国語 / 晋語八
秦后子來奔,趙文子見之,問曰:「秦君道乎?」對曰:「不識。」文子曰:「公子辱於敝邑,必避不道也。」對曰:「有焉。」文子曰:「猶可以久乎?」對曰:「鍼聞之,國無道而年穀龢熟,鮮不五稔。」文子視日曰:「朝夕不相及,誰能俟五!」文子出,后子謂其徒曰:「趙孟將死矣!夫君子寬惠以卹後,猶恐不濟。今趙孟相晉國,以主諸侯之盟,思長世之德,歷遠年之數,猶懼不終其身;今忨日而㵣歲,怠偷甚矣,非死逮之,必有大咎。」冬,趙文子卒。
新字:秦后子来奔,趙文子見之,問曰:「秦君道乎?」対曰:「不識。」文子曰:「公子辱於敝邑,必避不道也。」対曰:「有焉。」文子曰:「猶可以久乎?」対曰:「鍼聞之,国無道而年穀龢熟,鮮不五稔。」文子視日曰:「朝夕不相及,誰能俟五!」文子出,后子謂其徒曰:「趙孟将死矣!夫君子寛恵以卹後,猶恐不済。今趙孟相晋国,以主諸侯之盟,思長世之徳,歴遠年之数,猶懼不終其身;今忨日而㵣歳,怠偸甚矣,非死逮之,必有大咎。」冬,趙文子卒。
書き下し
秦の后子(こうし)来奔す。趙文子之に見えて、問いて曰く、「秦君道あるか」と。対えて曰く、「識らず」と。文子曰く、「公子敝邑(へいゆう)に辱くするは、必ず不道を避くるならん」と。対えて曰く、「焉(これ)有り」と。文子曰く、「猶以て久しかるべきか」と。対えて曰く、「鍼(けん)之を聞く、国道無くして年穀龢熟(わじゅく)すれば、五稔(ごじん)ならざること鮮(すく)なし、と」と。文子日を視て曰く、「朝夕相及ばず。誰か能く五を俟(ま)たん」と。文子出づ。后子其の徒に謂いて曰く、「趙孟(ちょうもう)将に死せんとす。夫れ君子は寛恵にして以て後を卹(うれ)うるも、猶済(な)らざらんことを恐る。今趙孟晋国に相として、以て諸侯の盟を主(つかさど)る。長世の徳を思い、遠年の数を歴(ふ)るも、猶其の身を終えざらんことを懼る。今日を忨(ぬす)みて歳を㵣(おそ)くす。怠偷(たいとう)甚だし。死之に逮(およ)ぶに非ずんば、必ず大咎(たいきゅう)有らん」と。冬、趙文子卒す。
現代語訳
秦の后子(鍼、景公の弟)が晋に亡命してきた。趙文子(趙武)は后子に会って尋ねた。「秦の君は道にかなった政治をしておられるか。」后子は「存じません」と答えた。趙文子は「公子がわが国にお越しくださったのは、きっと無道を避けてのことでしょう」と言った。后子は「そういうこともあります」と答えた。趙文子が「それでも秦の君はまだ長く続くだろうか」と尋ねると、后子は答えた。「わたし鍼の聞くところでは、国に道がなくても、その年の穀物がよく実っていれば、五年はもたないことはまれだそうです。」趙文子は日影を見やって言った。「朝には夕べのことも分からぬ身だ。誰が五年も待てようか。」趙文子が退出すると、后子は従者たちに言った。「趙孟(趙文子)はまもなく死ぬだろう。そもそも君子は寛大で恵み深く、後の世のことまで気にかけても、なお成し遂げられないのではないかと恐れるものだ。いま趙孟は晋の国の宰相として諸侯の盟約を主宰している。長く世を保つ徳を思い、遠い年月を見通して治めても、なお天寿を全うできないのではないかと恐れるべき立場だ。それなのに、その日その日をかりそめに過ごして、年月を無為に延ばしている。怠りと投げやりがひどすぎる。死が迫っているのでなければ、必ず大きな災いがあるだろう。」その年の冬、趙文子は亡くなった。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』昭公元年 后子、秦の命運を語る秦の后子は桓に寵有り、景に於いて二君の如し。其の母曰く、「去らずんば選(せ)めらるるを懼る」と。癸卯、鍼晉に適く。其の車千乘。書して「秦伯の弟鍼晉に出奔す」と曰ふは、秦伯を罪するなり。后子晉侯を享す。舟を河に造(なら)べ、十里にして車を舍(お)き、雍より絳に及ぶ。歸りて酬幣を取り、事を終ふるまで八たび反る。