弘道館記述義 / 國體以之尊嚴・勇武は忠愛の誠から発する
實胚胎於此矣。(案本也者對末之稱。當時夷蠻朝貢者猶少。故未建國號及撫三韓通中西土。或稱東天皇。或稱日出處天子。遂建日本之號以辨內外本末之分。亦唯擧往時胚胎者而發之耳。)夫日出之鄕。陽氣所發。地靈人傑。食饒兵足。上之人以好生愛民爲德。下之人以一意奉上爲心。至於其勇武則皆根諸天性。此國體之所以尊嚴也。抑所謂勇武者。非惟勁悍猛烈以逞其威。蓋亦必發於忠愛之誠。請論其略。素戔嗚尊斬蛇獲劍。以爲是神劍也不敢私。大巳貴神獻其平國之矛曰。天孫若以此治國必當平安。方是時。素戔嗚尊獲罪於天祖。大巳貴神將避國於天孫。而不啻不怨朝廷。乃獻其寶器以輸奉上之誠。其忠愛之厚何如也。若夫五瀨命臨薨慷慨撫劍以逆虜未滅爲憾。日本武尊疾篤寓懷於雄刀發情於歌詞。其感憤悲壯從容嫻雅。又復何如也。及至後世。士猶重廉恥。卑怯懦。以汚名辱先爲戒。忠義孝烈不乏其人。丹心血誠。誓天日貫金石而其跡不追。流風如馨餘情可掬者。皆上世遺俗所使然。要之自有一種藹然氣象。非海外異邦所企及者。蓋國體不得獨尊嚴。必有資於天地正大之氣。天地之氣不得獨正大。亦必有參於仁厚義勇之風。然則風俗之淳漓。國體之汚隆繫焉。在上君子豈可弗留心哉。
新字:実胚胎於此矣。(案本也者対末之称。当時夷蠻朝貢者猶少。故未建国号及撫三韓通中西土。或称東天皇。或称日出処天子。遂建日本之号以弁内外本末之分。亦唯挙往時胚胎者而発之耳。)夫日出之郷。陽気所発。地霊人傑。食饒兵足。上之人以好生愛民為徳。下之人以一意奉上為心。至於其勇武則皆根諸天性。此国体之所以尊厳也。抑所謂勇武者。非惟勁悍猛烈以逞其威。蓋亦必発於忠愛之誠。請論其略。素戔嗚尊斬蛇獲剣。以為是神剣也不敢私。大巳貴神献其平国之矛曰。天孫若以此治国必当平安。方是時。素戔嗚尊獲罪於天祖。大巳貴神将避国於天孫。而不啻不怨朝廷。乃献其宝器以輸奉上之誠。其忠愛之厚何如也。若夫五瀨命臨薨慷慨撫剣以逆虜未滅為憾。日本武尊疾篤寓懐於雄刀発情於歌詞。其感憤悲壮従容嫻雅。又復何如也。及至後世。士猶重廉恥。卑怯懦。以汚名辱先為戒。忠義孝烈不乏其人。丹心血誠。誓天日貫金石而其跡不追。流風如馨余情可掬者。皆上世遺俗所使然。要之自有一種藹然気象。非海外異邦所企及者。蓋国体不得独尊厳。必有資於天地正大之気。天地之気不得独正大。亦必有参於仁厚義勇之風。然則風俗之淳漓。国体之汚隆繋焉。在上君子豈可弗留心哉。
書き下し
実に此に胚胎す。(案ずるに本なる者は末に対するの称なり。当時、夷蛮の朝貢する者猶ほ少なし。故に未だ国号を建てず。三韓を撫し西土に通ずるに及び、或いは東天皇と称し、或いは日出づる処の天子と称し、遂に日本の号を建てて以て内外本末の分を弁ず。亦た唯だ往時の胚胎する者を挙げて之を発するのみ。)夫れ日出づるの郷は、陽気の発する所、地霊人傑、食饒かに兵足る。上の人は好生愛民を以て徳と為し、下の人は一意奉上を以て心と為す。其の勇武に至りては、則ち皆天性に根ざす。此れ国体の尊厳なる所以なり。抑も所謂勇武とは、惟だ勁悍猛烈にして以て其の威を逞しうするのみに非ず。蓋し亦た必ず忠愛の誠より発す。請ふ其の略を論ぜん。素戔嗚尊は蛇を斬りて剣を獲、以為らく是れ神剣なり、敢へて私せず、と。大巳貴神は其の平国の矛を献じて曰く、天孫若し此を以て国を治めば、必ず当に平安なるべし、と。是の時に方り、素戔嗚尊は罪を天祖に獲、大巳貴神は将に国を天孫に避らんとす。而して啻に朝廷を怨みざるのみならず、乃ち其の宝器を献じて以て奉上の誠を輸す。