古事記 / 中巻・筑紫での出産と釣り
故是以。新羅國者。定御馬甘。百濟國者。定渡屯家。爾以其御杖。衝立新羅國主之門。即以墨江大神之荒御魂。爲國守神而。祭鎭還渡也。故其政未竟之間。其懷姙臨產。即爲鎭御腹。取石以。纒御裳之腰而。渡筑紫國。其御子者阿禮坐。(阿禮二字以音)故號其御子生地。謂宇美也。亦所纒其御裳之石者。在筑紫國之伊斗村也。亦到坐筑紫末羅縣之玉島里而。御食其河邊之時。當四月之上旬。爾坐其河中之礒。拔取御裳之糸。以飯粒爲餌。釣其河之年魚。(其河名謂小河。亦其礒名謂勝門比賣也。)故四月上旬之時。女人拔裳糸。以粒爲餌。釣年魚。至于今不絶也。於是息長帶日賣命。於倭還上之時。因疑人心。具喪船。御子載其喪船。先令言漏之御子既崩。如此上幸之時。香坂王。忍熊王聞而。思將待取。進出於【斗/尋】賀野。爲宇氣比【獦/猪】也。
新字:故是以。新羅国者。定御馬甘。百済国者。定渡屯家。爾以其御杖。衝立新羅国主之門。即以墨江大神之荒御魂。為国守神而。祭鎮還渡也。故其政未竟之間。其懐姙臨産。即為鎮御腹。取石以。纒御裳之腰而。渡筑紫国。其御子者阿礼坐。(阿礼二字以音)故号其御子生地。謂宇美也。亦所纒其御裳之石者。在筑紫国之伊斗村也。亦到坐筑紫末羅県之玉島里而。御食其河辺之時。当四月之上旬。爾坐其河中之礒。抜取御裳之糸。以飯粒為餌。釣其河之年魚。(其河名謂小河。亦其礒名謂勝門比売也。)故四月上旬之時。女人抜裳糸。以粒為餌。釣年魚。至于今不絶也。於是息長帯日売命。於倭還上之時。因疑人心。具喪船。御子載其喪船。先令言漏之御子既崩。如此上幸之時。香坂王。忍熊王聞而。思将待取。進出於【斗/尋】賀野。為宇気比【獦/猪】也。
書き下し
故、ここを以ちて、新羅の国は御馬甘と定め、百済の国は渡の屯家と定めたまひき。ここにその御杖を以ちて、新羅の国主の門に衝き立てき。すなはち墨江大神の荒御魂を、国守ります神と為して、祭り鎮めて還り渡りたまひき。故、その政未だ竟へざる間に、その懐妊みたまへるが産み月に臨みき。すなはち御腹を鎮めむと為て、石を取りて御裳の腰に纏きて、筑紫の国に渡りたまひき。その御子は阿礼坐しき。(阿礼の二字は音を以ゐる)故、その御子の生れませる地を号けて宇美と謂ふ。また、その御裳に纏きたまへりし石は、筑紫の国の伊斗村に在り。また筑紫の末羅県の玉島の里に到り坐して、御食したまふ時、四月の上旬に当たれり。ここにその河中の礒に坐して、御裳の糸を抜き取り、飯粒を以ちて餌と為て、その河の年魚を釣りたまひき。(その河の名は小河と謂ふ。またその礒の名は勝門比売と謂ふ。)故、四月の上旬の時、女人、裳の糸を抜き、粒を餌として年魚を釣ること、今に至るまで絶えず。ここに息長帯日売命、倭に還り上ります時、人の心を疑ひて、喪船を具へ、御子をその喪船に載せて、まづ「御子既に崩りましぬ」と言ひ漏さしめたまひき。かく上り幸でます時、香坂王・忍熊王、聞きて、待ち取らむと思ひて、斗賀野に進み出でて、宇気比猟をしたまひき。
現代語訳
こうして新羅の国は御馬飼と定め、百済の国は海を渡る際の屯倉と定めました。皇后は杖を新羅の国主の門に突き立て、墨江大神の荒御魂を国を守る神として祭り鎮めてから、引き返して海を渡りました。その事業がまだ終わらぬうちに、胎内の子の産み月になりました。皇后は腹を鎮めようと石を取って裳の腰に巻き、筑紫の国に渡りました。御子はそこで生まれました。生まれた地を宇美と呼びます。裳に巻いた石は筑紫の伊斗村にあります。また筑紫の末羅県の玉島の里に着いて食事をされたとき、ちょうど四月の上旬でした。皇后は河の中の磯に座り、裳の糸を抜き取り、飯粒を餌にして河の鮎を釣りました。(その河は小河、磯は勝門比売といいます。)それで四月の上旬に女たちが裳の糸を抜き、飯粒を餌に鮎を釣る習わしは、今も絶えません。