弘道館記述義 / 威公・水戸の祖・威公と徳川三家の成り立ち
吾祖威公。實受封於東土。臣彪謹案。初威公之生也。島津義久。請養爲子。東照宮不許。及年甫三歲封之於常陸下妻。則當時蓋旣有以公鎭東陲之意。年七歲改封水戶。水戶者常陸之巨鎭。東臨大海。西連東野。南接北總。北通陸奧。佐竹氏世據之稱雄關左。及東照宮徒佐竹氏於出羽。淨鑑公子。(東照宮第□子諱信吉冒武田氏。)南龍公相踵封於玆。至是威公代焉。時敬公旣封於尾張。南龍公徙遠江。遂封於紀伊。而所謂三家之形成矣。抑敬公於東照宮爲第八子。南龍公及威公爲最少公子。而皆膺大藩。歷世相承任亞相黃門之官。名望之隆。天下諸侯無敢抗禮者。其故何哉。臣嘗聞之先臣。曰慶長庚子關原之役。我軍大捷。東照宮之霸業蓋成於此。而敬公實生於是歲。越二年壬寅南龍公生焉。明年癸卯東照宮始任大將軍。而我威公生焉。(公以是歲八月生於伏見城。母正木氏。左近太夫賴忠女。與南龍公同出。時太田氏有寵於東照宮而無子。乃命威公慈母。太田氏者所謂英勝院也。)先是台德公旣立爲世子。其他公子非一。然戰國亂離之際。或出冒他姓。或不幸隕命。至於關原奏功之後。東照宮齡方耳順。而三公子振振生於四年之間。又皆岐嶷成立有英傑之姿者。殆有天意。則其眷遇固非他子之比。故嘗遺命台德公以善視三公子。及病篤又召三家傅相。面囑以輔導。乃其所以維城鼎立輔翼幕府永爲皇家藩屏者。蓋非偶然云。
新字:吾祖威公。実受封於東土。臣彪謹案。初威公之生也。島津義久。請養為子。東照宮不許。及年甫三歳封之於常陸下妻。則当時蓋既有以公鎮東陲之意。年七歳改封水戸。水戸者常陸之巨鎮。東臨大海。西連東野。南接北総。北通陸奥。佐竹氏世拠之称雄関左。及東照宮徒佐竹氏於出羽。浄鑑公子。(東照宮第□子諱信吉冒武田氏。)南竜公相踵封於玆。至是威公代焉。時敬公既封於尾張。南竜公徙遠江。遂封於紀伊。而所謂三家之形成矣。抑敬公於東照宮為第八子。南竜公及威公為最少公子。而皆膺大藩。歴世相承任亜相黄門之官。名望之隆。天下諸侯無敢抗礼者。其故何哉。臣嘗聞之先臣。曰慶長庚子関原之役。我軍大捷。東照宮之覇業蓋成於此。而敬公実生於是歳。越二年壬寅南竜公生焉。明年癸卯東照宮始任大将軍。而我威公生焉。(公以是歳八月生於伏見城。母正木氏。左近太夫頼忠女。与南竜公同出。時太田氏有寵於東照宮而無子。乃命威公慈母。太田氏者所謂英勝院也。)先是台徳公既立為世子。其他公子非一。然戦国乱離之際。或出冒他姓。或不幸隕命。至於関原奏功之後。東照宮齢方耳順。而三公子振振生於四年之間。又皆岐嶷成立有英傑之姿者。殆有天意。則其眷遇固非他子之比。故嘗遺命台徳公以善視三公子。及病篤又召三家傅相。面囑以輔導。乃其所以維城鼎立輔翼幕府永為皇家藩屏者。蓋非偶然云。
書き下し
吾が祖威公、実に東土に封を受く。臣彪謹んで案ずるに、初め威公の生まるるや、島津義久、請ひて養ひて子と為さんとす。東照宮許さず。年甫めて三歳にして之を常陸下妻に封ず。則ち当時蓋し既に公を以て東陲を鎮するの意有り。年七歳にして水戸に改封す。水戸は常陸の巨鎮なり。東は大海に臨み、西は東野に連なり、南は北総に接し、北は陸奥に通ず。佐竹氏世々之に据り関左に称雄す。東照宮の佐竹氏を出羽に徙すに及び、浄鑑公の子(東照宮第□子、諱は信吉、武田氏を冒す。)、南龍公相踵ぎて玆に封ぜられ、是に至りて威公代はる。時に敬公既に尾張に封ぜられ、南龍公は遠江に徙り、遂に紀伊に封ぜらる。而して所謂三家の形成れり。抑も敬公は東照宮に於て第八子たり、南龍公及び威公は最少の公子たり。而るに皆大藩に膺り、歴世相承けて亜相黄門の官に任ず。名望の隆んなること、天下の諸侯敢へて礼を抗ふる無し。