史記 / 扁鵲倉公列伝
臣意論之,以為神氣爭而邪氣入,非年少所能復之也,以故死。所謂氣者,當調飲食,擇晏日,車步廣志,以適筋骨肉血脈,以瀉氣。故年二十,是謂『易眢』。法不當砭灸,砭灸至氣逐。」問臣意:「師慶安受之?聞於齊諸侯不?」對曰:「不知慶所師受。慶家富,善為醫,不肯為人治病,當以此故不聞。慶又告臣意曰:『慎毋令我子孫知若學我方也。』」問臣意:「師慶何見於意而愛意,欲悉教意方?」對曰:「臣意不聞師慶為方善也。意所以知慶者,意少時好諸方事,臣意試其方,皆多驗,精良。臣意聞菑川唐裏公孫光善為古傳方,臣意即往謁之。得見事之,受方化陰陽及傳語法,臣意悉受書之。臣意欲盡受他精方,公孫光曰:『吾方盡矣,不為愛公所。吾身已衰,無所復事之。是吾年少所受妙方也,悉與公,毋以教人。』臣意曰:『得見事侍公前,悉得禁方,幸甚。意死不敢妄傳人。』居有閒,公孫光閒處,臣意深論方,見言百世為之精也。師光喜曰:『公必為國工。吾有所善者皆疏,同產處臨菑,善為方,吾不若,其方甚奇,非世之所聞也。吾年中時,嘗欲受其方,楊中倩不肯,曰「若非其人也」。胥與公往見之,當知公喜方也。其人亦老矣,其家給富。』
新字:臣意論之,以為神気争而邪気入,非年少所能復之也,以故死。所謂気者,当調飲食,択晏日,車歩広志,以適筋骨肉血脈,以瀉気。故年二十,是謂『易眢』。法不当砭灸,砭灸至気逐。」問臣意:「師慶安受之?聞於斉諸侯不?」対曰:「不知慶所師受。慶家富,善為医,不肯為人治病,当以此故不聞。慶又告臣意曰:『慎毋令我子孫知若学我方也。』」問臣意:「師慶何見於意而愛意,欲悉教意方?」対曰:「臣意不聞師慶為方善也。意所以知慶者,意少時好諸方事,臣意試其方,皆多験,精良。臣意聞菑川唐裏公孫光善為古伝方,臣意即往謁之。得見事之,受方化陰陽及伝語法,臣意悉受書之。臣意欲尽受他精方,公孫光曰:『吾方尽矣,不為愛公所。吾身已衰,無所復事之。是吾年少所受妙方也,悉与公,毋以教人。』臣意曰:『得見事侍公前,悉得禁方,幸甚。意死不敢妄伝人。』居有閒,公孫光閒処,臣意深論方,見言百世為之精也。師光喜曰:『公必為国工。吾有所善者皆疏,同産処臨菑,善為方,吾不若,其方甚奇,非世之所聞也。吾年中時,嘗欲受其方,楊中倩不肯,曰「若非其人也」。胥与公往見之,当知公喜方也。其人亦老矣,其家給富。』
書き下し
臣意之を論じ、以為へらく神気争ひて邪気入る、年少の能く之を復する所に非ざるなり、故を以て死すと。所謂気なる者は、当に飲食を調へ、晏日を択び、車歩して志を広くし、以て筋骨肉血脈に適ひ、以て気を瀉すべし。故に年二十、是を『易眢』と謂ふ。法として当に砭灸すべからず。砭灸すれば気逐ふに至る」と。臣意に問ふ、「師慶安くにか之を受けたる。斉の諸侯に聞こゆるや不や」と。対へて曰く、「慶の師受する所を知らず。慶は家富み、善く医を為すも、肯へて人の為に病を治せず。当に此の故を以て聞こえざるべし。慶又臣意に告げて曰く、『慎みて我が子孫をして若の我が方を学ぶを知らしむる毋れ』と」と。臣意に問ふ、「師慶何をか意に見て意を愛し、悉く意に方を教へんと欲せしや」と。対へて曰く、「臣意は師慶の方を為すに善きを聞かざりしなり。意の慶を知る所以の者は、意少き時諸々の方事を好む。臣意其の方を試むるに、皆多く験あり、精良なり。臣意菑川の唐里の公孫光善く古伝の方を為すと聞き、臣意即ち往きて之に謁す。見えて之に事ふるを得て、方化陰陽及び伝語法を受け、臣意悉く受けて之を書す。臣意尽く他の精方を受けんと欲す。公孫光曰く、『吾が方尽きたり。公の所に愛しむを為さず。吾が身已に衰へたり。復た之を事とする所無し。是れ吾が年少き時受くる所の妙方なり。悉く公に与ふ。以て人に教ふる毋れ』と。