国語 / 周語上
惠王三年,邊伯、石速、蒍國出王而立子頹。王處於鄭三年。王子頹飲三大夫酒,子國為客,樂及徧儛。鄭厲公見虢叔,曰:「吾聞之,司寇行戮,君為之不舉,而況敢樂禍乎!今吾聞子頹歌舞不息,樂禍也。夫出王而代其位,禍孰大焉!臨禍忘憂,是謂樂禍。禍必及之,盍納王乎?」虢叔許諾。鄭伯將王自圉門入,虢叔自北門入,殺子頹及三大夫,王乃入也。
新字:恵王三年,辺伯、石速、蒍国出王而立子頽。王処於鄭三年。王子頽飲三大夫酒,子国為客,楽及遍儛。鄭厲公見虢叔,曰:「吾聞之,司寇行戮,君為之不舉,而況敢楽禍乎!今吾聞子頽歌舞不息,楽禍也。夫出王而代其位,禍孰大焉!臨禍忘憂,是謂楽禍。禍必及之,盍納王乎?」虢叔許諾。鄭伯将王自圉門入,虢叔自北門入,殺子頽及三大夫,王乃入也。
書き下し
恵王の三年、辺伯(へんぱく)・石速(せきそく)・蒍国(いこく)、王を出だして子頽(したい)を立つ。王鄭に処(お)ること三年。王子頽三大夫に酒を飲ましむ。子国客と為り、楽は徧舞(へんぶ)に及ぶ。鄭の厲公(れいこう)虢叔(かくしゅく)に見えて曰く、「吾之を聞く、司寇戮を行えば、君之が為に挙(きょ)せずと。而るを況んや敢えて禍を楽しまんや。今吾聞く、子頽歌舞して息(や)まずと。禍を楽しむなり。夫れ王を出だして其の位に代わる、禍孰(いず)れか焉(これ)より大ならん。禍に臨みて憂いを忘る、是を禍を楽しむと謂う。禍必ず之に及ばん。盍(なん)ぞ王を納れざる」と。虢叔許諾す。鄭伯王を将(ひき)いて圉門(ぎょもん)より入り、虢叔北門より入り、子頽及び三大夫を殺し、王乃ち入る。
現代語訳
恵王の三年、周の大夫の辺伯・石速・蒍国が恵王を追い出し、王子頽(荘王の寵愛を受けた庶子)を王に立てた。恵王は鄭に身を寄せること三年に及んだ。王子頽が三人の大夫を酒宴でもてなしたとき、子国(蒍国)が主賓となり、楽は歴代の舞楽をことごとく演じるほどであった。鄭の厲公は虢叔(王の卿士、虢公)に会って言った。「わたしはこう聞いています。司寇が死刑を執行する日には、君主はそのために音楽を奏させないものだと。まして人の禍を楽しむことなど、どうしてできましょう。いま聞けば、子頽は歌舞に明け暮れてやめることがないという。これは禍を楽しむものです。そもそも王を追い出してその位を奪うこと以上に、大きな禍がありましょうか。禍を前にして憂いを忘れる、これを禍を楽しむというのです。禍は必ず彼の身に及ぶでしょう。どうして王を都にお戻ししないのですか」。虢叔は承知した。鄭伯は王を奉じて南の圉門から入り、虢叔は北門から入って、子頽と三人の大夫を殺し、王はようやく都に戻った。
解説
この章句が説くこと
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『春秋左氏伝』荘公二十年 禍を楽しむ者二十年春、鄭伯王室を和せんとして、克はず。燕仲父を執ふ。夏、鄭伯遂に王を以って歸り、王櫟に處る。秋、王及び鄭伯鄔に入る。遂に成周に入り、其の寶器を取りて還る。冬、王子頹五大夫を享し、樂及び遍舞す。鄭伯之を聞き、虢叔に見えて曰く、「寡人之を聞く、『哀樂時を失へば、殃咎必ず至る』と。今王子頹歌舞して倦まず、禍を樂しむなり。夫れ司寇戮を行へば、君之が爲に舉せず。而るを況んや敢へて禍を樂しまんや。王の位を奸す、禍孰れか焉より大ならん。禍に臨みて憂ひを忘るれば、憂ひ必ず之に及ばん。盍ぞ王を納れざる」と。虢公曰く、「寡人の願ひなり」と。
