弘道館記述義 / 中世以降・異端が入る前に道が廃れる
中世以降。異端邪說誣民惑世。臣彪謹案。異端邪說誣民惑世者。其流非一。而西戎浮屠之敎爲尤甚。西北洋夷之敎。其害又浮於佛。(而祖宗明斷一切驅除。故不復論。)夫物先腐然後蟲生焉。道先廢然後異端入焉。西土三代之治衰。而老莊楊墨之說起。壞亂之極。嬴政稱帝。焚書坑儒。儒敎之厄亦已甚矣。劉邦起布衣。定九州。其治雖不甚純。而寬厚愛人。子孫相承。亦頗崇儒術。當是時。休屠之金人猶未獲逞其伎倆也。(漢書云。霍去病出隴西過焉支山。得休屠王祭天金人。顏師古註云。今佛像是其遺法也。)王莽篡立。漢祚幾絶。劉秀崛起恢復舊業。功亦偉矣。然深崇信讖緯。當時學者皆務迎合其意。苟不然者往往見擯斥。儒亦可謂窮也。至於其子莊。遂始迎佛於天竺。(或謂西漢元壽中既有佛法。其說本於魏略西戎傳。然後漢書云。明帝夢金人。長丈餘。頭有光明。以問群臣。或曰。西方有神名曰佛。其形丈六尺而黃金色。據此則先是未有佛也。故韓愈朱熹等皆以爲。佛始於後漢明帝時。明帝即劉莊也。)華夷內外者天下之大閑。詩書所載。周孔所言。丁寧反覆不一而足。今莊身承漢家正統。及反迎胡鬼於異域。而群臣唯唯諾諾。不聞一言半辭匡救其非。蓋其曰學者。徒章句訓詁是守。不能闡明周孔之本意。而識緯符命之說。亦有以蠱其心術識見故也。然漢魏間佛法猶未遍於世。東晉之末清談熾行。五胡內侵佛法亦漸蔓延。(晉書云姚興立浮屠於永貴里。立般若臺於中宮。州郡化之事佛者十室而九矣。)宋齊梁陳元魏之間。奉佛供僧唯恐後時。隋氏一并南北。而民間佛書。
新字:中世以降。異端邪説誣民惑世。臣彪謹案。異端邪説誣民惑世者。其流非一。而西戎浮屠之教為尤甚。西北洋夷之教。其害又浮於仏。(而祖宗明断一切駆除。故不復論。)夫物先腐然後虫生焉。道先廃然後異端入焉。西土三代之治衰。而老荘楊墨之説起。壊乱之極。嬴政称帝。焚書坑儒。儒教之厄亦已甚矣。劉邦起布衣。定九州。其治雖不甚純。而寛厚愛人。子孫相承。亦頗崇儒術。当是時。休屠之金人猶未獲逞其伎倆也。(漢書云。霍去病出隴西過焉支山。得休屠王祭天金人。顔師古註云。今仏像是其遺法也。)王莽篡立。漢祚幾絶。劉秀崛起恢復旧業。功亦偉矣。然深崇信讖緯。当時学者皆務迎合其意。苟不然者往往見擯斥。儒亦可謂窮也。至於其子荘。遂始迎仏於天竺。(或謂西漢元寿中既有仏法。其説本於魏略西戎伝。然後漢書云。明帝夢金人。長丈余。頭有光明。以問群臣。或曰。西方有神名曰仏。其形丈六尺而黄金色。拠此則先是未有仏也。故韓愈朱熹等皆以為。仏始於後漢明帝時。明帝即劉荘也。)華夷内外者天下之大閑。詩書所載。周孔所言。丁寧反覆不一而足。今荘身承漢家正統。及反迎胡鬼於異域。而群臣唯唯諾諾。不聞一言半辞匡救其非。蓋其曰学者。徒章句訓詁是守。不能闡明周孔之本意。而識緯符命之説。亦有以蠱其心術識見故也。然漢魏間仏法猶未遍於世。東晋之末清談熾行。五胡内侵仏法亦漸蔓延。(晋書云姚興立浮屠於永貴里。立般若台於中宮。州郡化之事仏者十室而九矣。)宋斉梁陳元魏之間。奉仏供僧唯恐後時。隋氏一并南北。而民間仏書。
書き下し
中世以降。異端邪説、民を誣ひ世を惑はす。臣彪謹んで案ずるに、異端邪説の民を誣ひ世を惑はす者は、其の流一に非ず。而して西戎浮屠の教、尤も甚だしと為す。西北洋夷の教は、其の害又仏に浮ゆ。(而して祖宗明断して一切駆除す。故に復た論ぜず。)夫れ物は先づ腐りて然る後に虫生ず。道は先づ廃れて然る後に異端入る。西土三代の治衰へて、老荘楊墨の説起こる。壊乱の極み、嬴政帝を称し、書を焚き儒を坑にす。儒教の厄も亦已に甚だし。劉邦布衣より起こり、九州を定む。其の治甚だ純ならずと雖も、寛厚にして人を愛し、子孫相承けて、亦頗る儒術を崇ぶ。是の時に当たりて、休屠の金人猶ほ未だ其の伎倆を逞しうするを獲ざるなり。(漢書に云ふ、霍去病隴西を出でて焉支山を過ぎ、休屠王の天を祭る金人を得たりと。顔師古の註に云ふ、今の仏像は是れ其の遺法なりと。)王莽篡立し、漢祚幾んど絶ゆ。劉秀崛起して旧業を恢復す。功も亦偉なり。然れども深く讖緯を崇信し、当時の学者皆其の意に迎合するを務め、苟くも然らざる者は往往にして擯斥せらる。儒も亦窮すと謂ふべし。其の子荘に至りて、遂に始めて仏を天竺に迎ふ。(或いは謂ふ、西漢の元寿中に既に仏法有りと。其の説は魏略の西戎伝に本づく。