其の故何ぞや。臣嘗て之を先臣に聞く。曰く、慶長庚子関原の役、我が軍大捷し、東照宮の覇業蓋し此に成る。而して敬公は実に是の歳に生まる。二年を越えて壬寅、南龍公生まる。明年癸卯、東照宮始めて大将軍に任ぜられ、而して我が威公生まる。(公は是の歳八月、伏見城に生まる。母は正木氏、左近大夫頼忠の女、南龍公と同じく出づ。時に太田氏、東照宮に寵有りて子無し。乃ち威公の慈母たらしむ。太田氏は所謂英勝院なり。)是より先、台徳公既に立ちて世子と為る。其の他の公子も一に非ず。然れども戦国乱離の際、或いは出でて他姓を冒し、或いは不幸にして命を隕とす。関原奏功の後に至りて、東照宮の齢方に耳順、而して三公子振振として四年の間に生まる。又皆岐嶷成立して英傑の姿有る者なり。殆んど天意有らん。則ち其の眷遇は固より他の子の比に非ず。故に嘗て台徳公に遺命して以て善く三公子を視ること。病篤きに及び、又三家の傅相を召し、面に輔導を嘱す。乃ち其の維城鼎立し幕府を輔翼して永く皇家の藩屏たる所以の者は、蓋し偶然に非ずと云ふ。
現代語訳
「わが祖先の威公(徳川頼房)は、まことに東国で領地を受けた。」臣の彪が謹んで考えますに、威公が生まれた当初、島津義久が願い出て養子にしようとしましたが、東照宮(徳川家康)は許しませんでした。三歳のとき、常陸の下妻に封じられました。当時すでに、威公をもって東の辺境を鎮めさせる考えがあったのでしょう。七歳で水戸に改封されました。水戸は常陸の大きな要地です。東は大海に臨み、西は下野に連なり、南は下総の北部に接し、北は陸奥に通じます。佐竹氏が代々ここに拠って関東の左(東)で覇を唱えていました。東照宮が佐竹氏を出羽に移すと、浄鑑公(武田信吉。東照宮の第(底本で判読できない字)子で、名は信吉、武田氏を名乗りました)と南龍公(徳川頼宣)が相次いでここに封じられ、その後に威公が代わりました。そのころ、敬公(徳川義直)はすでに尾張に封じられ、南龍公は遠江に移り、ついで紀伊に封じられました。こうしていわゆる三家が形づくられました。そもそも敬公は東照宮の第八子、南龍公と威公は最も年少の公子です。それなのに三人とも大藩を任され、代々、亜相(大納言)・黄門(中納言)の官に任じられました。名望が高く、天下の諸侯で対等の礼を取る者はいませんでした。その理由は何でしょうか。私は以前、先臣から次のように聞きました。慶長庚子の年(1600)の関ヶ原の役で、わが軍が大勝し、東照宮の覇業はここで成りました。そして敬公はまさにこの年に生まれました。二年後の壬寅の年に南龍公が生まれ、その翌年の癸卯の年に、東照宮がはじめて大将軍に任じられ、わが威公が生まれました。(威公はこの年の八月に伏見城で生まれました。母は正木氏、左近大夫頼忠の娘で、南龍公と同じ母です。そのとき、太田氏は東照宮の寵愛を受けていましたが子がなく、威公の養母とされました。太田氏はいわゆる英勝院です。)これより前、台徳公(徳川秀忠)がすでに世子に立てられていました。そのほかの公子も一人ではありませんでした。しかし戦国の乱離のなかで、ある者は他姓を名乗り、ある者は不幸にして命を落としました。関ヶ原での功績の後、東照宮がちょうど耳順(六十歳)の年齢に、三公子が盛んに四年の間に生まれました。また三人とも幼いときから賢く、成長して英傑の資質がありました。ほとんど天意があったのでしょう。その待遇はもとより他の子とは違いました。だから台徳公に遺命して、三公子をよく見守るようにと言い、病が重くなると、さらに三家の傅役(教育係)や補佐役を呼んで、面と向かって輔導を頼みました。