其の忠愛の厚きこと何如ぞや。五瀬命の薨ぜんとするに臨みて慷慨し、剣を撫して逆虜未だ滅びざるを以て憾みと為し、日本武尊の疾篤きや、懐ひを雄刀に寓し、情を歌詞に発するが若きは、其の感憤悲壮、従容嫻雅、又た復た何如ぞや。後世に至るに及びても、士は猶ほ廉恥を重んじ、卑怯懦弱を賤しみ、汚名先を辱むるを以て戒めと為し、忠義孝烈の人乏しからず。丹心血誠、天日に誓ひ金石を貫き、其の跡追はずして、流風は馨るが如く、余情は掬すべき者、皆上世の遺俗の然らしむる所なり。之を要するに自ら一種の藹然たる気象有り、海外異邦の企及する所に非ず。蓋し国体は独り尊厳なるを得ず、必ず天地正大の気に資る有り。天地の気は独り正大なるを得ず、亦た必ず仁厚義勇の風に参る有り。然らば則ち風俗の淳漓は、国体の汚隆の繋かる所なり。在上の君子、豈に心を留めざるべけんや。
現代語訳
まことにここにその兆しがあります。(考えますに、「本」とは「末」に対する称である。当時は、異民族で朝貢する者はまだ少なかった。そのためまだ国号を立てていなかった。三韓を従えて中国と通じるに及んで、あるいは「東の天皇」と称し、あるいは「日出づる処の天子」と称し、ついに日本の号を立てて内外・本末の区別をつけた。これもただ昔の兆しを挙げて明らかにしたにすぎない。)日の出る郷は陽の気が発するところで、土地は霊妙で人は傑出し、食物は豊かで兵は足りています。上に立つ人は命を愛し民をいつくしむことを徳とし、下の人は一途に上を奉じることを心としています。その勇武については、みな天性に根ざしています。これが国体が尊く厳かである理由です。そもそもいわゆる勇武とは、ただ荒々しく猛々しくして威を振るうことではありません。必ず忠と愛のまことから発するものです。その概略を論じさせてください。素戔嗚尊は大蛇を斬って剣を得たとき、これは神の剣であると考え、あえて私物にしませんでした。大己貴神はその国を平定した矛を献じて言いました。「天孫がもしこの矛で国を治めれば、必ず平安になるでしょう」と。このとき、素戔嗚尊は天祖に罪を得、大己貴神は国を天孫に譲ろうとしていました。それでも朝廷を怨まないどころか、その宝器を献じて上を奉るまことを尽くしました。その忠愛の厚いことはどれほどでしょうか。五瀬命が亡くなろうとするとき、憤りを感じ、剣を撫でて、逆らう敵がまだ滅びていないことを無念としたことや、日本武尊が重い病のとき、思いを太刀に託し、心情を歌に詠んだことのように、その憤りと悲壮、そして落ち着いた優雅さは、どれほどでしょうか。後世に至っても、武士は廉恥を重んじ、卑怯や弱さを軽蔑し、汚名で先祖を辱めることを戒めとし、忠義孝烈の人は少なくありませんでした。まごころと血の誠は天日に誓い金石を貫き、その跡は追えなくとも、残された風は香るようで、余情はすくい取れるほどなのは、みな上世の遺風がそうさせたものです。要するに、おのずから一種のなごやかな気風があり、海外の異国が及ぶところではありません。国体は単独では尊く厳かではありえず、必ず天地の正大な気によってのものです。天地の気も単独では正大ではありえず、必ず仁厚と義勇の風が加わってのものです。そうであれば、風俗の淳朴さと軽薄さは、国体の盛衰に関わっています。上に立つ君子は、どうして心に留めずにいられましょう。
解説
この章句が説くこと
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