司馬侯焉に問ひて曰く、「子の車は此に盡くるのみか」と。對へて曰く、「此れを之れ多しと謂ふ。若し能く此れより少なからば、吾何を以ってか見ゆるを得ん」と。女叔齊以って公に告げ、且つ曰く、「秦の公子必ず歸らん。臣聞く、君子能く其の過ちを知れば、必ず令圖有り。令圖は、天の贊(たす)くる所なり」と。后子趙孟に見ゆ。趙孟曰く、「吾子其れ曷(いつ)か歸らん」と。對へて曰く、「鍼は寡君に選めらるるを懼る、是を以って此に在り。將に嗣君を待たんとす」と。趙孟曰く、「秦君は何如」と。對へて曰く、「無道なり」と。趙孟曰く、「亡びんか」と。對へて曰く、「何為れぞ。一世無道なるも、國未だ艾(た)えざるなり。國は天地に於いて、與(とも)に立つもの有り。數世淫せずんば、斃るること能はざるなり」と。趙孟曰く、「天か」と。對へて曰く、「有り」と。趙孟曰く、「其れ幾何ぞ」と。對へて曰く、「鍼之を聞く、國無道にして年穀和熟するは、天之を贊くるなり。五稔ならざること鮮(すくな)し」と。趙孟蔭(ひかげ)を視て曰く、「朝夕相及ばず、誰か能く五を待たん」と。后子出でて人に告げて曰く、「趙孟將に死せんとす。民に主として、歲を翫(もてあそ)びて日を愒(むさぼ)る。其れ幾何ぞ」と。
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国語・晋語八平公疾有り。秦の景公医和(いか)をして之を視しむ。出でて曰く、「為(おさ)むべからざるなり。是を男を遠ざけて女に近づくと謂う。惑いて以て蠱(こ)を生ず。鬼に非ず食に非ず、惑いて以て志を喪う。良臣生きず、天命祐(たす)けず。若し君死せずんば、必ず諸侯を失わん」と。趙文子之を聞きて曰く、「武二三子に従いて以て君を佐(たす)けて諸侯の盟主と為すこと、今に於いて八年なり。内に苛慝(かとく)無く、諸侯弐(ふたごころ)あらず。子胡(なん)ぞ『良臣生きず、天命祐けず』と曰う」と。対えて曰く、「今よりの謂いなり。和之を聞く、曰く、『直は曲を輔(たす)けず、明は闇を規(ただ)さず。拱木(きょうぼく)は危(たか)きに生ぜず、松柏は埤(ひく)きに生ぜず』と。吾子惑いを諫むる能わずして、疾を生ずるに至らしめ、又自ら退かずして其の政を寵とす。八年の謂い多し。何を以て能く久しからん」と。文子曰く、「医も国家に及ぶか」と。対えて曰く、「上医は国を医し、其の次は人を疾(や)む。固(もと)より医官なり」と。文子曰く、「子蠱と称す。何か実に之を生ずる」と。対えて曰く、「蠱の慝(とく)は、穀の飛(ひ)実に之を生ず。物蠱より伏するは莫く、穀より嘉(よ)きは莫し。穀興りて蠱伏して章明なる者なり。故に穀を食らう者は、昼は男徳を選びて以て穀の明に象(かたど)り、宵は女徳を静めて以て蠱の慝を伏す。今君之を一にす。是れ穀を饗(う)けずして蠱を食らうなり。是れ穀の明を昭らかにせずして蠱を皿にするなり。夫れ文、『蟲(ちゅう)』・『皿(べい)』を『蠱』と為す。吾是を以て云う」と。文子曰く、「君其れ幾何(いくばく)ぞ」と。対えて曰く、「若し諸侯服せば三年を過ぎず、服せずんば十年を過ぎず。是を過ぐれば、晋の殃(わざわ)いなり」と。是の歳や、趙文子卒し、諸侯晋に叛く。十年にして、平公薨ず。
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国語・晋語二宰孔(さいこう)其の御(ぎょ)に謂いて曰く、「晋侯将に死せんとす。景霍(けいかく)以て城と為し、汾・河・涑(そく)・澮(かい)以て渠(きょ)と為し、戎・狄の民実に之を環(めぐ)る。汪(おう)たる是の土や、苟も其の違(たが)えるを違(さ)らば、誰か能く之を懼れしめん。今晋侯斉の徳の豊否を量らず、諸侯の勢を度(はか)らず、其の閉修(へいしゅう)を釈(す)てて、行道に軽(かろ)んず、其の心を失えり。君子心を失えば、夭昏(ようこん)せざること鮮(すく)なし」と。是の歳や、献公卒す。八年にして、淮(わい)の会を為す。桓公殯(ひん)に在り、宋人之を伐つ。