然れども後漢書に云ふ、明帝金人を夢む。長丈余、頭に光明有り。以て群臣に問ふ。或いは曰く、西方に神有り、名づけて仏と曰ふ。其の形は丈六尺にして黄金色なりと。此に拠れば則ち是より先は未だ仏有らざるなり。故に韓愈・朱熹等皆以為へらく、仏は後漢の明帝の時に始まると。明帝は即ち劉荘なり。)華夷内外は天下の大閑にして、詩書の載する所、周孔の言ふ所、丁寧反覆して一にして足らず。今荘は身漢家の正統を承けながら、反りて胡鬼を異域に迎ふるに及び、群臣唯唯諾諾として、一言半辞の其の非を匡救するを聞かず。蓋し其の学者と曰ふものは、徒だ章句訓詁を是れ守り、周孔の本意を闡明すること能はずして、識緯符命の説も亦以て其の心術識見を蠱する有るが故なり。然れども漢魏の間、仏法猶ほ未だ世に遍からず。東晋の末、清談熾んに行はれ、五胡内に侵して仏法も亦漸く蔓延す。(晋書に云ふ、姚興、浮屠を永貴里に立て、般若台を中宮に立つ。州郡之に化して仏に事ふる者十室にして九なりと。)宋・斉・梁・陳・元魏の間、仏を奉じ僧に供するに唯だ時に後れんことを恐る。隋氏南北を并せ、而して民間の仏書は、
現代語訳
「中世以降。異端邪説は民をあざむき、世を惑わします。」臣の彪(東湖)が謹んで考えますに、異端邪説が民をあざむき世を惑わすものは、その流れが一つではありません。その中で西方の異民族の仏の教えが最もひどいとされます。西北の西洋人の教えは、その害がさらに仏教を上回ります。(ただし、歴代の祖宗が明断してこれをすべて取り除かれたので、ここでは論じません。)そもそも物はまず腐ってから虫が生じます。道はまず廃れてから異端が入り込みます。中国で夏・殷・周三代の治が衰えると、老子・荘子・楊朱・墨子の説が起こりました。乱れが極まると、嬴政(秦の始皇帝)が帝を称し、書を焼き、儒者を生き埋めにしました。儒教の災難もすでに甚だしいものでした。劉邦は庶民から身を起こして天下を定めました。その治は十分に純粋とはいえませんが、寛大で人を愛し、子孫が受け継いで儒学もかなり尊びました。この頃は、休屠の金人(仏像の源とされるもの)がまだその力を振るうことはできませんでした。(漢書に、霍去病が隴西を出て焉支山を通り、休屠王が天を祭る金人を得たとあります。顔師古の注に、今の仏像はその遺法だとあります。)王莽が帝位を奪い、漢の命運はほとんど絶えました。劉秀(光武帝)が立ち上がって旧業を回復した功績も偉大です。しかし深く讖緯(予言の書)を信じ、当時の学者はみなその意に迎合することに努め、そうしない者はしばしば排斥されました。儒もまた窮したといえます。その子の荘(明帝)に至って、はじめて仏を天竺から迎えました。(ある説では前漢の元寿年間にすでに仏法があったといい、その説は魏略の西戎伝によります。しかし後漢書には、明帝が金人の夢を見た、背丈は一丈余りで頭に光があった、群臣に尋ねると、ある者が、西方に神がいて仏といい、その姿は丈六で黄金色だと答えた、とあります。これによれば、それ以前には仏はまだなかったことになります。だから韓愈・朱熹らはみな、仏は後漢の明帝の時に始まるとしました。明帝は劉荘のことです。)中華と夷狄、内と外の区別は天下の大きな防ぎであり、詩経・書経に載り、周公・孔子が説いたところで、ねんごろに繰り返されて一度や二度ではありません。いま荘は漢家の正統を継いだ身でありながら、かえって胡の鬼を異域から迎えました。それなのに群臣はただ従うばかりで、その非を正す一言半句も聞こえませんでした。思うに、学者と称する者は章句訓詁をただ守るだけで周公・孔子の本意を明らかにできず、讖緯・符命の説もその心術と見識を惑わしたからです。それでも漢魏の間は、仏法はまだ世に広まっていませんでした。東晋の末に清談が盛んに行われ、五胡が内に侵入すると、仏法もしだいに蔓延しました。(晋書に、姚興が浮屠を永貴里に立て、般若台を中宮に建て、州郡が感化されて仏に仕える者は十戸のうち九に及んだ、とあります。)宋・斉・梁・陳・元魏の間は、仏を奉じ僧に供えるのに、ただ時流に遅れることを恐れるほどでした。隋氏が南北を併せると、民間の仏書は、
解説
この章句が説くこと
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