臣意曰く、『見えて公の前に事へ侍するを得、悉く禁方を得たり。幸甚なり。意死すとも敢へて妄りに人に伝へず』と。居ること間有りて、公孫光間処す。臣意深く方を論ず。百世の之を為すの精なるを見言す。師光喜びて曰く、『公必ず国工と為らん。吾に善くする所の者有るも皆疏し。同産臨菑に処り、善く方を為す。吾若かず。其の方甚だ奇にして、世の聞く所に非ざるなり。吾年中なりし時、嘗て其の方を受けんと欲す。楊中倩肯ぜず。曰く、「若は其の人に非ざるなり」と。胥公と往きて之に見えば、当に公の方を喜むを知るべし。其の人も亦老いたり。其の家給富なり』と。
現代語訳
「わたくしの考えでは、精神の気が争い、邪気が入り込んだのであって、若い者が回復できるものではなかったので、死んだのである。気というものは、飲食を調え、晴れた日を選んで、車に乗ったり歩いたりして心をのびやかにし、それによって筋・骨・肉・血脈を整え、気を発散させるべきものである。だから二十歳というのは『易眢(気が変わりやすい年ごろ)』と言うのである。法によれば石鍼や灸をすべきではない。石鍼や灸をすれば、気が追い散らされてしまう」。(詔は)わたくしに問うた。「師の陽慶はどこでその医術を授かったのか。斉の諸侯の間で名は知られていたか」。わたくしは答えた。「陽慶が誰に師事したかは知らない。陽慶は家が裕福で、医術に優れていたが、人のために病を治療しようとしなかった。そのために名が知られなかったのであろう。陽慶はまたわたくしに『くれぐれも、わたしの子や孫に、おまえがわたしの医術を学んでいることを知らせてはならない』と言った」。(詔は)わたくしに問うた。「師の陽慶はそなたのどこを見込んで気に入り、医術をすべて教えようとしたのか」。わたくしは答えた。「わたくしは、師の陽慶が医術に優れていることを初めは聞いていなかった。わたくしが陽慶を知ったのは次のようないきさつである。わたくしは若い時からさまざまな医術を好み、試してみると、多くは効き目があって精良であった。わたくしは菑川の唐里の公孫光が古くから伝わる医術に優れていると聞き、すぐに訪ねて行った。会って師事することができ、方化陰陽(陰陽の変化に応じた処方)と伝語法(口伝の法)を授かり、わたくしはすべて受けて書き留めた。わたくしはほかの精妙な処方もすべて授かりたいと願った。公孫光は言った。『わたしの医術はこれで尽きた。あなたに出し惜しみしているのではない。わたしの体はもう衰えて、これ以上医術に携わることもない。これはわたしが若い時に授かった妙なる処方である。すべてあなたに与える。人に教えてはならない』。わたくしは言った。『お目にかかって先生の前にお仕えし、秘伝の処方をすべて得ることができた。この上ない幸せである。わたくしは死んでもみだりに人に伝えはしない』。しばらくして、公孫光がくつろいでいる時に、わたくしは深く医術を論じ、百世の後までも通用する精妙さを見て取って語った。師の公孫光は喜んで言った。『あなたは必ず国一番の名医になるであろう。わたしにも親しい者はいるが、皆疎遠になった。わたしの兄弟が臨菑に住んでいて、医術に優れており、わたしは及ばない。その処方はきわめて珍しく、世に知られていないものだ。わたしが中年の頃、その処方を授かりたいと思ったが、楊中倩(陽慶)は承知せず、「おまえはふさわしい人物ではない」と言った。一緒にあなたと会いに行けば、あなたが医術を好んでいることがわかってもらえるであろう。その人ももう年老いている。その家は裕福である』。
解説
関連する章句
