弘道館記述義 / 寶祚以之無窮・宝祚と三種の神器 天孫降臨
寶祚以之無窮。臣彪謹案。天祖之垂統。天孫之建基。事皆屬神代。其在位及年壽之數。今不可得詳。然其歲月蓋悠久矣。(神武天皇。壽一百三十七歲。而皇祖火遠理尊。壽五百八十歲。蓋世愈古。則壽愈長。然其詳今不可考。)正史紀年始於神武天皇辛酉元年。自辛酉至今。二千五百有餘歲。通神代筭之。不知凡幾千萬年也。歷世之久。雖時有汚隆。而天皇之尊萬世自若。猶太陽之懸於天。草野卑賤之臣。又何敢論焉。然幸生於神明之域。世浴於煦育之恩。則亦豈可不知其所原本乎。初天孫之降臨下土也。天祖賜以三種神器。曰玉。曰鏡。曰劍。(神器次序。書紀古事記皆同。而古語拾遺曰。即以八咫鏡及草薙劔二種神寶授賜皇孫。永爲天璽。矛玉自從。又自註於天璽下曰。所謂神璽之劔鏡是也。神祇令曰。踐祚之日。中臣奏天神之壽詞。忌部上神璽之劔鏡。據之則似以鏡劔爲神璽。而玉不與者。於是說者或就神器論其輕重。其言非無謂。而三器之名所由來尙矣。書紀古事記共合。則其先後輕重非所輒議也。姑存疑以俟後考。)因勅曰。葦原千五百秋之瑞穗國。是吾子孫可王之地。宜汝皇孫就而治焉。行矣。寶祚之隆。當與天壤無窮者矣。方是際。高皇產靈尊。每參天上之議。
新字:宝祚以之無窮。臣彪謹案。天祖之垂統。天孫之建基。事皆属神代。其在位及年寿之数。今不可得詳。然其歳月蓋悠久矣。(神武天皇。寿一百三十七歳。而皇祖火遠理尊。寿五百八十歳。蓋世愈古。則寿愈長。然其詳今不可考。)正史紀年始於神武天皇辛酉元年。自辛酉至今。二千五百有余歳。通神代筭之。不知凡幾千万年也。歴世之久。雖時有汚隆。而天皇之尊万世自若。猶太陽之懸於天。草野卑賤之臣。又何敢論焉。然幸生於神明之域。世浴於煦育之恩。則亦豈可不知其所原本乎。初天孫之降臨下土也。天祖賜以三種神器。曰玉。曰鏡。曰剣。(神器次序。書紀古事記皆同。而古語拾遺曰。即以八咫鏡及草薙剣二種神宝授賜皇孫。永為天璽。矛玉自従。又自註於天璽下曰。所謂神璽之剣鏡是也。神祇令曰。践祚之日。中臣奏天神之寿詞。忌部上神璽之剣鏡。拠之則似以鏡剣為神璽。而玉不与者。於是説者或就神器論其軽重。其言非無謂。而三器之名所由来尚矣。書紀古事記共合。則其先後軽重非所輒議也。姑存疑以俟後考。)因勅曰。葦原千五百秋之瑞穂国。是吾子孫可王之地。宜汝皇孫就而治焉。行矣。宝祚之隆。当与天壤無窮者矣。方是際。高皇産霊尊。毎参天上之議。
書き下し
宝祚、之を以て無窮なり。臣彪謹んで案ずるに、天祖の垂統、天孫の建基は、事皆神代に属す。其の在位及び年寿の数、今詳らかにすべからず。然れども其の歳月は蓋し悠久なり。(神武天皇、寿一百三十七歳にして、皇祖火遠理尊は寿五百八十歳。蓋し世愈〻古ければ、則ち寿愈〻長し。然れども其の詳らかなること今考ふべからず。)正史の紀年は神武天皇辛酉元年に始まる。辛酉より今に至るまで二千五百有餘歳。神代を通じて之を算すれば、凡そ幾千万年なるかを知らず。歴世の久しき、時に汚隆有りと雖も、天皇の尊きこと万世自若たり、猶ほ太陽の天に懸かるがごとし。草野卑賤の臣、又た何ぞ敢へて論ぜん。然れども幸ひに神明の域に生まれ、世〻煦育の恩に浴す。則ち亦た豈に其の原本する所を知らざるべけんや。初め天孫の下土に降臨するや、天祖賜ふに三種の神器を以てす。曰く玉、曰く鏡、曰く剣。(神器の次序は、書紀・古事記皆同じ。而して古語拾遺に曰く、即ち八咫鏡及び草薙剣の二種の神宝を以て皇孫に授け賜ひ、永く天璽と為す。矛・玉は自ら従ふ、と。又た自ら天璽の下に註して曰く、所謂神璽の剣鏡是れなり、と。神祇令に曰く、践祚の日、中臣は天神の寿詞を奏し、忌部は神璽の剣鏡を上る、と。之に拠れば則ち鏡剣を以て神璽と為し、玉は与らざるに似たり。是に於て説者或いは神器に就きて其の軽重を論ず。其の言、謂れ無きに非ず。而れども三器の名の由りて来る所は尚し。書紀・古事記共に合へば、則ち其の先後軽重は輒く議する所に非ず。姑く疑ひを存して以て後考を俟つ。)因りて勅して曰く、葦原千五百秋の瑞穂国は、是れ吾が子孫の王たるべきの地なり。宜しく汝皇孫就きて治めよ。行矣。宝祚の隆んなること、当に天壌と窮まり無かるべし、と。是の際に方りて、高皇産霊尊は、毎に天上の議に参す。
