国語 / 晋語八
諸侯之大夫盟于宋,楚令尹子木欲襲晉軍,曰:「若盡晉師而殺趙武,則晉可弱也。」文子聞之,謂叔向曰:「若之何?」叔向曰:「子何患焉。忠不可暴,信不可犯,忠自中,而信自身,其為德也深矣,其為本也固矣,故不可抈也。今我以忠謀諸侯,而以信覆之,荊之逆諸侯也亦云,是以在此。若襲我,是自背其信而塞其忠也。信反必斃,忠塞無用,安能害我?且夫合諸侯以為不信,諸侯何望焉。為此行也,荊敗我,諸侯必叛之,子何愛於死,死而可以固晉國之盟主,何懼焉?」是行也,以藩為軍,攀輦即利而舍,候遮扞衛不行,楚人不敢謀,畏晉之信也。自是沒平公無楚患。
新字:諸侯之大夫盟于宋,楚令尹子木欲襲晋軍,曰:「若尽晋師而殺趙武,則晋可弱也。」文子聞之,謂叔向曰:「若之何?」叔向曰:「子何患焉。忠不可暴,信不可犯,忠自中,而信自身,其為徳也深矣,其為本也固矣,故不可抈也。今我以忠謀諸侯,而以信覆之,荊之逆諸侯也亦云,是以在此。若襲我,是自背其信而塞其忠也。信反必斃,忠塞無用,安能害我?且夫合諸侯以為不信,諸侯何望焉。為此行也,荊敗我,諸侯必叛之,子何愛於死,死而可以固晋国之盟主,何懼焉?」是行也,以藩為軍,攀輦即利而舎,候遮扞衛不行,楚人不敢謀,畏晋之信也。自是没平公無楚患。
書き下し
諸侯の大夫宋に盟う。楚の令尹(れいいん)子木(しぼく)晋の軍を襲わんと欲して、曰く、「若し晋の師を尽くして趙武を殺さば、則ち晋弱むべし」と。文子之を聞き、叔向に謂いて曰く、「之を若何せん」と。叔向曰く、「子何をか患えん。忠は暴(あら)らぐべからず、信は犯すべからず。忠は中よりし、信は身よりす。其の徳為るや深し、其の本為るや固し。故に抈(ゆる)がすべからざるなり。今我忠を以て諸侯に謀りて、信を以て之を覆(おお)う。荊の諸侯を逆(むか)うるも亦云う。是を以て此に在り。若し我を襲わば、是れ自ら其の信に背きて其の忠を塞ぐなり。信反すれば必ず斃(たお)れ、忠塞がれば用無し。安(いずく)んぞ能く我を害せん。且つ夫れ諸侯を合して以て不信を為さば、諸侯何をか望まん。此の行を為すや、荊我を敗らば、諸侯必ず之に叛かん。子何ぞ死を愛(お)しまん。死して以て晋国の盟主を固くすべくんば、何をか懼れん」と。是の行や、藩を以て軍と為し、攀輦(はんれん)して利に即きて舎(やど)り、候遮扞衛(こうしゃかんえい)行わず。楚人敢えて謀らず、晋の信を畏るるなり。是より平公を没するまで楚の患い無し。
現代語訳
諸侯の大夫たちが宋で盟約を結んだ。楚の令尹(宰相)子木は晋の軍を襲撃しようと考えて言った。「もし晋の軍を全滅させて趙武を殺せば、晋を弱らせることができる。」趙文子(趙武、晋の正卿)はこれを聞いて叔向に言った。「どうしたものだろう。」叔向は言った。「あなたは何を心配なさるのですか。忠は乱暴に扱うことができず、信は侵すことができません。忠は心の中から出て、信は自分の身から出ます。それは徳として深く、根本として固いので、揺るがすことはできないのです。いまわれらは忠をもって諸侯と謀り、信によってそれを包んでいます。楚が諸侯を迎えたのも、同じことを言ってのことです。だからこそ諸侯がここに集まっているのです。もし楚がわれらを襲えば、それは自ら信に背き、自らの忠を塞ぐことになります。信に背けば必ず倒れ、忠を塞げば何の役にも立ちません。どうしてわれらを害することができましょう。そもそも諸侯を集めておいて信を破れば、諸侯は楚に何を期待するでしょう。この会合の場で楚がわれらを破れば、諸侯は必ず楚に背きます。あなたはどうして死を惜しまれるのですか。たとえ死んでも、それで晋の盟主の地位が固まるのなら、何を恐れることがありましょう。」この会合で晋は、垣根を陣の囲いとし、輦(人が引く車)を引いて都合のよい場所に宿営し、斥候や見張り、護衛の兵も置かなかった。楚の人々はあえて謀略を仕掛けなかった。晋の信義を畏れたのである。これ以後、平公が亡くなるまで、晋に楚の患いはなかった。
解説
この章句が説くこと