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史記 扁鵲倉公列伝之を別つ所以の者は、臣意の受くる所の師の方適々成りて、師死す。故を以て診する所を表籍し、期もて死生を決し、失ふ所得る所の者を観て脈法に合はす。故を以て今に至るまで之を知る」と。臣意に問ひて曰く、「期する所の病、死生を決して、或いは期に応ぜざるは、何の故ぞ」と。対へて曰く、「此れ皆飲食喜怒節あらず、或いは当に薬を飲むべからざるに、或いは当に鍼灸すべからざるに、故を以て期に中らずして死するなり」と。臣意に問ふ、「意の方能く病の死生を知り、薬の用ふる所の宜しきを論ず。諸侯王大臣嘗て意に問ふ者有りや不や。文王の病む時に及びて、意に診治を求めざりしは、何の故ぞ」と。対へて曰く、「趙王・膠西王・済南王・呉王皆人をして来りて臣意を召さしむるも、臣意敢へて往かず。文王の病む時、臣意家貧しく、人の為に病を治せんと欲するも、誠に吏以て臣意を除拘せんことを恐る。故に名数を移し、左右して家生を修めず、出でて国中を行游し、善く方数を為す者を問ひて之に事ふること久し。事ふる数師に見え、悉く其の要事を受け、其の方書の意を尽くし、及び之を解論す。身は陽虚侯の国に居り、因りて侯に事ふ。侯入朝し、臣意之に従ひて長安に之く。故を以て安陵の項処等の病を診するを得たるなり」と。臣意に問ふ、「文王の病を得て起たざる所以の状を知るか」と。臣意対へて曰く、「文王の病を見ず。然れども竊かに文王喘を病み、頭痛み、目明らかならずと聞く。臣意心に之を論じ、以て病に非ずと為す。以為へらく、肥えて精を蓄へ、身体揺るぐを得ず、骨肉相任へず、故に喘す。当に医治すべからずと。脈法に曰く、『年二十にして脈気当に趨るべく、年三十にして当に疾歩すべく、年四十にして当に安坐すべく、年五十にして当に安臥すべく、年六十已上にして気当に大いに董むべし』と。文王年未だ二十に満たず、方に脈気の趨るべきに之を徐にす。天道四時に応ぜず。後に医之に灸して即ち篤しと聞く。此れ病を論ずるの過なり。
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史記 扁鵲倉公列伝時に未だ往かざるに、会々慶の子男殷来りて馬を献ず。師光に因りて馬を王の所に奏す。意故を以て殷と善きを得たり。光又意を殷に属して曰く、『意は数を好む。公必ず謹みて之を遇せよ。其の人は聖儒なり』と。即ち書を為りて意を以て陽慶に属す。故を以て慶を知る。臣意慶に事ふること謹む。故を以て意を愛するなり」と。臣意に問ひて曰く、「吏民嘗て事として意の方を学び、及び畢く尽く意の方を得たるもの有りや不や。何れの県里の人ぞ」と。対へて曰く、「臨菑の人宋邑。邑学ぶ。臣意教ふるに五診を以てすること、歳余。済北王太医高期・王禹を遣はして学ばしむ。臣意教ふるに経脈の高下及び奇絡の結、当に俞の居る所を論ずべきこと、及び気の当に上下出入すべき邪正逆順、以て鑱石に宜しきこと、砭灸の処を定むることを以てすること、歳余。菑川王時に太倉の馬長馮信を遣はして方を正さしむ。臣意教ふるに案法逆順、薬法を論じ、五味及び和斉湯法を定むることを以てす。高永侯の家丞杜信、脈を喜み、来り学ぶ。臣意教ふるに上下経脈五診を以てすること、二歳余。臨菑の召里の唐安来り学ぶ。臣意教ふるに五診上下経脈、奇咳、四時陰陽に応ずるの重を以てす。未だ成らずして、除せられて斉王の侍医と為る」と。臣意に問ふ、「病を診し死生を決するに、能く全く失無きか」と。臣意対へて曰く、「意病人を治するに、必ず先づ其の脈を切して、乃ち之を治す。敗逆なる者は治すべからず。其の順なる者は乃ち之を治す。心脈に精しからず、期する所の死生、治すべきを視るに、時時之を失す。臣意全くする能はざるなり」と。太史公曰く、女は美悪と無く、宮に居れば妒まる。士は賢不肖と無く、朝に入れば疑はる。故に扁鵲は其の伎を以て殃せられ、倉公乃ち跡を匿して自ら隠れて刑に当たる。緹縈尺牘を通じ、父以て後に寧きを得たり。故に老子曰く、「美好なる者は不祥の器なり」と。豈に扁鵲等を謂ふか。倉公の若き者は、之に近しと謂ふべし。手の三陽の脈は、手より頭に至るまで長さ五尺、五六合して三丈。
