弘道館記述義 / 中世以降・仏教が広まった事情と日本への伝来
多於五經數十百倍。其盛可推知也。當是際九州糜亂。政敎廢缺。其稱儒者皆以虛無爲宗。以雕琢爲文。擧其宗合諸寂滅之敎。騁其文潤飾夸誕之說。故朱熹謂。晉宋間。釋氏文字。亦只以老莊之說鋪張。蘇軾謂。佛經之譯必託于儒之能言者。然後傳遠。然則佛法之所以大行於世者。文人學士與有力焉。其罪可勝誅哉。神州之有佛。漸於欽明之朝。瀰漫於用明推古之間。蓋神皇之道正大簡易。仲哀以上率由不愆。應神以降始資儒敎。而當時群臣未推弘叙旨。以培養斯道。又不幸國家多故。雄略武烈之間。皇統幾危。民不聊生。列聖敬神愛民之道。至是大荒矣。亡幾蘇我稻目任大臣。實始啓浮圖之端。然而神皇德澤入人之深。若物部尾輿。若中臣鎌子。侃侃正議不遺餘力。當時天皇亦能英斷。屢投佛於水火。固非夫東漢君臣無識之比也。獨蘇我氏包藏禍心。非一朝一夕之故。且挾祖先之勳。(蘇我氏。爲武內宿禰之後。)據外戚之親。握大臣之權。而又有上宮太子一意奉佛爲之內應。則奸謀之稔熟邪敎之瀰漫不足怪也。終之用明歸佛(至尊歸佛。帝爲始。)崇峻暴崩。(人臣弑逆。蘇我馬子爲始。)推古創立寺觀。大弘其法。雖以中宗之英明。大織冠之智畧。不能洞察其禍以絶其根本。至於聖武自稱三寶奴。孝謙爵妖僧以法王。而橫流極矣。所謂道先廢然後異端入焉者。神州西土。彼此一轍。惑世誣民。永爲道之大蠹。不亦可深慨乎。抑浮屠之害。古人論之詳矣。其怪妄虛誕。固不足道。而其熾若彼者其故何也。曰愚冥之民信而奉之。智巧之士利而使之。純明剛毅之人。惡而排之。姦詐狡猾之賊。
新字:多於五経数十百倍。其盛可推知也。当是際九州糜乱。政教廃欠。其称儒者皆以虚無為宗。以雕琢為文。挙其宗合諸寂滅之教。騁其文潤飾夸誕之説。故朱熹謂。晋宋間。釈氏文字。亦只以老荘之説鋪張。蘇軾謂。仏経之訳必託于儒之能言者。然後伝遠。然則仏法之所以大行於世者。文人学士与有力焉。其罪可勝誅哉。神州之有仏。漸於欽明之朝。瀰漫於用明推古之間。蓋神皇之道正大簡易。仲哀以上率由不愆。応神以降始資儒教。而当時群臣未推弘叙旨。以培養斯道。又不幸国家多故。雄略武烈之間。皇統幾危。民不聊生。列聖敬神愛民之道。至是大荒矣。亡幾蘇我稲目任大臣。実始啓浮図之端。然而神皇徳沢入人之深。若物部尾輿。若中臣鎌子。侃侃正議不遺余力。当時天皇亦能英断。屡投仏於水火。固非夫東漢君臣無識之比也。独蘇我氏包蔵禍心。非一朝一夕之故。且挟祖先之勲。(蘇我氏。為武内宿祢之後。)拠外戚之親。握大臣之権。而又有上宮太子一意奉仏為之内応。則奸謀之稔熟邪教之瀰漫不足怪也。終之用明帰仏(至尊帰仏。帝為始。)崇峻暴崩。(人臣弑逆。蘇我馬子為始。)推古創立寺観。大弘其法。雖以中宗之英明。大織冠之智略。不能洞察其禍以絶其根本。至於聖武自称三宝奴。孝謙爵妖僧以法王。而横流極矣。所謂道先廃然後異端入焉者。神州西土。彼此一轍。惑世誣民。永為道之大蠹。不亦可深慨乎。抑浮屠之害。古人論之詳矣。其怪妄虚誕。固不足道。而其熾若彼者其故何也。曰愚冥之民信而奉之。智巧之士利而使之。純明剛毅之人。悪而排之。姦詐狡猾之賊。
書き下し
五経より数十百倍多し。其の盛んなること推して知るべし。是の際に当たり九州糜乱し、政教廃欠す。其の儒と称する者は皆虚無を以て宗と為し、雕琢を以て文と為す。其の宗を挙げて寂滅の教に合せ、其の文を騁せて誇誕の説を潤飾す。故に朱熹謂へらく、晋宋の間、釈氏の文字も亦只だ老荘の説を以て鋪張すと。蘇軾謂へらく、仏経の訳は必ず儒の能く言ふ者に託し、然る後に遠く伝はると。然らば則ち仏法の世に大いに行はるる所以の者は、文人学士力有りと。其の罪誅するに勝ふべけんや。神州の仏有るは、欽明の朝より漸み、用明・推古の間に瀰漫す。蓋し神皇の道は正大簡易にして、仲哀以上は率由して愆たず、応神以降始めて儒教を資る。而して当時の群臣は未だ叙旨を推し弘めて以て斯の道を培養せず。又不幸にして国家に故多く、雄略・武烈の間、皇統幾んど危ふく、民聊かも生きず。列聖の神を敬ひ民を愛するの道、是に至りて大いに荒る。亡幾くもなく蘇我稲目大臣に任じ、実に浮図の端を啓く。然れども神皇の徳沢の人に入ること深く、物部尾輿、中臣鎌子の若きは、侃侃として正議し余力を遺さず。当時の天皇も亦能く英断し、屢々仏を水火に投ず。固より夫の東漢の君臣の無識に比するに非ざるなり。