弘道館記述義 / 弘道館記述義叙・東湖の気魄と書の由来を語る序文
天地清淑之氣。唯嵬才傑士。能禀而運用焉耳。故蘊諸內。則德輝燦然彰其外。發諸文章。則確乎不可以磨滅。天下之人。觀其如此也。爲其氣之所振蕩激勵。而不自知矣。如東湖先生者蓋是也。曩者余在海西。獲觀先生正氣歌。格調雄放。詞意嚴勵。誦之琅然作金石聲。久而諳記焉。當有憤鬱不平之事。則高聲吟破。覺胸中芥蔕洒然一灑。但恨蕞爾短章未盡其底蘊耳。爾後僑西京。書賈都文堂。携來弘道館記述義來際。余受而一過讀。拍案歎曰。噫。是先生精神氣魄之所發也。當先生之時。覇府政衰。邊釁將啓。天下騷然。而士大夫恬熙爲風。廟堂之上。姦吏弄權。蠱害忠良。於尊王大義。泯然幾于無聞。時烈公在國。陸先生於要職。先生感知遇。慨然以激勵群雄。挽回世運爲己任。一時才俊。想望公與先生之風采。莫不冀接其芝眉聽其緖論。天下將大有所感奮興起者。未幾時。公有黃揚之厄。而先生亦屢苦于葛藟。轗軻阨塞。無一日之安。而其倔強排寡之氣。終不以此自貶。讀書脩養。期成功於身後。先輩有云。將以萬世之伸。敵一時之詘。正先生之謂也。先生已逝矣。其容貌言論。固不可得而見。雖然此書賴存焉。則其精神氣魄。浩々然流被天壤而無窮矣。天下之士。樂誦其文章。頌其姓氏。乃相顧太息。不知涕泗之流落者。此其故何哉。蓋烈公以英邁豪傑之主。首唱尊王。而先生起而翼之。向之泯然幾于無聞者。煌々焉復明于世。而後天下人々。思致力于王室矣。國家今日之盛。未必無原由也。然則天地清淑之氣。唯公與先生。稟而得之。故發而爲詞賦。成文章。振藹激勵煥發人心者。皆自運用之也。抑義公著日本史。大義明于萬世。烈公生百歲之後。崛起首唱尊王。義理益著。其論神道。不隨於怪僻詭譎。而此記字句簡潔。初學者或未易了解。先生述義明意。引據確實。以發其微旨。使讀者瞭然知所擇矣。蓋烈公唱之于上。而先生又和之于下者。所以繼述義公之志也。乃其學之醇。不待贅稱而明矣。於是乎序。明治己巳蔚林長岡怐謹撰
新字:天地清淑之気。唯嵬才傑士。能禀而運用焉耳。故蘊諸内。則徳輝燦然彰其外。発諸文章。則確乎不可以磨滅。天下之人。観其如此也。為其気之所振蕩激励。而不自知矣。如東湖先生者蓋是也。曩者余在海西。獲観先生正気歌。格調雄放。詞意厳励。誦之琅然作金石声。久而諳記焉。当有憤鬱不平之事。則高声吟破。覚胸中芥蔕洒然一灑。但恨蕞爾短章未尽其底蘊耳。爾後僑西京。書賈都文堂。携来弘道館記述義来際。余受而一過読。拍案嘆曰。噫。是先生精神気魄之所発也。当先生之時。覇府政衰。辺釁将啓。天下騷然。而士大夫恬熙為風。廟堂之上。姦吏弄権。蠱害忠良。於尊王大義。泯然幾于無聞。時烈公在国。陸先生於要職。先生感知遇。慨然以激励群雄。挽回世運為己任。一時才俊。想望公与先生之風采。莫不冀接其芝眉聴其緒論。天下将大有所感奮興起者。未幾時。公有黄揚之厄。而先生亦屡苦于葛藟。轗軻阨塞。無一日之安。而其倔強排寡之気。終不以此自貶。読書脩養。期成功於身後。先輩有云。将以万世之伸。敵一時之詘。正先生之謂也。先生已逝矣。其容貌言論。固不可得而見。雖然此書頼存焉。則其精神気魄。浩々然流被天壤而無窮矣。天下之士。楽誦其文章。頌其姓氏。乃相顧太息。不知涕泗之流落者。此其故何哉。蓋烈公以英邁豪傑之主。首唱尊王。而先生起而翼之。向之泯然幾于無聞者。煌々焉復明于世。而後天下人々。思致力于王室矣。国家今日之盛。未必無原由也。然則天地清淑之気。唯公与先生。稟而得之。故発而為詞賦。成文章。振藹激励煥発人心者。皆自運用之也。抑義公著日本史。大義明于万世。烈公生百歳之後。崛起首唱尊王。義理益著。其論神道。不随於怪僻詭譎。而此記字句簡潔。初学者或未易了解。先生述義明意。引拠確実。以発其微旨。使読者瞭然知所択矣。蓋烈公唱之于上。而先生又和之于下者。所以継述義公之志也。乃其学之醇。不待贅称而明矣。於是乎序。明治己巳蔚林長岡怐謹撰