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史記 扁鵲倉公列伝意家居す。詔して召して、為に病を治して死生の験ある所の者幾何人なるか、主名は誰と為すかを問ふ。故の太倉長臣意に詔問す、「方伎の長ずる所、及び能く治する所の病は。其の書有りや無しや。皆安くにか学を受けたる。学を受くること幾何歳ぞ。嘗て験ある所有らば、何れの県里の人ぞ。何の病ぞ。医薬已みて、其の病の状は皆何如。具に悉くして対へよ」と。臣意対へて曰く、意少き時より、医薬を喜む。医薬の方之を試みるに験あらざる者多し。高后八年に至り、師臨菑元里の公乗陽慶に見ゆるを得たり。慶年七十余、意見えて之に事ふるを得たり。意に謂ひて曰く、「尽く而の方書を去れ。是に非ざるなり。慶に古先の道の遺伝せる黄帝・扁鵲の脈書有り。五色もて病を診し、人の生死を知り、嫌疑を決し、治すべきを定め、及び薬論の書あり、甚だ精し。我が家は給富なり。心に公を愛す。尽く我が禁方の書を以て悉く公に教へんと欲す」と。臣意即ち曰く、「幸甚なり。意の敢へて望む所に非ざるなり」と。臣意即ち席を避けて再拝して謁し、其の脈書上下経・五色診・奇咳術・揆度陰陽外変・薬論・石神・接陰陽禁書を受け、受読して之を解験すること、一年所可りなり。明歳即ち之を験するに、験有り。然れども尚ほ未だ精しからざるなり。要ず之に事ふること三年所、即ち嘗て已に人の為に治し、病を診し死生を決するに、験有りて、精良なり。今慶已に死すること十年所、臣意年尽三年、年三十九歳なり。斉の侍御史成、自ら頭痛を病むと言ふ。臣意其の脈を診し、告げて曰く、「君の病は悪し。言ふべからざるなり」と。即ち出でて、独り成の弟昌に告げて曰く、「此の病は疽なり。内は腸胃の間に発す。後五日にして当に擁腫すべし。後八日にして膿を嘔きて死せん」と。成の病は之を酒を飲みて且つ内するに得たり。成即ち期の如く死す。成の病を知る所以の者は、臣意其の脈を切して、肝気を得たり。肝気濁りて静かなり。此れ内関の病なり。
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史記 扁鵲倉公列伝太倉公は、斉の太倉の長にして、臨菑の人なり。姓は淳于氏、名は意。少くして医方の術を喜む。高后八年、更めて師として同郡元里の公乗陽慶に受く。慶は年七十余にして、子無し。意をして尽く其の故の方を去らしめ、更めて悉く禁方を以て之に予ふ。黄帝・扁鵲の脈書を伝へ、五色もて病を診、人の死生を知り、嫌疑を決し、治すべきを定め、及び薬論、甚だ精し。之を受くること三年、人の為に病を治し、死生を決するに験多し。然れども左右諸侯に行游し、家を以て家と為さず、或いは人の為に病を治せず、病家多く之を怨む者あり。
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史記 扁鵲倉公列伝其の人自ら静かにするを喜み、躁がず、又久しく安坐し、几に伏して寐ぬ。故に血下り泄る。斉王の侍医遂病み、自ら五石を練りて之を服す。臣意往きて之に過ぐ。遂意に謂ひて曰く、「不肖病有り。幸ひに遂を診せよ」と。臣意即ち之を診し、告げて曰く、「公の病は中熱なり。論に曰く、『中熱して溲せざる者は、五石を服すべからず』と。石の薬為るや精悍なり。公之を服して数々溲するを得ず。