独り蘇我氏のみ禍心を包蔵すること、一朝一夕の故に非ず。且つ祖先の勲を挟み、(蘇我氏は武内宿禰の後なり。)外戚の親に拠り、大臣の権を握る。而して又上宮太子一意に仏を奉じ、之が内応を為す有り。則ち奸謀の稔熟し邪教の瀰漫するも怪しむに足らず。終に用明は仏に帰し、(至尊の仏に帰すること、帝を始めと為す。)崇峻は暴崩し、(人臣の弑逆、蘇我馬子を始めと為す。)推古は寺観を創立して大いに其の法を弘む。中宗の英明、大織冠の智略を以てすと雖も、其の禍を洞察して以て其の根本を絶つこと能はず。聖武の自ら三宝の奴と称し、孝謙の妖僧に爵するに法王を以てするに至りて、横流極まれり。所謂道先づ廃れて然る後に異端入るとは、神州と西土と、彼此一轍なり。世を惑はし民を誣ひ、永く道の大蠹と為る。亦深く慨くべからずや。抑も浮屠の害は、古人之を論ずること詳らかなり。其の怪妄虚誕は固より道ふに足らず。而るに其の熾んなること彼の若き者は其の故何ぞや。曰く、愚冥の民は信じて之を奉じ、智巧の士は利して之を使ひ、純明剛毅の人は悪みて之を排し、姦詐狡猾の賊は
現代語訳
(隋の民間の仏書は、)五経の数十倍から百倍にもなりました。その盛んさは推して知るべきです。この頃、中国は乱れ、政治と教えは廃れ欠けていました。儒者と称する者はみな虚無を根本とし、飾り立てることを文としました。その根本を寂滅(涅槃)の教えに合わせ、その文を駆使して誇大でいつわりの説を飾り立てました。だから朱熹は、晋・宋の間は、仏教の文字もただ老荘の説を使って敷衍したものだと言い、蘇軾は、仏経の翻訳は必ず文章に巧みな儒者に任せてこそ遠くまで伝わった、と言っています。そうであれば、仏法が世に大いに行われた理由は、文人学士の力にあったことになります。その罪は責めても責めきれません。わが国に仏が入ったのは、欽明天皇の朝から始まり、用明天皇・推古天皇の間に広がりました。思うに、神皇の道は正大で簡易なものであり、仲哀天皇以前はこれに従ってあやまちがなく、応神天皇以降はじめて儒教の助けを借りました。しかし当時の群臣は、その趣旨を押し広めてこの道を育てることをしませんでした。さらに不幸にも国に事件が多く、雄略・武烈天皇の間は皇統が危うくなり、民は生きる支えを失いました。歴代の聖天子の、神を敬い民を愛する道は、ここで大いに荒れました。まもなく蘇我稲目が大臣となり、実際に仏教のはじまりを開きました。しかし神皇の徳沢が人の心に深く入っていたため、物部尾輿や中臣鎌子(のち藤原鎌足)のような人々は、堂々と正論を述べて力を尽くしました。当時の天皇もまた英断をもって、たびたび仏像を水や火に投じました。これは、あの後漢の君臣の無知とは比べものになりません。ただ蘇我氏だけは禍心を抱いていて、それは一朝一夕のことではありません。祖先の功績をたのみ、(蘇我氏は武内宿禰の子孫です。)外戚の親しい関係に拠り、大臣の権力を握っていました。さらに上宮太子(聖徳太子)が一途に仏を信奉して内から呼応しました。そのため、奸悪な謀りごとが熟し、邪教が広がったのも不思議ではありません。ついに用明天皇は仏に帰依し、(天皇が仏に帰依したのは、この帝が最初です。)崇峻天皇は暴力で崩御し、(臣下が君を殺した例は、蘇我馬子が最初です。)推古天皇は寺院を創建して大いにその法を広めました。中宗(天智天皇)の英明さと、大織冠(藤原鎌足)の知略をもってしても、その災いを見抜いて根本を絶つことはできませんでした。聖武天皇が自ら三宝の奴と称し、孝謙天皇が妖僧に法王の爵位を与えるに至って、悪い流れは極まりました。いわゆる、道がまず廃れてから異端が入るということは、日本も中国も同じです。世を惑わし民をあざむき、永く道の大きな害虫となりました。深く嘆かずにいられるでしょうか。そもそも仏教の害は、古人が詳しく論じています。そのでたらめや誇大な話はもとより論じるに足りません。それなのに、その勢いがあれほど盛んであったのは何故でしょうか。答えます。愚かで暗い民は信じてこれを奉じ、知恵と技巧のある士は利益のためにこれを使い、純粋で聡明、剛毅な人は憎んでこれを排し、悪賢く人をだます賊は、
解説
この章句が説くこと
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