三家が幕府を輔けて永く皇室の守りとなっている理由は、偶然ではない、といいます。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『弘道館記述義』・明倫正名・禄を食む者が報いるべき恩の本臣彪謹んで案ずるに、寛永丙寅、威公、台徳・大猷二公に従ひ、京師に朝す。始めて権中納言に任ぜられ三位に叙せらる。後また大猷公に従ひて入朝す。厥の後、朝覲の礼行はれず。事有る毎に、人をして西上せしめ奉上の誠を輸すに過ぎず。而れども位階官銜に至りては、則ち世、祖先の例を視て沈滞有ること無し。乃ち家老以下陪臣の賤の若きも、亦敢へて爵命を辱くす。朝廷の武家を待つ所以、優渥と謂ふべし。初め威公の下妻に封ぜらるるや、食邑十万石に過ぎず。水戸に移封せらるるに及び、二十五万石を食む。東照宮嘗て諸侯に課して名護屋城を脩めしむ。又水戸城を脩めんと欲し、我が国老蘆沢信重を召して謂ひて曰く、吾将に明年水戸に臨み、親ら其の役を視んとすと。会々其の薨じて果たさず。台徳公遺訓を奉じて本藩を優待し、三万石を加ふ。(所謂松岡及び小川等是なり。)大猷公又水戸城を脩めんと欲し、既に伊豆国に課して山を穿ち石を取らしむ。事も亦果たさず。(江戸隅田川東岸に石場なる者数所有り。便ち当時伊豆石を置くの地なり)別に公子頼重を常陸下館に封ず。又讃岐に改封す。義公嘗て地を諸弟に頒つ。常憲公に及び、別に邑を陸奥に賜ふ。其の旧邑は本藩に復帰す。通算して墾田三十五万石と号す。然れども尾・紀二国と広狭懸絶す。其の鹵簿礼数は則ち鼎立頡頏す。以て故に災害事故有る毎に、幕府大いに財弊を出して以て之を助くる者、世として無きは無し。幕府の懿親を遇する所以、亦至厚と謂ふべし。今夫れ国中の士大夫、太平の沢に沐浴し、儼然として親藩麾下と称す。而して飽食暖衣、佚楽是れ耽る。其の常言に曰く、苟くも悪を為さざれば則ち以て禄秩を保つべしと。甚だしきは則ち曰く、租入甚だ減ず、何ぞ農夫の無状なるやと。廩米秕悪なり、何ぞ有司の鄙吝なるやと。嗚呼其の租入は孰れか之を賜ひ、廩米は孰れか之を給するや。若し其れ悪を為さざる者は、樵夫牧豎蚕戸鹺丁の当に然るべき所なり。樵牧蚕鹺は租入を収めず廩米を食らはずして、終身矻矻として山海林野に従事す。巨室世家は則ち食らひて其の事を怠る。僅かに其の悪を為さざるを以て、蚕鹺樵牧の民に比す。亦憫むべからずや。抑も亦尽く其の本に報ゆる所以を思へ。何となれば則ち父母なり、君なり、祖宗なり。然らば則ち臣子たる者、誠に宜しく其の身を正し其の道を行ひ、以て君父に事へ以て祖宗に報ゆべし。邦君たる者も亦宜しく其の士民を撫育し、幕府を輔翼し以て列聖の鴻恩に報ゆべし。詩に曰く、爾の祖を念ふ勿からんや、聿に其の徳を脩めよと。所謂斯の道を推弘し先徳を発揚する者は、其れ亦斯に在るか。
-
『弘道館記述義』・義公・義公の生い立ちと神道の復興義公継述す。臣彪謹んで案ずるに、義公は実に威公の第三子たり。年六歳にして立ちて世子と為る。(公は寛永戊辰六月十日、三木の次宅に生まる。母は靖定夫人谷氏、左馬介重則の女。小字は千代松。綿衣麁服、二婢一奴奉養すること極めて倹なり。三木の宅は水戸城南の柵町に在り。今の所謂中御殿の地是れなり。公の胞衣を瘞めし処見に存す。)公生まれて岐嶷、風神俊邁なり。其の幼きにして既に敢為に勇なり。(公嘗て威公に従ひて斬首を観る。因りて桜馬場に於て、夜に至り威公公を試みて曰く、能く昼間斬る所の首を提げ来たらんかと。馬場は邸の西南に在り、樹木蒙密にして闇夜に路を弁じ難し。公直ちに赴き模索して首を獲、其の重きに勝へず、髪を挈げて曳き来たり、復た難色無し。