亟かに服する勿れ。色将に臃を発せんとす」と。遂曰く、「扁鵲曰く、『陰石は以て陰病を治し、陽石は以て陽病を治す』と。夫れ薬石なる者は陰陽水火の斉有り。故に中熱すれば、即ち陰石柔斉を為りて之を治し、中寒すれば、即ち陽石剛斉を為りて之を治す」と。臣意曰く、「公の論ずる所遠し。扁鵲是の若く言ふと雖も、然れども必ず審らかに診し、度量を起こし、規矩を立て、権衡を称り、色脈表裏有余不足順逆の法を合はせ、其の人の動静と息との相応ずるを参じて、乃ち以て論ずべし。論に曰く、『陽疾内に処り、陰形外に応ずる者は、悍薬及び鑱石を加へず』と。夫れ悍薬中に入れば、則ち邪気辟きて、宛気愈々深し。診法に曰く、『二陰外に応じ、一陽内に接する者は、剛薬を以てすべからず』と。剛薬入れば則ち陽を動かし、陰病益々衰へ、陽病益々箸はれ、邪気流行し、重く俞に困しむと為り、忿発して疽と為る」と。意之に告げて後百余日、果たして疽と為りて乳の上に発し、缺盆に入りて、死す。此れ論の大体を謂ふなり。必ず経紀有り。拙工一として習はざる有れば、文理陰陽失す。斉王故陽虚侯為りし時、病甚だし。衆医皆以て蹷と為す。臣意脈を診し、以て痹と為す。根は右脇の下に在り、大いさ覆杯の如し。人をして喘ぎ、逆気して食ふ能はざらしむ。臣意即ち火斉の粥を以て且つ飲ましむ。六日にして気下る。即ち更に丸薬を服せしむ。出入六日にして、病已ゆ。病は之を内に得たり。之を診する時其の経解を識る能はざるも、大いに其の病の在る所を識る。
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史記 扁鵲倉公列伝脈法に曰く、「脈長くして弦、四時に代はるを得ざる者は、其の病は主として肝に在り。和すれば即ち経主として病み、代はれば則ち絡脈に過有り」と。経主として病みて和する者は、其の病は之を筋髄の裏に得たり。其の代絶して脈賁なる者は、病は之を酒と内とに得たり。其の後五日にして擁腫し、八日にして膿を嘔きて死するを知る所以の者は、其の脈を切する時、少陽初めて代はる。代はる者は経の病にして、病去りて人を過ぐれば、人則ち去る。絡脈主として病み、其の時に当たりて、少陽初めて関すること一分、故に中熱して膿未だ発せざるなり。五分に及べば、則ち少陽の界に至り、八日に及べば、則ち膿を嘔きて死す。故に上ること二分にして膿発し、界に至りて擁腫し、尽く泄れて死す。熱上れば則ち陽明を熏し、流絡を爛らす。流絡動けば則ち脈結発し、脈結発すれば則ち爛解す。故に絡交はる。熱気已に上行し、頭に至りて動く。故に頭痛す。斉王の中子の諸嬰児の小子病む。臣意を召して診して其の脈を切せしむ。告げて曰く、「気鬲の病なり。病人をして煩懣し、食下らず、時に沫を嘔かしむ。病は之を心憂に得、数々食飲を忔む」と。臣意即ち之が為に下気湯を作りて以て之に飲ましむ。一日にして気下り、二日にして能く食ひ、三日にして即ち病愈ゆ。小子の病を知る所以の者は、其の脈を診するに、心気なり。濁躁にして経なり。此れ絡陽の病なり。脈法に曰く、「脈来ること数疾にして去ること難く、一ならざる者は、病は主として心に在り」と。周身熱し、脈盛んなる者を、重陽と為す。重陽なる者は、心主を逿す。故に煩懣して食下らざれば則ち絡脈に過有り。絡脈に過有れば則ち血上り出づ。血上り出づる者は死す。此れ悲心の生ずる所なり。病は之を憂に得たり。斉の郎中令循病む。衆医皆以て蹷して中に入ると為し、之を刺す。臣意之を診して曰く、「湧疝なり。人をして前後に溲するを得ざらしむ」と。循曰く、「前後に溲するを得ざること三日なり」と。
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