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『春秋左氏伝』襄公三十一年 趙孟の語は偸なり三十一年春、王の正月、穆叔會より至り、孟孝伯に見えて之に語りて曰く、「趙孟將に死せんとす。其の語偷にして、民の主に似ず。且つ年未だ五十に盈たずして、諄諄焉として八九十の者の如し。久しきこと能はざらん。若し趙孟死せば、政を為す者は其れ韓子か。吾子盍ぞ季孫と之を言はざる。以て善を樹つべし。君子なり。晉君將に政を失はんとす。若し樹てずんば、早く魯に備へしめよ。既にして政大夫に在り、韓子は懦弱にして、大夫は貪ること多く、求欲厭くこと無からん。齊・楚は未だ與にするに足らず。魯其れ懼れんかな」と。孝伯曰く、「人生幾何ぞ。誰か能く偷なること無からん。朝に夕に及ばず。將た安んぞ樹つるを用ゐん」と。穆叔出でて人に告げて曰く、「孟孫將に死せんとす。吾諸に趙孟の偷を語りしに、而も又甚だし」と。又季孫と晉の故を語る。季孫從はず。趙文子卒するに及び、晉の公室卑く、政は侈家に在り。韓宣子政を為して、諸侯を圖ること能はず。魯晉の求めに堪へず、讒慝弘く多し。是を以て平丘の會有り。齊の子尾閭丘嬰を害とし、之を殺さんと欲し、師を帥ゐて以て陽州を伐たしむ。我師の故を問ふ。夏、五月、子尾閭丘嬰を殺して以て我が師に說く。工僂灑・渻灶・孔虺・賈寅、莒に出奔す。群公子を出す。
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国語・晋語八秦の后子来たり仕う。其の車千乗。楚の公子干(かん)来たり仕う。其の車五乗。叔向太傅為り、実に禄を賦す。韓宣子(かんせんし)二公子の禄を焉に問う。対えて曰く、「大国の卿は、一旅の田。上大夫は、一卒の田。夫れ二公子は、上大夫なり。皆一卒にして可なり」と。宣子曰く、「秦の公子は富む。之を若何ぞ其れ之を鈞(ひと)しくする」と。対えて曰く、「夫れ爵は以て事を建て、禄は以て爵を食ましめ、徳は以て之を賦し、功庸は以て之を称(はか)る。之を若何ぞ富を以て禄を賦せん。夫れ絳(こう)の富商は、韋藩木楗(いはんぼくけん)にして以て朝を過ぐ。唯其の功庸少なければなり。而るに能く其の車を金玉にし、其の服を文錯(ぶんさく)にし、能く諸侯の賄(まいない)を行うも、尋尺の禄無きは、民に大績無きが故なり。且つ秦・楚は匹(ひつ)なり。之を若何ぞ其れ富に回(まど)わん」と。乃ち其の禄を均しくす。
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『長短経』懼戒我が先君文公は、狐季姫の子なり。献公に寵有り。学を好みて弐ならず、生まれて十七年にして、士五人有り〔狐偃・趙衰・顛頡・魏武子・司空季子、五士の従い出づる者なり〕。先大夫子餘・子犯有りて以て腹心と為し〔子餘は趙衰、子犯は狐偃〕、魏犨・賈佗有りて以て股肱と為し、斉・宋・秦・楚有りて以て外主と為し〔斉は妻わすに女を以てし、宋は贈るに馬を以てし、楚王は之を饗し、秦伯は之を納る〕、欒・郤・狐・先有りて以て内主と為す〔欒枝・郤縠・狐突・先軫を謂うなり〕。亡ぶること十九年、志を守ること弥々篤し。恵・懐は民を棄て、従いて之に与す。献に異親無く、民に異望無し〔献公の子九人、惟だ文公のみ在り〕。天方に晋を相く。将に何を以て之に代わらん。此の二君は、子干に異なり。共に寵子有り、国に奥主有り〔棄疾を謂うなり〕。子干は民に施す無く、外に援無し。晋を去るも晋送らず、楚に帰るも楚迎えず。何を以て国を冀わん」と。子干果たして終えず、卒に棄疾を立つること、叔向の言の如し。
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