神皇正統記 / 巻二 第十五代 神功皇后
皇后いまだ筑紫にまし〳〵し時、皇子の異母の兄忍熊の王謀反をおこして、ふせぎ申さんとしければ、皇子をば武内の大臣にいだかせて、紀伊の水門につけ、皇后はすぐに難波につき給て、程なく其乱を平げられにき。皇子おとなび給しかば皇太子とす。武内[の]大臣もはら朝政を輔佐し申けり。大和の磐余稚桜の宮にまします。是より三韓の国、年ごとに御つきをそなへ、此国よりも彼国に鎮守のつかさをおかれしかば、西蕃相通て国家とみさかりなりき。又もろこしへも使をつかはされけるにや。「倭国の女王遣使て来朝す。」と後漢書にみえたり。元年辛巳年は漢の孝献帝二十三年にあたる。漢の世始りて十四代と云し時、王莽と云臣位をうばひて十四年ありき。其後漢にかへりて、又十三代孝献の時に、漢は滅して此御代の十九年己亥に献帝位をさりて、魏の文帝にゆづる。是より天下三にわかれて、魏・蜀・呉となる。呉は東によれる国なれば、日本の使もまづ通じけるにや。呉国より道々のたくみなどまでわたされき。
書き下し
皇后いまだ筑紫にましましし時、皇子の異母の兄忍熊の王謀反をおこして、ふせぎ申さんとしければ、皇子をば武内の大臣にいだかせて、紀伊の水門につけ、皇后はすぐに難波につき給て、程なく其乱を平げられにき。皇子おとなび給しかば皇太子とす。武内の大臣もはら朝政を輔佐し申けり。大和の磐余稚桜の宮にまします。是より三韓の国、年ごとに御つきをそなへ、此国よりも彼国に鎮守のつかさをおかれしかば、西蕃相通て国家とみさかりなりき。又もろこしへも使をつかはされけるにや。「倭国の女王遣使て来朝す。」と後漢書にみえたり。元年辛巳年は漢の孝献帝二十三年にあたる。漢の世始りて十四代と云し時、王莽と云臣位をうばひて十四年ありき。其後漢にかへりて、又十三代孝献の時に、漢は滅して此御代の十九年己亥に献帝位をさりて、魏の文帝にゆづる。是より天下三にわかれて、魏・蜀・呉となる。呉は東によれる国なれば、日本の使もまづ通じけるにや。呉国より道々のたくみなどまでわたされき。
現代語訳
皇后がまだ筑紫におられたとき、皇子の異母兄の忍熊王が謀反を起こして防ぎ申そうとしたので、皇子を武内大臣に抱かせて紀伊の水門に着け、皇后はまっすぐ難波に着かれて、ほどなくその乱を平らげられた。皇子が成長されたので皇太子とした。武内大臣がもっぱら朝政を補佐申しあげた。大和の磐余の稚桜の宮においでになる。これより三韓の国は年ごとに貢ぎ物を備え、この国からも彼の国に鎮守の役所を置かれたので、西蕃と互いに通じて国家は富み栄えた。また中国へも使者を遣わされたのであろうか。「倭国の女王が使者を遣わして来朝した」と後漢書に見える。元年辛巳の年は漢の孝献帝の二十三年にあたる。漢の世は始まって十四代というとき、王莽という臣が位を奪って十四年あった。その後漢に返って、また十三代を経た孝献帝の時に漢は滅び、この御代の十九年己亥に献帝は位を去って魏の文帝に譲った。これより天下は三つに分かれて、魏・蜀・呉となった。呉は東に寄った国なので、日本の使者もまず通じたのであろうか。呉の国から様々な道の工人などまで渡された。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻二 第十五代 神功皇后又魏国にも通ぜられけるかとみえたり。四十九年乙酉と云し年、魏又滅て晋の代にうつりにき。此皇后天下を治給こと六十九年。一百歳おましましき。
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『神皇正統記』巻二 第十六代 応神天皇第十六代、第十五世、応神天皇は仲哀第四の子。御母神功皇后也。胎中の天皇とも、又は誉田天皇ともなづけたてまつる。庚寅年即位。大和の軽嶋豊明の宮にまします。此時百済より博士をめし、経史をつたへられ、太子以下これをまなびならひき。此国に経史及文字をもちゐることは、これよりはじまれりとぞ。異朝の一書の中に、「日本は呉の太伯が後也と云ふ。」といへり。返々あたらぬことなり。昔日本は三韓と同種也と云事のありし、かの書をば、桓武の御代にやきすてられしなり。天地開て後、すさのをの尊韓の地にいたり給きなど云事あれば、彼等の国々も神の苗裔ならん事、あながちにくるしみなきにや。それすら昔よりもちゐざること也。天地神の御すゑなれば、なにしにか代くだれる呉太伯が後にあるべき。三韓・震旦に通じてより以来、異国の人おほく此国に帰化しき。秦のすゑ、漢のすゑ、高麗・百済の種、それならぬ蕃人の子孫もきたりて、神・皇の御すゑと混乱せしによりて、姓氏録と云文をつくられき。それも人民にとりてのことなるべし。
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