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孔子家語・儒行解儒に金玉を宝とせずして、忠信を以て宝と為し、土地を祈らずして、仁義を以て土地と為し、多積を求めずして、多文を以て富と為す有り。得難くして禄し易く、禄し易くして畜い難し。時に非ざれば見えず、亦た難得ならずや。義に非ざれば合わず、亦た難畜ならずや。労を先にして禄を後にす、亦た易禄ならずや。其の人情に近きこと此くの如き者有り。儒に之に委ぬるに財貨を以てして貪らず、之を淹すに楽好を以てして淫せず、之を劫すに衆を以てして懼れず、之を阻むに兵を以てして懾れず、利を見て其の義を虧かず、死を見て其の守りを更めず、鷙虫の攫搏も其の勇を程らず、重鼎を引くも其の力を程らず、往く者を悔いず、来る者を予めせず、過言再びせず、流言極めず、其の威を断たず、其の謀を習わず有り。其の特立すること此くの如き者有り。
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論語・子罕篇子曰く、忠信を主とし、己に如かざる者を友とすること毋かれ。過てば則ち改むるに憚ること勿かれ。
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論語・衛霊公篇子張、行を問う。子曰く、「言忠信、行篤敬なれば、蛮貊の邦と雖も行われん。言忠信ならず、行篤敬ならずんば、州里と雖も行われんや。立てば、則ち其の前に参するを見るなり。輿に在れば、則ち其の衡に倚るを見るなり。夫れ然る後に行われん。」子張、諸を紳に書す。
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史記 蒙恬列伝蒙恬は、其の先は斉人なり。恬の大父蒙驁、斉より秦の昭王に事へ、官上卿に至る。秦の荘襄王の元年、蒙驁秦の将と為り、韓を伐ち、成皋・滎陽を取り、三川郡を作置す。二年、蒙驁趙を攻め、三十七城を取る。始皇の三年、蒙驁韓を攻め、十三城を取る。五年、蒙驁魏を攻め、二十城を取り、東郡を作置す。始皇の七年、蒙驁卒す。驁の子を武と曰ひ、武の子を恬と曰ふ。恬嘗て獄を書し文学を典る。始皇の二十三年、蒙武秦の裨将軍と為り、王翦と楚を攻め、大いに之を破り、項燕を殺す。二十四年、蒙武楚を攻め、楚王を虜にす。蒙恬の弟は毅なり。始皇の二十六年、蒙恬家世に因りて秦の将と為るを得、斉を攻め、大いに之を破り、拝して内史と為る。秦已に天下を并せ、乃ち蒙恬をして三十万の衆を将ゐて北のかた戎狄を逐ひ、河南を収めしむ。長城を筑き、地形に因り、用て険塞を制し、臨洮に起こり、遼東に至る。延袤万余里。是に於て河を渡り、陽山に拠り、逶蛇して北す。師を外に暴すこと十余年、上郡に居る。是の時蒙恬の威匈奴を振るはす。始皇甚だ蒙氏を尊寵し、信任して之を賢とす。而して蒙毅を親近し、位上卿に至り、出づれば則ち参乗し、入れば則ち御前にあり。恬は外事に任じて毅は常に内謀を為す。名づけて忠信と為す。故に諸将相と雖も敢て之と争ふ莫し。
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説苑・雜言孔子、呂梁を観る。懸水四十仞、環流九十里、魚鱉過ぐる能わず、黿鼉敢えて居らず。一丈夫有り、方に将に之を渉らんとす。孔子人をして崖に並びて之を止めしめて曰く、「此の懸水四十仞、圜流九十里、魚鱉敢えて過ぎず、黿鼉敢えて居らず、意うに済り難からんか」と。丈夫意に錯かず、遂に渡りて出づ。孔子問う、「子巧みなるか。且つ道術有るか。能く入りて出づる所以は何ぞや」と。丈夫曰く、「始め吾入るや、先ず忠信を以てす。吾の出づるや、又従うに忠信を以てす。忠信吾が軀を波流に錯くも、吾敢えて私を用いず。吾の能く入りて復た出づる所以なり」と。孔子弟子に謂いて曰く、「水すら尚お忠信を以てす可し、義久しくして身之に親しめば、況んや人に於いてをや」と。
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『囲炉夜話』第九十七則・君子は心を存するに但だ忠信に憑る君子は心を存するに但だ忠信に憑る、而して婦孺皆之を敬すること神の如し、所以に君子は落ちて君子たるを得。 小人は世に處するに盡く機關を設く、而して鄉黨皆之を避くること鬼の若し、所以に小人は枉げて小人と做り了んぬ。
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