さて息長帯日売命が倭へ戻るとき、人の心を疑い、喪船を用意して御子をその船に乗せ、「御子はすでに亡くなられた」とあらかじめ噂を流させました。こうして上ってくると、香坂王と忍熊王がそれを聞き、待ち伏せて討とうと斗賀野に出て、狩りで吉凶を占う宇気比猟をしました。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『古事記』中巻・神託と新羅への渡海また建内宿禰、沙庭に居て、神の命を請ひき。ここに教へ覚したまふ状、具さに先の日の如し。「凡そこの国は、汝命の御腹に坐す御子の知らさむ国なり」とのりたまひき。ここに建内宿禰白さく、「恐し、我が大神、その神の腹に坐す御子は、何れの子ぞや」とまをししかば、答へて詔りたまはく、「男子ぞ」とのりたまひき。ここに具さに請ひまをさく、「今かく言ひ教へたまふ大神は、その御名を知らまくほし」とまをししかば、すなはち答へて詔りたまはく、「これは天照大神の御心ぞ。また底筒男・中筒男・上筒男の三柱の大神ぞ。(この時、その三柱の大神の御名は顕れき。)今まことにその国を求めむと思ほさば、天つ神・地つ祇、また山の神及び河海の諸の神に、悉に幣帛を奉り、我が御魂を船の上に坐せて、真木の灰を瓠に納れ、また箸及び比羅伝(この三字は音を以ゐる)を多に作りて、皆々大海に散らし浮けて渡るべし」とのりたまひき。故、教へ覚したまひし如く、軍を整へ船を雙べて渡り幸でましし時、海原の魚、大小を問はず、悉に御船を負ひて渡りき。ここに順風大きに起こり、御船、浪のまにまに行きぬ。故、その御船の波瀾、新羅の国に押し騰りて、既に国の半ばに到りき。ここにその国主、畏れ惶みて奏言さく、「今より以後、天皇の命のまにまに、御馬甘と為りて、年ごとに船を雙べて、船腹を乾さず、柂檝を乾さず、天地のむた、退くことなく仕へ奉らむ」とまをしき。
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『神皇正統記』巻二 第十五代 神功皇后第十五代、神功皇后は息長の宿禰の女、開化天皇四世の御孫也。息長足姫の尊と申す。仲哀たてゝ皇后とす。仲哀神のをしへによらず、世を早くし給しかば、皇后いきどほりまして、七日あつて別殿を作り、いもほりこもらせ給。此時応神天皇はらまれましましけり。神がゝりてさまざま道ををしへ給ふ。此神は「表筒男・中筒男・底筒男なり。」となんなのり給けり。是は伊弉諾尊日向の小戸の川檍が原にてみそぎし給し時、化生しましける神也。後には摂津国住吉にいつかれ給神これなり。かくて新羅・百済・高麗をうちしたがへ給き。海神かたちをあらはし、御船をはさみまぼり申しかば、思の如く彼国を平げ給。神代より年序久くつもれりしに、かく神威をあらはし給ける、不測御ことなるべし。海中にして如意の珠を得給へりき。さてつくしにかへりて皇子を誕生す。応神天皇にまします。神の申給しによりて、是を胎中の天皇とも申。皇后摂政して辛巳年より天下をしらせ給。
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『古事記』中巻・神の託宣と仲哀天皇の崩御ここをもちて腹の中に坐しながら国を〔定め〕たまふを知りぬ。この御世に、淡道の屯家を定めたまひき。その大后息長帯日売命は、当時(そのかみ)神を帰(よ)せたまひき。かれ天皇、筑紫の訶志比宮に坐して、熊曾国を撃たむとせし時に、天皇御琴を控(ひ)きて、建内宿禰大臣沙庭(さには)に居て、神の命を請ひき。ここに大后神を帰せて、言教へ覚し詔りたまはく、「西の方に国あり。金銀を本として、目の炎耀く種々の珍宝、多くその国に在り。吾今その国を帰せ賜はむ」とのりたまひき。爾して天皇答へ白さく、「高き地に登りて西の方を見れば、国土は見えず、ただ大海のみあり」とまをして、詐りの神と謂ひて、御琴を押し退けて控かず、默して坐しき。