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史記 鄭世家鄭子八年、斉人管至父等乱を作し、其の君襄公を弑す。十二年、宋人長万其の君湣公を弑す。鄭の祭仲死す。十四年、故の鄭の亡げし厲公突の櫟に在る者、人をして鄭の大夫甫仮を誘ひ劫かさしめ、要して以て入らんことを求む。仮曰く、「我を捨てよ。我君の為に鄭子を殺して君を入れん」と。厲公与に盟ひ、乃ち之を捨つ。六月甲子、仮、鄭子及び其の二子を殺して厲公突を迎ふ。突、櫟より復た入りて位に即く。初め、内蛇と外蛇と鄭の南門の中に闘ひ、内蛇死す。居ること六年、厲公果たして復た入る。入りて其の伯父原を譲めて曰く、「我国を亡げて外に居る。伯父我を入るるに意無し。亦甚だしきかな」と。原曰く、「君に事へて二心無きは、人臣の職なり。原罪を知れり」と。遂に自殺す。厲公是に於て甫仮に謂ひて曰く、「子の君に事ふるや二心有り」と。遂に之を誅す。仮曰く、「重徳報いられず、誠に然るかな」と。厲公突の後元年、斉の桓公始めて霸たり。五年、燕・衛、周の恵王の弟穨と王を伐つ。王出でて温に奔る。弟穨を立てて王と為す。六年、恵王急を鄭に告ぐ。厲公兵を発して周の王子穨を撃つも、勝たず。是に於て周の恵王と帰り、王櫟に居る。七年春、鄭の厲公、虢叔と王子穨を襲殺して恵王を周に入る。秋、厲公卒し、子文公踕立つ。厲公初め立ちて四歳、亡げて櫟に居る。櫟に居ること十七歳、復た入る。立ちて七歳、亡と凡そ二十八年。二十四年、文公の賤妾燕姞と曰ふ、夢に天之に蘭を与へて曰く、「余は伯鯈為り。余は爾の祖なり。是を以て而の子と為せ。蘭は国香有り」と。夢を以て文公に告ぐ。文公之を幸し、之に草蘭を予へて符と為す。遂に子を生む。名づけて蘭と曰ふ。三十六年、晋の公子重耳過る。文公礼せず。
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『春秋左氏伝』荘公二十一年 鄭伯、王に怨む二十一年春、弭に胥命す。夏、同に王城を伐つ。鄭伯王を將ゐて、圉門より入り、虢叔北門より入り、王子頹及び五大夫を殺す。鄭伯王を闕西辟に享し、樂備はる。王之に武公の略を與ふ、虎牢より以東なり。原伯曰く、「鄭伯尤に效ふ、其れ亦た將に咎有らんとす」と。五月、鄭の厲公卒す。王虢の守に巡る。虢公王の爲に宮を玤に爲り、王之に酒泉を與ふ。鄭伯の王を享するや、王后の鞶鑒を以って之に予ふ。虢公器を請ひ、王之に爵を予ふ。鄭伯是に由りて始めて王を惡む。冬、王虢より歸る。
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国語・周語中王曰く、「利何如(いかん)にして内、何如にして外なる」と。対えて曰く、「貴きを尊び、賢を明らかにし、勲を庸(もち)い、老を長とし、親を愛し、新を礼し、旧に親しむ。然らば則ち民其の心力を審固にして以て上の令に役(つか)えざる莫く、官は方を易えずして、財匱竭(きけつ)せず、求むれば至らざる無く、動けば済らざる無し。百姓兆民、夫人(ふじん)利を奉じて諸(これ)を上に帰す、是れ利の内なり。若し七徳離判(りはん)すれば、民乃ち携弐(けいじ)し、各利を以て退き、上の求むるも暨(およ)ばず、是れ其の外利なり。夫れ狄は王室に列無し。鄭伯は南なり、王にして之を卑しむ、是れ貴きを尊ばざるなり。狄は、豺狼の徳なり。鄭は未だ周典を失わず、王にして之を蔑(ないがし)ろにす、是れ賢を明らかにせざるなり。平・桓・荘・恵皆鄭の労を受く、王にして之を棄つ、是れ勲を庸いざるなり。鄭伯捷(しょう)の歯長ぜり、王にして之を弱しとす、是れ老を長とせざるなり。狄は隗(かい)姓なり、鄭は宣王より出ず、王にして之を虐ぐ、是れ親を愛せざるなり。夫れ礼は、新は旧を閒(か)えず。王狄女を以て姜・任に閒う、礼に非ずして且つ旧を棄つるなり。王一挙して七徳を棄つ、臣故に利外なりと曰う。書に之有りて曰く、『必ず忍ぶこと有りて、若(すなわ)ち能く済すこと有り』と。王小忿を忍ばずして鄭を棄て、又叔隗(しゅくかい)を登(あ)げて以て狄を階す。狄は封豕(ほうし)豺狼なり、猒(あ)かしむ可からざるなり」と。王聴かず。 十八年、王狄后を黜(しりぞ)く。狄人来たりて誅して譚伯(たんぱく)を殺す。富辰曰く、「昔吾驟(しばしば)王を諫むれども、王従わず、以て此の難に及ぶ。若し我出でずんば、王其れ我を以て懟(うら)むと為さんか」と。乃ち其の属を以て之に死す。 初め、恵后王子帯を立てんと欲す。故に其の党を以て狄人を啓(ひら)く。狄人遂に入り、周王乃ち出でて鄭に居る。晋の文公之を納る。