威公刀を賜ひて之を賞す。時に年七歳。公善く泅ぐ。威公之を浅草川に試む。公流れを絶ちて済る。時に年十二。威公之を壮とす。又宗近の造る所の小刀を賜ふ。)深く威公の鍾愛する所と為る。乃ち威公薨じて封を襲ぐ。初め威公は神道を学ぶも、蓋し卜部家の伝ふる所に止まる。又文学を好み、仏氏を排す。常に侍臣をして経史を読ましめて之を聴く。亦未だ之を事業に施すに暇あらず。義公其の志を継述す。嘗て吉田・静の祠を脩造す。吉田は日本武尊を祀り、静は手力雄命を祀る。延喜の祀典に列す。而るに往往にして浮屠の潰す所と為る。公悉く僧徒を徙して其の地を清め、祠官に命じて其の廃典を脩めしむ。其の他の正祠の封内に在る者も、亦命じて脩造せしむ。一村毎に必ず一祠を奉じ、以て民心を一にす。是より先、威公、東照宮の原廟を城外の常盤山に建て、江戸寛永寺の子院をして遥かに之を主らしむ。名づけて別当と曰ふ。
-
『弘道館記述義』・日本武尊・威公の勇武と、士を養う恩威並び施す姿夙に日本武尊の人と為りを慕ひ、神道を尊び武備を繕ふ。臣彪謹んで案ずるに、景行帝の時、熊襲屢々叛く。帝皇子小碓尊に命じて之を討たしむ。皇子年僅かに十六、其の智勇に憑りて直ちに渠魁を殲す。厥の後又詔を奉じて蝦夷を征す。其の発するや、伊勢神宮を拝し、其の神剣を奉じて出づ。遂に能く妖氛を駆除し辺陲を平定す。蓋し当時蝦夷の種類内地に雑処し、叛服常ならず大いに民害を為す。是に至りて遠近懾服し、東北の地始めて皇化に霑ふ。帝嘗て皇子を目して神人と為す。而して強暴冥頑なること川上梟帥の若き、恐怖畏縮して戮に臨み、日本武尊の号を献ず。千載の下、凜凜として猶ほ生気有り。我が威公夙に東陲の重寄を受く。其の地は皆皇子の餘烈の存する所にして、皇子の祠、適々水戸の南郊に在り。(吉田神社と称す。延喜式の所謂名神大なり。)古木蓊鬱として屹として府城と相峙す。則ち感懐の餘り、慨然として欽慕の情を興すは、信に以有るなり。公嘗て神道を萩原兼従に受け、尤も神祇を重んず。寛永中大猷公疾に罹る。公之を憂へ、健御雷神に祷る。既にして大猷公癒ゆ。公乃ち鹿島の祠を脩めて以て賽す。又嘗て親しく其の祠を拝し、威儀甚だ謹めり。公は勇武天性に根ざし、傍ら伎芸に長ず。嘗て大猷公に従ひて板橋に猟し、野猪数頭を射殪す。大猷公恒に称して曰く、水戸殿は今の能州なりと。能州は蓋し平教経を謂ふなり。其の士を養ふや恩威並び施す。嘗て国に就くに、岩本越中なる者有り、銃を放ちて鷺を城上の樹に獲たり。公召して之を詰る。対へて曰く、臣は善く病む。聞く、鷺を食へば癒ゆべしと。当時唯だ鷺を是れ視る。然れども臣の鷺と孰れか重きと。公笑ひて曰く、汝と法と孰れか重きと。越中屈服す。公竟に舎きて問はず。明暦中江戸に大火あり、延びて我が邸に及ぶ。近臣向坂弥九郎、焰を侵して公の愛する所の書を持して出づ。有司賞せんことを請ふ。公曰く、寡人も亦深く之を嘉す。然れども之を賞すれば則ち他日士を水火に傷つけんことを恐ると。果して賞せず。島原の賊の伏誅するや、鍋島氏律を犯して先登す。法は国除に当たる。幕府其の罪を議す。公曰く、厳法もて後を懲らすは戦国の事なり。今天下の人安んじて復た反乱有るを容れず。而して重罰軽賞せば、諸侯何をか頼まん。偉勲彼の若くして国除かるるは、某命を奉ずるを肯んぜずと。大猷公深く之を納る。議遂に寝む。戦国以来殉死盛んに行はれ、諸侯或いは其の多きを以て誇る。公遺命して之を禁ず。亡幾くもなく幕府大いに其の禁を天下に布く。公実に之が倡を為せり。公嘗て辺寇を慮り、堠を沿海各処に設けて以て緩急を報ず。当時東海の針路未だ通ぜず、外夷の患は常に西陲に在り。後百数十年、北虜蝦夷を擾し、文政年間に至りて、夷船の東海に出没する者、歳として無きはなし。各処の堠台始めて其の用を為す。嗚呼公の慮る所遠きかな。東照宮、台徳公に遺命するに、公を以て腰刀に比す。蓋し其の愛護して身を防ぐべきに取るなり。是に於て台徳公特に親信を加へ、大猷公の時に及びて亦屢々公を延きて謀議に与らしむ。人其の故を知る莫きなり。義公恒に諸侍臣に語りて云ふ。
