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弘道館記述義 / 威公・水戸の祖・威公と徳川三家の成り立ち

吾祖威公。實受封於東土。臣彪謹案。初威公之生也。島津義久。請養爲子。東照宮不許。及年甫三歲封之於常陸下妻。則當時蓋旣有以公鎭東陲之意。年七歲改封水戶。水戶者常陸之巨鎭。東臨大海。西連東野。南接北總。北通陸奧。佐竹氏世據之稱雄關左。及東照宮徒佐竹氏於出羽。淨鑑公子。(東照宮第□子諱信吉冒武田氏。)南龍公相踵封於玆。至是威公代焉。時敬公旣封於尾張。南龍公徙遠江。遂封於紀伊。而所謂三家之形成矣。抑敬公於東照宮爲第八子。南龍公及威公爲最少公子。而皆膺大藩。歷世相承任亞相黃門之官。名望之隆。天下諸侯無敢抗禮者。其故何哉。臣嘗聞之先臣。曰慶長庚子關原之役。我軍大捷。東照宮之霸業蓋成於此。而敬公實生於是歲。越二年壬寅南龍公生焉。明年癸卯東照宮始任大將軍。而我威公生焉。(公以是歲八月生於伏見城。母正木氏。左近太夫賴忠女。與南龍公同出。時太田氏有寵於東照宮而無子。乃命威公慈母。太田氏者所謂英勝院也。)先是台德公旣立爲世子。其他公子非一。然戰國亂離之際。或出冒他姓。或不幸隕命。至於關原奏功之後。東照宮齡方耳順。而三公子振振生於四年之間。又皆岐嶷成立有英傑之姿者。殆有天意。則其眷遇固非他子之比。故嘗遺命台德公以善視三公子。及病篤又召三家傅相。面囑以輔導。乃其所以維城鼎立輔翼幕府永爲皇家藩屏者。蓋非偶然云。

新字:吾祖威公。実受封於東土。臣彪謹案。初威公之生也。島津義久。請養為子。東照宮不許。及年甫三歳封之於常陸下妻。則当時蓋既有以公鎮東陲之意。年七歳改封水戸。水戸者常陸之巨鎮。東臨大海。西連東野。南接北総。北通陸奥。佐竹氏世拠之称雄関左。及東照宮徒佐竹氏於出羽。浄鑑公子。(東照宮第□子諱信吉冒武田氏。)南竜公相踵封於玆。至是威公代焉。時敬公既封於尾張。南竜公徙遠江。遂封於紀伊。而所謂三家之形成矣。抑敬公於東照宮為第八子。南竜公及威公為最少公子。而皆膺大藩。歴世相承任亜相黄門之官。名望之隆。天下諸侯無敢抗礼者。其故何哉。臣嘗聞之先臣。曰慶長庚子関原之役。我軍大捷。東照宮之覇業蓋成於此。而敬公実生於是歳。越二年壬寅南竜公生焉。明年癸卯東照宮始任大将軍。而我威公生焉。(公以是歳八月生於伏見城。母正木氏。左近太夫頼忠女。与南竜公同出。時太田氏有寵於東照宮而無子。乃命威公慈母。太田氏者所謂英勝院也。)先是台徳公既立為世子。其他公子非一。然戦国乱離之際。或出冒他姓。或不幸隕命。至於関原奏功之後。東照宮齢方耳順。而三公子振振生於四年之間。又皆岐嶷成立有英傑之姿者。殆有天意。則其眷遇固非他子之比。故嘗遺命台徳公以善視三公子。及病篤又召三家傅相。面囑以輔導。乃其所以維城鼎立輔翼幕府永為皇家藩屏者。蓋非偶然云。

