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弘道館記述義 / 藤田東湖傳・禁錮の逆境で正気の歌を作る

蒸熱濕露、上壓下潰、汗臭氳氛として室に充塞す、東湖依然として曰く、之を文天祥の土窖に比すれば我舍は則ち玉堂金屋なり、塵垢の爪に盈つる、蚤虱の膚を侵すも、未だ我正氣に敵するに足らずと、乃ち天祥に倣ひて正氣の歌を作る、又蘇軾が道義心肝を貫き、忠義骨髓に塡つ、直ちに須らく死生の間に笑談すべしとの語を服膺し、自ら悶を遣り、更に平生の出處大節、君臣遭遇の際、乃ち國家の盛衰變故すると一ならざるものを取り、「回天詩史」を著はす、三年を經て烈公赦され、東湖も亦免されて水戸に歸る、是に於て東湖の名天下に噪しく、遠近爭ひ來りて時事を諮り文事を問ふ、東湖詩史二三篇を讀み、慷慨扼腕繼ぐに涙を以てす、嘉永六年烈公幕命を受けて外交に參與す、東湖召されて又江戸に出づ、天下其風采を想望し、豪傑の士來問する者多し、安政二年(西紀一八五五年)十二月二日江戸大地震あり、東湖母堂を避けしめんとして、屋梁に壓せられて死す、年五十、東湖天資英靈、容貌魁偉、眼光人を射る、而して才を愛し衆を容る、加ふるに文武兼修、豪爽にして大志あり、事に臨み慨然死を以て自ら誓ふ、終世大義を明かにし人心を正すを以て己が任と爲し、敬神振武を以て政敎の基本とせり、其訃天下に聞ゆるや、天皇震悼して人を失ふの嘆あらせられきといふ、衆人と雖も之を哀惜せざるはなし、烈公厚く之を葬り、碑を立てゝ自ら表誠の二字を題す、明治廿二年二月正四位を贈らる、本書其著に係る「弘道館記述義」「回天詩史」各二卷を收載す、殊に「回天詩史」は其の女婿宮崎幸麿氏の寄贈本に依る、

新字:蒸熱湿露、上圧下潰、汗臭氳氛として室に充塞す、東湖依然として曰く、之を文天祥の土窖に比すれば我舎は則ち玉堂金屋なり、塵垢の爪に盈つる、蚤虱の膚を侵すも、未だ我正気に敵するに足らずと、乃ち天祥に倣ひて正気の歌を作る、又蘇軾が道義心肝を貫き、忠義骨髄に塡つ、直ちに須らく死生の間に笑談すべしとの語を服膺し、自ら悶を遣り、更に平生の出処大節、君臣遭遇の際、乃ち国家の盛衰変故すると一ならざるものを取り、「回天詩史」を著はす、三年を経て烈公赦され、東湖も亦免されて水戸に帰る、是に於て東湖の名天下に噪しく、遠近争ひ来りて時事を諮り文事を問ふ、東湖詩史二三篇を読み、慷慨扼腕継ぐに涙を以てす、嘉永六年烈公幕命を受けて外交に参与す、東湖召されて又江戸に出づ、天下其風采を想望し、豪傑の士来問する者多し、安政二年(西紀一八五五年)十二月二日江戸大地震あり、東湖母堂を避けしめんとして、屋梁に圧せられて死す、年五十、東湖天資英霊、容貌魁偉、眼光人を射る、而して才を愛し衆を容る、加ふるに文武兼修、豪爽にして大志あり、事に臨み慨然死を以て自ら誓ふ、終世大義を明かにし人心を正すを以て己が任と為し、敬神振武を以て政教の基本とせり、其訃天下に聞ゆるや、天皇震悼して人を失ふの嘆あらせられきといふ、衆人と雖も之を哀惜せざるはなし、烈公厚く之を葬り、碑を立てゝ自ら表誠の二字を題す、明治廿二年二月正四位を贈らる、本書其著に係る「弘道館記述義」「回天詩史」各二巻を収載す、殊に「回天詩史」は其の女婿宮崎幸麿氏の寄贈本に依る、

