夜と為し、夜を以て日に繼ぎ、男女切倚して、固より休息無く、康樂して、歌謠は悲を好む。其の主惡むを知らず。此れ亡國の風なり。臣故に、中山之に次がん、と曰う。」居ること二年にして、中山果して亡ぶ。威公又屠黍を見て焉に問いて曰く、「孰れか之に次かん。」屠黍對えず。威公固く焉に問う。對えて曰く、「君之に次がん。」威公乃ち懼れ、國の長者を求め、義蒔・田邑を得て之を禮し、史驎・趙駢を得て以て諫臣と為し、苛令三十九物を去り、以て屠黍に告ぐ。對えて曰く、「其れ尚わくは君の身を終えんか。」曰く、「臣之を聞く、國の興るや、天、之に賢人と極言の士とを遺り、國の亡ぶるや、天、之に亂人と善諛の士とを遺る、と。」威公薨じ、肂して、九月葬るを得ず。周乃ち分かれて二と為る。故に有道者の言は、重んぜざる可からざるなり。
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『長短経』七雄略幽・平より後、日に以て陵夷し、爵禄は多く陪臣より出で、征伐は天子に由らず。呉は越に并せらる。〈越王勾践、呉を敗り、呉王を甬東に遷して、百家を与えて之に君たらしめんと欲す。呉王曰く「孤は老いたり。君に事うる能わず」と。王、遂に自剄して死す。越王、呉を滅ぼす。〉晋は分かれて三と為る。〈六卿、公室を弱めんと欲し、遂に法を以て尽く羊舌氏の族を滅ぼし、其の邑を分かちて十県と為し、六卿、各々其の子を以て大夫と為す。晋、益々弱く、六卿皆な大なり。哀公四年、趙襄子・韓康子・魏桓子、共に智伯を殺し、尽く其の地を分かつ。烈公十九年に至り、周の威王、趙・韓・魏に賜いて皆な命じて諸侯と為す。晋、遂に滅ぶ。〉鄭は韓に兼ねらる。〈鄭の桓公は、周の厲王の少子なり。幽王、以て司徒と為す。太史伯に問いて曰く「王室に故多し。予、安くにか死を逃れんや」と。太史伯曰く「独り雒の東土、河済の南のみ居る可し」と。公曰く「何如」と。対えて曰く「地は虢・鄶に近し。虢・鄶の君は貪にして利を好み、百姓附かず。今、公は司徒と為り、民は皆な公を愛す。請う、試みに之に居らば、民は皆な公の民ならん」と。桓公曰く「善し」と。竟に之を国とす。後世の君乙に至り、韓の哀侯の滅ぼす所と為り、其の国を并す。鄭、遂に亡ぶ。〉