書き下し

吾が祖威公、実に東土に封を受く。臣彪謹んで案ずるに、初め威公の生まるるや、島津義久、請ひて養ひて子と為さんとす。東照宮許さず。年甫めて三歳にして之を常陸下妻に封ず。則ち当時蓋し既に公を以て東陲を鎮するの意有り。年七歳にして水戸に改封す。水戸は常陸の巨鎮なり。東は大海に臨み、西は東野に連なり、南は北総に接し、北は陸奥に通ず。佐竹氏世々之に据り関左に称雄す。東照宮の佐竹氏を出羽に徙すに及び、浄鑑公の子(東照宮第□子、諱は信吉、武田氏を冒す。)、南龍公相踵ぎて玆に封ぜられ、是に至りて威公代はる。時に敬公既に尾張に封ぜられ、南龍公は遠江に徙り、遂に紀伊に封ぜらる。而して所謂三家の形成れり。抑も敬公は東照宮に於て第八子たり、南龍公及び威公は最少の公子たり。而るに皆大藩に膺り、歴世相承けて亜相黄門の官に任ず。名望の隆んなること、天下の諸侯敢へて礼を抗ふる無し。其の故何ぞや。臣嘗て之を先臣に聞く。曰く、慶長庚子関原の役、我が軍大捷し、東照宮の覇業蓋し此に成る。而して敬公は実に是の歳に生まる。二年を越えて壬寅、南龍公生まる。明年癸卯、東照宮始めて大将軍に任ぜられ、而して我が威公生まる。(公は是の歳八月、伏見城に生まる。母は正木氏、左近大夫頼忠の女、南龍公と同じく出づ。時に太田氏、東照宮に寵有りて子無し。乃ち威公の慈母たらしむ。太田氏は所謂英勝院なり。)是より先、台徳公既に立ちて世子と為る。其の他の公子も一に非ず。然れども戦国乱離の際、或いは出でて他姓を冒し、或いは不幸にして命を隕とす。関原奏功の後に至りて、東照宮の齢方に耳順、而して三公子振振として四年の間に生まる。又皆岐嶷成立して英傑の姿有る者なり。殆んど天意有らん。則ち其の眷遇は固より他の子の比に非ず。故に嘗て台徳公に遺命して以て善く三公子を視ること。病篤きに及び、又三家の傅相を召し、面に輔導を嘱す。乃ち其の維城鼎立し幕府を輔翼して永く皇家の藩屏たる所以の者は、蓋し偶然に非ずと云ふ。

現代語訳

「わが祖先の威公(徳川頼房)は、まことに東国で領地を受けた。」臣の彪が謹んで考えますに、威公が生まれた当初、島津義久が願い出て養子にしようとしましたが、東照宮(徳川家康)は許しませんでした。三歳のとき、常陸の下妻に封じられました。当時すでに、威公をもって東の辺境を鎮めさせる考えがあったのでしょう。七歳で水戸に改封されました。水戸は常陸の大きな要地です。東は大海に臨み、西は下野に連なり、南は下総の北部に接し、北は陸奥に通じます。佐竹氏が代々ここに拠って関東の左(東)で覇を唱えていました。東照宮が佐竹氏を出羽に移すと、浄鑑公(武田信吉。東照宮の第(底本で判読できない字)子で、名は信吉、武田氏を名乗りました)と南龍公(徳川頼宣)が相次いでここに封じられ、その後に威公が代わりました。そのころ、敬公(徳川義直)はすでに尾張に封じられ、南龍公は遠江に移り、ついで紀伊に封じられました。こうしていわゆる三家が形づくられました。そもそも敬公は東照宮の第八子、南龍公と威公は最も年少の公子です。それなのに三人とも大藩を任され、代々、亜相(大納言)・黄門(中納言)の官に任じられました。名望が高く、天下の諸侯で対等の礼を取る者はいませんでした。その理由は何でしょうか。私は以前、先臣から次のように聞きました。慶長庚子の年(1600)の関ヶ原の役で、わが軍が大勝し、東照宮の覇業はここで成りました。そして敬公はまさにこの年に生まれました。二年後の壬寅の年に南龍公が生まれ、その翌年の癸卯の年に、東照宮がはじめて大将軍に任じられ、わが威公が生まれました。(威公はこの年の八月に伏見城で生まれました。母は正木氏、左近大夫頼忠の娘で、南龍公と同じ母です。そのとき、太田氏は東照宮の寵愛を受けていましたが子がなく、威公の養母とされました。太田氏はいわゆる英勝院です。)これより前、台徳公(徳川秀忠)がすでに世子に立てられていました。そのほかの公子も一人ではありませんでした。しかし戦国の乱離のなかで、ある者は他姓を名乗り、ある者は不幸にして命を落としました。関ヶ原での功績の後、東照宮がちょうど耳順(六十歳)の年齢に、三公子が盛んに四年の間に生まれました。また三人とも幼いときから賢く、成長して英傑の資質がありました。ほとんど天意があったのでしょう。その待遇はもとより他の子とは違いました。だから台徳公に遺命して、三公子をよく見守るようにと言い、病が重くなると、さらに三家の傅役(教育係)や補佐役を呼んで、面と向かって輔導を頼みました。三家が幕府を輔けて永く皇室の守りとなっている理由は、偶然ではない、といいます。

解説

水戸の威公(徳川頼房)の誕生から封地までと、徳川三家が生まれた経緯を述べた一節です。東照宮が三公子の誕生を天意と見て、特別な眷顧を与え、遺命で輔導を託したと説明します。歴史的な文脈の家系の紹介ですが、現代の組織に置き換えると、重要な役割を任せる人には、その理由を明確にし、期待と支えを言葉と行動で示すことが大切だという教訓になります。管理職は、任せた理由を語り、次の世代への託し方を丁寧に行いたいものです。

この章句が説くこと

弘道館記述義藤田東湖威公徳川頼房水戸藩徳川三家

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