-
『弘道館記述義』・東照宮・東照宮が乱を治めた至誠と義勇我が東照宮、乱を撥めて正に反す。臣彪謹んで案ずるに、建武の中興終らずして、天下の権竟に足利に帰す。当時身を以て芳野に徇ふ者は、皆忠義の士なり。覥然たる面目にて足利の鼻息を仰ぐ者は、皆貪婪無恥の徒なり。既に忠義の士を殲して以て皇家を孤にし、又貪婪無恥の徒を聚めて以て其の私を成す。甚しきかな。足利の無道なること、而して天の不仁に与するも其れ亦此に至るか。足利既に不仁を以て之を得、親戚之に倣ひ、陪臣之に倣ひ、天下靡然として唯だ利を是れ求め、復た忠孝仁義の何物たるかを知らず。終に将軍管領は有名無実となり、群雄并び起こりて争ひて州郡に跨がり、西滅び東起こりて互ひに呑噬す。生民の禍も亦惨なり。昔者源平二氏は、派別れて天潢より出づ。然れども降りて人臣と為り、久しく武士に混ずれば、則ち公卿視ること奴隷の如し。足利の衰ふるに至りては、則ち織田は陪臣より起こり、而して豊臣は又織田の臣より起こる。三台の座は則ち之を官に闕き、一蹴超遷すること地の芥を拾ふが如し。天下の変も亦甚だし。然れども織田の権数智謀は、固より当時の群雄の比に非ず。豊臣の雄才大略は、又海内外を圧倒す。乃ち其の一世を鞭撻し、八洲を盪滌する所以は則ち可なり。扶桑の根抵を培養し、天下を富嶽の安きに措く所以に至りては、則ち未だ可ならざるなり。我が東照宮は則ち然らず。蓋し彼は詐術を以てし、我は至誠を以てす。彼は威強を以てし、我は義勇を以てす。彼は土地財利を以て人心を籠絡し、我は礼義廉恥を以て士気を磨礪す。彼の功を奏すること甚だ速やかなるも、其の敗るるや土崩瓦解す。我が基を搆ふること迂なるが若きも、其の成るや牢固として抜けず。凡そ其の言行は必ず忠孝仁義に本づき、其の政教施設は暗に聖賢の道に合す。以て神州の元気を養ふに足る者、往往にして有り。此れ其の覇業の隆んなること前人に卓越する所以にして、所謂撥乱反正とは、其れ然らずや。古人言へる有り、曰く、人衆ければ天に勝つ、天定まれば亦能く人に勝つと。足利既に貪婪無恥を以て一世を風靡す。貪婪無恥の俗極まりて、室町の業忽ち諸む。既に忠義の士を殲すも、忠義の種は滅泯すべからず。維れ天、新田の族を陰隲し、流離間関して幾んど絶えて僅かに存す。累世の徳を積み、東照宮に至りて大いに其の光を発す。而して池田・井伊・奥平・大久保・鳥居・天野・栗生の諸氏は、蓋し亦皆忠義の遺孽を以て、芳野の餘馨を伝へ、風雲に際会して禍乱を裁定し、以て今日の盛を致す。則ち天の終に不仁に勝つや、亦明らかなり。嗚呼亦畏るべきかな。
-
『弘道館記述義』・允武允文・允武允文、仁義を軸にした太平の基允に武、允に文、以て太平の基を開く。臣彪謹んで案ずるに、東照宮の覇業の隆んなる、固より前人に卓越す。而して二百数十年太平の盛んなるも、亦中世以降の未だ有らざる所なり。世の徳業を賛美する者、其の武を語れば則ち大高の糧を繼ぐに始まり、浪華の二役に終る。其の文を語れば則ち儒術を崇び学士を聘し、経籍を兵戈の間に講ずと曰ふ。臣竊かに謂へらく、是れ皆公の偉烈美談、臣子の宜しく称述すべき所なり。然れども所謂允武允文とは、豈に此に止まるのみならんや。夫れ尊皇室、攘夷狄は、文武の最大なる者なり。