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国語・晋語三恵公既に位に即き、乃ち秦の賂に背く。丕鄭をして秦に聘せしめ、且つ之を謝せしむ。而して里克を殺して曰く、「子二君と一大夫とを殺す。子の君為る者は、亦難からずや」と。 丕鄭秦に如きて賂を緩くするを謝し、乃ち穆公に謂いて曰く、「君厚く問いて以て呂甥・郤称・冀芮を召して之を止め、師を以て公子重耳を奉ぜよ。臣の属内に作(おこ)らば、晋君必ず出でん」と。穆公泠至(れいし)をして報問せしめ、且つ三大夫を召す。鄭や客と将に事を行わんとす。冀芮曰く、「鄭の使いは薄くして報いは厚し。其の我を秦に言うや、必ず我を誘わしめん。殺さずんば、必ず難を作さん」と。是の故に丕鄭及び七輿大夫、共華(きょうか)・賈華・叔堅(しゅくけん)・騅歂(すいせん)・纍虎(るいこ)・特宮(とくきゅう)・山祁(さんき)を殺す。皆里・丕の党なり。丕豹(ひひょう)秦に出奔す。 丕鄭の秦より反るや、里克の死を聞き、共華に見えて曰く、「以て入るべきか」と。共華曰く、「二三子皆在りて及ばず。子は秦に使いす、可なり」と。丕鄭入り、君之を殺す。共賜(きょうし)共華に謂いて曰く、「子行かんか。其れ及ばん」と。共華曰く、「夫子の入るは、吾が謀なり。将に待たんとす」と。賜曰く、「孰か之を知らん」と。共華曰く、「不可なり。知りて之に背くは不信なり。謀りて人を困しむるは不智なり。困しみて死せざるは無勇なり。大悪三を任(にな)いて、行くとも将に安(いず)くにか入らん。子其れ行け、我は姑(しばら)く死を待たん」と。 丕鄭の子を豹と曰う。秦に出奔し、穆公に謂いて曰く、「晋君大いに其の衆を失う。君の賂に背き、里克を殺して、処る者を忌む。衆固より説(よろこ)ばず。今又臣の父及び七輿大夫を殺す。此れ其の党国に半ばす。君若し之を伐たば、其の君必ず出でん」と。穆公曰く、「衆を失わば安んぞ能く人を殺さん。且つ夫れ禍は唯だ斃(たお)るること無くんば、足る者は処らず、処る者は足らず、勝敗化するが若し。禍を以て違(さ)るも、孰か能く君を出ださん。爾(なんじ)我を俟て」と。
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史記 衛康叔世家盗并せて太子伋を殺し、以て宣公に報ず。宣公乃ち子朔を以て太子と為す。十九年、宣公卒し、太子朔立つ。是を恵公と為す。左右公子朔の立つを平らかならずとす。恵公の四年、左右公子恵公の前太子伋を讒殺して代はり立つを怨み、乃ち乱を作し、恵公を攻め、太子伋の弟黔牟を立てて君と為す。恵公斉に奔る。衛君黔牟立ちて八年、斉の襄公諸侯を率ゐて王命を奉じて共に衛を伐ち、衛の恵公を納れ、左右公子を誅す。衛君黔牟周に奔り、恵公復た立つ。恵公立ちて三年にして出亡し、亡ぐること八年にして復た入る。前と年を通じて凡そ十三年なり。二十五年、恵公周の黔牟を容舎せしを怨み、燕と周を伐つ。周の恵王温に奔り、衛・燕恵王の弟穨を立てて王と為す。二十九年、鄭復た恵王を納る。三十一年、恵公卒し、子の懿公赤立つ。懿公即位し、鶴を好み、淫楽奢侈なり。九年、翟衛を伐つ。衛の懿公兵を発せんと欲するも、兵或いは畔く。大臣言ひて曰く、「君鶴を好む。鶴をして翟を撃たしむべし」と。翟是に於て遂に入り、懿公を殺す。懿公の立つや、百姓大臣皆服せず。懿公の父恵公朔の太子伋を讒殺して代はり立ちしより懿公に至るまで、常に之を敗らんと欲す。卒に恵公の後を滅ぼして、更に黔牟の弟昭伯頑の子申を立てて君と為す。是を戴公と為す。戴公申元年にして卒す。斉の桓公衛の数々乱るるを以て、乃ち諸侯を率ゐて翟を伐ち、衛の為に楚丘に築き、戴公の弟燬を立てて衛君と為す。是を文公と為す。文公乱を以ての故に斉に奔る。斉人之を入る。初め、翟の懿公を殺すや、衛人之を憐れみ、宣公の前に死せし太子伋の後を復立せんと思ふ。伋の子又死し、而して伋に代はりて死せし者子寿も又子無し。
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