書き下し
天地清淑の気は、唯だ嵬才傑士のみ能く禀けて運用するのみ。故に諸を内に蘊めば、則ち徳輝燦然として其の外に彰はる。諸を文章に発すれば、則ち確乎として以て磨滅すべからず。天下の人、其の此くの如きを観て、其の気の振蕩激励する所と為りて、自ら知らず。東湖先生の如き者は蓋し是れなり。曩者余海西に在り、先生の正気歌を観ることを獲たり。格調雄放、詞意厳励、之を誦すれば琅然として金石の声を作す。久しくして諳記す。憤鬱不平の事有るに当たりては、則ち高声に吟破し、胸中の芥蔕洒然として一洒するを覚ゆ。但だ恨むらくは蕞爾たる短章、未だ其の底蘊を尽くさざるのみ。爾後西京に僑するとき、書賈都文堂、弘道館記述義を携へて来たり際はる。余受けて一過読み、案を拍ちて歎じて曰く、噫、是れ先生の精神気魄の発する所なり、と。先生の時に当たり、覇府の政衰へ、辺釁将に啓かんとし、天下騒然たり。而して士大夫は恬熙を風と為し、廟堂の上、姦吏権を弄し、忠良を蠱害す。尊王大義に於ては、泯然として幾んど聞く無きに于る。時に烈公国に在り、先生を要職に陸す。先生知遇に感じ、慨然として群雄を激励し世運を挽回するを以て己が任と為す。一時の才俊、公と先生の風采を想望し、其の芝眉に接し其の緒論を聴くことを冀はざる莫し。天下将に大いに感奮興起する所有らんとす。未だ幾ばくならずして、公に黄揚の厄有り、而して先生も亦た屢〻葛藟に苦しむ。轗軻阨塞、一日の安きも無し。而れども其の倔強排寡の気は、終に此を以て自ら貶せず。読書脩養して、功を身後に成さんことを期す。先輩に云ふ有り、将に万世の伸びを以て一時の詘に敵せんとす、と。正に先生の謂なり。先生已に逝けり。其の容貌言論は、固より得て見るべからず。然りと雖も此の書頼りて存すれば、則ち其の精神気魄は浩浩然として天壌に流被して窮まり無し。天下の士、其の文章を誦するを楽しみ、其の姓氏を頌し、乃ち相顧みて太息し、涕泗の流落するを知らざる者、此れ其の故は何ぞや。蓋し烈公は英邁豪傑の主を以て首めて尊王を唱へ、先生起ちて之を翼く。向の泯然として幾んど聞く無かりし者、煌煌焉として復た世に明らかなり。而る後、天下の人々、力を王室に致さんことを思ふ。国家今日の盛、未だ必ずしも原由無からず。然らば則ち天地清淑の気は、唯だ公と先生とのみ、禀けて之を得たり。故に発して詞賦と為し、文章と成し、振藹激励して人心を煥発する者は、皆自ら之を運用するなり。抑も義公は日本史を著して、大義万世に明らかなり。烈公は百歳の後に生まれ、崛起して首めて尊王を唱へ、義理益〻著はる。其の神道を論ずるや、怪僻詭譎に随はず。而るに此の記は字句簡潔にして、初学者は或いは未だ了解し易からず。先生の述義は意を明らかにし、引据確実にして、以て其の微旨を発し、読者をして瞭然として択ぶ所を知らしむ。蓋し烈公は之を上に唱へ、而して先生又た之を下に和する者は、義公の志を継述する所以なり。乃ち其の学の醇なること、贅称を待たずして明らかなり。是に於て序す。明治己巳 蔚林 長岡怐 謹みて撰す。
現代語訳