前に已に之を言へり。請ふ敢へて其の余論を陳べん。蓋し文武に貴ぶ所以は、其の一に偏せずして之を仁義に用ふる能ふを以てなり。初め公は今川義元の育つる所と為る。後、墓を過ぐる毎に必ず下りて拝す。又善く其の昏弱の子を遇し、邑を分けて給するに至る。公の地を拓くは、頗る織田氏の援に藉る。織田氏敗るるに及び、豊臣氏日に益々強大にして、遂に織田の後を除かんことを図る。公は敢へて旧誼を忽せにせず、決然として其の孤を援け、怨みを強敵に構へて顧みず。武田勝頼の敗死するや、織田氏其の首を見て極口に之を罵る。公は則ち胡貉の為に之を礼す。且つ織田氏の威を逞しうするに当たりて、公は孤立彈丸の地にあり、苟くも附せず、彼の和を求むるに至りて始めて之に従ふ。豊臣の強大なるに方りて、公僅かに五州の地を以て之と抗衡す。和議の説起こるに及び、人或いは公に勧む、大小敵し難し、之を許すに如かずと。公怒りて曰く、義を顧みること何如なるかのみ。奚ぞ勝敗を論ぜんと。其の連りに和を乞ひ婚を求むるに及びて、然る後に徐ろに之に従ふ。其の忠厚義勇は大率ね此くの如し。故に将士の其の化に浴する者も亦皆忠義に勉め名節を励む。参河の土風、蔚乎として当世に絶冠す。涵蓄充溢し、抑へて発せざること数十年、関原の一挙に及び、天下思服すること水の下□に帰するが如し。此れ蓋し公の武なり、而して文も亦寓す。公の参河を治むるや、奉行三員を置く。其の人或いは剛、或いは柔、或いは剛柔偏らず。蓋し其の寛猛並び施し宜しきを得んと欲するなり。其の甲斐信濃を鎮するや、務めて武田氏の旧に因り、唯だ厚斂酷刑を除く。勝頼の墓を弔ひ、小宮山内膳の後に禄す。其の関東を撫するや、亦北条氏の制に循ひ、其の煩苛なる者を除く。又中山家範等の後を索めて之に禄す。其の天下に政を為すに及び、豊臣氏の規模に因りて其の弊を櫽括す。天下の人牧拱手して約束に就き、綱紀振粛秩然として封建の治を成す。在職二年、身を駿河に老ゆ、以て嗣君に帰望す。適孫に礼して人心を定め、孫謀を貽して遺訓を垂れ、以て今日の盛を開く。此れ蓋し公の文なり、而して武も亦寓す。然れば則ち公の允武允文する所以は、固より仁義に外ならず。而して文と武と、未だ始めより相須ちて美を済さざるはあらず。嗚呼上に在る君子、苟くも其の遺業を脩めて以て太平を無窮に保たんと欲せば、則ち文武を励むに在り、仁義を務むるに在るかな。
-
『論語と算盤』処世と信条・人は平等なるべし我が国の古今を通じて、徳川家康という人ほど巧みに適材を適所に配備して、自家の権勢を張るに便じた権謀家は見当たらない。居城江戸の警備として、関東はおおかた譜代恩顧の郎党をもって取り固め、箱根の関所を控えて大久保相模守を小田原に備え、いわゆる三家は、水戸家をもって東国の門戸を抑え、尾州家をもって東海の要衝を扼し、紀州家をもって畿内の背後を警め、井伊掃部頭を彦根に置いて平安王城を圧したなど、人物の配備は実にその妙を極めたのである。その他越後の榊原、会津の保科、出羽の酒井、伊賀の藤堂にしても、かつは中国九州はもちろん、日本国中到らぬ隈なく、要所には必ず自家恩顧の郎党を配備し、これはと思う大名は、手も足も出ぬように取り詰め、見事に徳川三百年の社稷を築き上げたのである。かくして得たる家康の覇道は、我が国体に適うものであったか否かは、私が改めて批評するまでもないが、ともかくも適材を適所に置くという手腕においては、古今家康に企及し得るもの、我が国史にはその匹儔を覓め難いのである。

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る