現代語訳
「宝祚、之を以て無窮なり」(皇位は、これによって窮まりがない)。臣の彪が謹んで考えますに、天祖が伝統を打ち立て、天孫が基礎を築いたことは、すべて神代のことに属します。その在位や寿命の年数は、今では詳しく知ることができません。しかしその歳月は悠久であったと思われます。(神武天皇は寿百三十七歳で、皇祖の火遠理尊は寿五百八十歳である。思うに、世が古いほど寿命も長いのだろう。しかしその詳細は今では考えようがない。)正史の紀年は神武天皇の辛酉元年に始まります。辛酉から今まで二千五百年余り。神代を含めて数えれば、何千万年になるか分かりません。長い歴代のあいだに、盛衰の波はありましたが、天皇の尊さは万世にわたって変わらず、まるで太陽が天にかかっているようです。草深い野の卑賤な臣が、どうして論じることができましょう。しかし幸いにも神の国に生まれ、代々育み慈しむ恩に浴しています。ならば、その根本を知らずにいてよいでしょうか。そもそも天孫が地上に降臨したとき、天祖は三種の神器を賜いました。玉、鏡、剣といいます。(神器の順序は、書紀も古事記も同じである。ところが『古語拾遺』には「八咫鏡と草薙剣の二種の神宝を皇孫に授け賜い、永く天璽とした。矛と玉はおのずから従う」とあり、また「天璽」の下に自ら注して「いわゆる神璽の剣鏡がこれである」とある。『神祇令』には「践祚の日、中臣は天神の寿詞を奏し、忌部は神璽の剣鏡を奉る」とある。これによれば、鏡と剣を神璽とし、玉は含まれないように見える。そこで論者はあるいは神器について軽重を論じる。その言にも理由がないわけではない。しかし三つの器の名の由来は古い。書紀も古事記も合致するのだから、その先後や軽重は軽々しく議論すべきではない。しばらく疑いを残して後の考証を待つ。)そして勅して言いました。「葦原の千五百秋の瑞穂の国は、我が子孫が王となるべき地である。汝、皇孫よ、行って治めなさい。行きなさい。皇位の栄えは、天地とともに窮まりないであろう」と。このとき、高皇産霊尊は、いつも天上の議に参加していました。
解説
この章句が説くこと
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『留魂録』第九条又鮎沢伊太夫は水藩の士にして堀江と同居す。余に告げて曰く、「今足下の御沙汰も未だ測られず、小子は海外に赴けば、天下の事総て天命に付せんのみ。但し天下の益となるべき事は、同志に托し後輩に残し度きことなり」と。此の言大いに吾が志を得たり。吾の祈念を籠むる所は、同志の士甲斐甲斐しく吾が志を継紹して、尊攘の大功を建てよかしなり。吾死すとも、堀・鮎二子の如きは、海外に在りとも獄中に在りとも、吾が同志たらん者願はくは交を結べかし。又本所亀沢町に山口三輶と云ふ医者あり、義を好む人と見えて、堀・鮎二子の事など外間に在りて大いに周旋せり。尤も及ぶべからざるは、未だ一面もなき小林民部の事、二子より申し遣はしたれば、小林の為めにも亦大いに周旋せり。此の人想ふに不凡ならん。且つ三子への通路は此の三輶老に托すべし。
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