天地の清らかな気は、ただ並外れた才を持つ傑出した人物だけが受けて働かせることができます。ですから、それを内に蓄えれば、徳の輝きが鮮やかに外にあらわれ、文章として発すれば、確かで磨り減ることがありません。世の人はそのようすを見て、その気に揺り動かされ励まされながら、自分では気づきません。東湖先生のような人は、まさにそれです。以前、私は九州にいて、先生の「正気の歌」を目にする機会を得ました。調子は雄大で、言葉の意味は厳しく力強く、これを誦すると金石のような澄んだ音がします。長く経って暗記しました。憤りや不平のことがあると、声高に吟じて気を晴らし、胸の中のわだかまりがさっぱりと洗われるのを感じました。ただ残念なのは、その短い一篇では、奥深い思いを尽くしきれていないことでした。その後、京都に寄寓していたとき、書店の都文堂が『弘道館記述義』を持って来ました。私は受け取って一読し、机を打って嘆いて言いました。「ああ、これは先生の精神と気魄が発したものだ」と。先生の時代は、幕府の政治が衰え、辺境では争いの端が開かれようとし、天下は騒然としていました。しかし士大夫は安穏を風潮とし、朝廷や幕府の上では、よこしまな役人が権力を弄び、忠良な人を害していました。尊王の大義については、ほとんど聞くこともなくなっていました。そのとき烈公は国元にいて、先生を要職に取り立てました。先生は目をかけられたことに感じて、奮い立って人々を励まし、世の流れを挽回することを自分の任としました。当時の才ある人々は、公と先生の風采を慕い、そのお顔に接し、お話を聞くことを願わない者はいませんでした。天下はまさに大いに感奮して立ち上がろうとしていました。ほどなくして、公に災難があり、先生もまたしばしば足を取られて苦しみました。志を得ず行き詰まり、一日も安らぐ日がありませんでした。それでも、その強情で独り志を守る気概は、結局これによって自らを貶めることがありませんでした。書を読み修養して、成果を死後に成し遂げようと期しました。先輩に「万世の伸びをもって一時の屈に敵する」という言葉がありますが、まさに先生のことです。先生はすでに亡くなりました。その容貌や言論は、もちろん見ることができません。しかしこの書によって残っているので、その精神と気魄は広々として天地に行き渡り、尽きることがありません。天下の士がその文章を誦するのを楽しみ、その姓名をたたえ、顔を見合わせてため息をつき、涙がこぼれるのも知らない、その理由は何でしょうか。思うに、烈公は英邁で傑出した君主として初めに尊王を唱え、先生が起ってそれを助けました。以前はほとんど聞かれなくなっていたものが、輝かしく再び世に明らかになりました。そののち、天下の人々は皇室のために力を尽くそうと思うようになりました。国家の今日の盛んさには、必ずしも由来がないわけではありません。そうであれば、天地の清らかな気は、ただ公と先生だけが受けて得たものです。ですから、それを発して詩文とし、文章となし、人々を奮い立たせて人心を鮮やかに発揚させるものは、みな自らこれを運用したものなのです。そもそも義公(徳川光圀)は『日本史』を著して、大義を万世に明らかにしました。烈公は百年のちに生まれ、突如として起ち上がって初めに尊王を唱え、義理はいよいよ明らかになりました。その神道を論じるときは、怪しげで偏ったものには従いませんでした。ところがこの記は字句が簡潔で、初学者には理解しにくいことがあります。先生の述義は意味を明らかにし、引用の根拠は確実で、その微妙な趣旨を明らかにし、読者がはっきりと選ぶべきものを知ることができるようにしています。烈公が上でこれを唱え、先生がまた下でこれに和したのは、義公の志を継ぎ述べるためなのです。その学問の純粋さは、くどくど称えるまでもなく明らかです。そこで序を記します。明治己巳(明治二年)、蔚林、長岡怐、謹んで撰す。
解説
この章句が説くこと
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