爾してその神大く忿りて詔りたまはく、「およそこの天の下は、汝の知るべき国にあらず。汝は一道に向へ」とのりたまひき。ここに建内宿禰大臣白さく、「恐し、我が天皇、なほその大御琴を阿蘇婆勢(あそばせ)」とまをしき。(阿より勢に至るまで音をもちてす。)爾して稍々その御琴を取り依せて、那麻那麻邇(なまなまに)(この五字は音をもちてす)控き坐しき。かれ幾ばくも久しからずして、御琴の音聞こえず。即ち火を挙げて見れば、既に崩りたまひ訖(をは)りき。爾して驚き懼(おそ)りて殯宮に坐せまつり、更に国の大奴佐(おほぬさ)を取りて、(奴佐の二字は音をもちてす。)種々の罪の類(たぐひ)を求めて、生剥ぎ、逆剥ぎ、阿離ち、溝埋み、屎戸、上通下通婚、馬婚、牛婚、鶏婚、犬婚の罪の類を、国の大祓として行ひたまひき。
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『神皇正統記』巻二 第十五代 神功皇后皇后いまだ筑紫にましましし時、皇子の異母の兄忍熊の王謀反をおこして、ふせぎ申さんとしければ、皇子をば武内の大臣にいだかせて、紀伊の水門につけ、皇后はすぐに難波につき給て、程なく其乱を平げられにき。皇子おとなび給しかば皇太子とす。武内の大臣もはら朝政を輔佐し申けり。大和の磐余稚桜の宮にまします。是より三韓の国、年ごとに御つきをそなへ、此国よりも彼国に鎮守のつかさをおかれしかば、西蕃相通て国家とみさかりなりき。又もろこしへも使をつかはされけるにや。「倭国の女王遣使て来朝す。」と後漢書にみえたり。元年辛巳年は漢の孝献帝二十三年にあたる。漢の世始りて十四代と云し時、王莽と云臣位をうばひて十四年ありき。其後漢にかへりて、又十三代孝献の時に、漢は滅して此御代の十九年己亥に献帝位をさりて、魏の文帝にゆづる。是より天下三にわかれて、魏・蜀・呉となる。呉は東によれる国なれば、日本の使もまづ通じけるにや。呉国より道々のたくみなどまでわたされき。
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『古事記』上巻・豊玉毘売の出産と別れ故、今に至るまで、その溺れし時の種種の態、絶えず仕へ奉るなり。ここに海神の女豊玉毘売命、自ら参出て白ししく、「妾、已に妊身めり。今産む時に臨みて、此を念ふ。天つ神の御子は、海原に生むべからず。故、参出到れり」とまをしき。ここに即ちその海辺の波限に、鵜の羽を葺草にして、産殿を造りき。ここにその産殿、未だ葺き合へぬに、御腹の急しきに忍へず、故、産殿に入り坐しき。ここに産まむとする時に、その日子に白して言ひしく、「凡そ佗し国の人は、産む時に臨みて、本つ国の形を以ちて産生むなり。故、妾今、本の身を以ちて産まむとす。願はくは、妾を見ること勿かれ」といひき。ここにその言を奇しと思ひて、窃かにその方に産むを伺へば、八尋和邇に化りて、匍匐ひ委蛇ひき。即ち見驚き畏みて遁げ退きたまひき。ここに豊玉毘売命、その伺ひ見たまひし事を知りて、心恥しと以為ひ、乃ちその御子を生み置きて、白ししく、「妾は恒に海つ道を通りて往来はむと欲ひき。然れども吾が形を伺ひ見たまひし、これいと怍し」とまをして、即ち海坂を塞ぎて返り入りき。ここを以ちてその産みし御子を名づけて、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命と謂ふ。(波限を訓みて那芸佐と云ひ、葺草を訓みて加夜と云ふ)然れども後は、その伺ひたまひし情を恨みつつも、恋ふる心に忍へずて、その御子を治め養ふ縁に因りて、その弟玉依毘売に附けて歌を献りき。

人生を、一行の式にしてみた。
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