書き下し

蒸熱濕露、上壓下潰、汗臭氳氛として室に充塞す、東湖依然として曰く、之を文天祥の土窖に比すれば我舍は則ち玉堂金屋なり、塵垢の爪に盈つる、蚤虱の膚を侵すも、未だ我正氣に敵するに足らずと、乃ち天祥に倣ひて正氣の歌を作る、又蘇軾が道義心肝を貫き、忠義骨髓に塡つ、直ちに須らく死生の間に笑談すべしとの語を服膺し、自ら悶を遣り、更に平生の出處大節、君臣遭遇の際、乃ち國家の盛衰變故すると一ならざるものを取り、「回天詩史」を著はす、三年を經て烈公赦され、東湖も亦免されて水戸に歸る、是に於て東湖の名天下に噪しく、遠近爭ひ來りて時事を諮り文事を問ふ、東湖詩史二三篇を讀み、慷慨扼腕繼ぐに涙を以てす、嘉永六年烈公幕命を受けて外交に參與す、東湖召されて又江戸に出づ、天下其風采を想望し、豪傑の士來問する者多し、安政二年(西紀一八五五年)十二月二日江戸大地震あり、東湖母堂を避けしめんとして、屋梁に壓せられて死す、年五十、東湖天資英靈、容貌魁偉、眼光人を射る、而して才を愛し衆を容る、加ふるに文武兼修、豪爽にして大志あり、事に臨み慨然死を以て自ら誓ふ、終世大義を明かにし人心を正すを以て己が任と爲し、敬神振武を以て政敎の基本とせり、其訃天下に聞ゆるや、天皇震悼して人を失ふの嘆あらせられきといふ、衆人と雖も之を哀惜せざるはなし、烈公厚く之を葬り、碑を立てゝ自ら表誠の二字を題す、明治廿二年二月正四位を贈らる、本書其著に係る「弘道館記述義」「回天詩史」各二卷を收載す、殊に「回天詩史」は其の女婿宮崎幸麿氏の寄贈本に依る、

現代語訳

蒸し暑く湿気が立ちこめ、上から押され下から潰されるようで、汗の臭いが部屋に充満しました。東湖は平然として言いました。「これを文天祥の土の牢に比べれば、私の家は玉の殿堂、金の屋敷だ。爪に垢がたまり、蚤や虱が肌を侵すことも、まだ私の正気に敵うものではない」と。そこで文天祥にならって「正気の歌」を作りました。また蘇軾の「道義は心肝を貫き、忠義は骨髄に満ちる。ただちに生死の間にも笑って談ずべきだ」という言葉を心に刻んで、自ら憂さを晴らし、さらに平生の出処進退の大節、君臣の巡り合いの際、国家の盛衰や変事の一つでないものを取って、『回天詩史』を著しました。三年を経て烈公が赦され、東湖も許されて水戸に帰りました。ここに東湖の名は天下に鳴り響き、遠近から争って来て時事を諮り文事を問いました。東湖は詩史の二、三篇を読み、憤り腕をさすり、続いて涙を流しました。嘉永六年、烈公は幕命を受けて外交に参与し、東湖は召されてまた江戸に出ました。天下はその風采を慕い、豪傑の士で訪ねてくる者が多くいました。安政二年(西暦1855年)十二月二日に江戸で大地震があり、東湖は母君を避難させようとして、屋根の梁に押されて亡くなりました。五十歳でした。東湖は天性すぐれ、容貌は堂々とし、眼光は人を射るようでした。才を愛し人を受け入れ、さらに文武を兼ね修め、豪放で大志がありました。事に臨んでは憤然と死を覚悟して自ら誓いました。生涯、大義を明らかにし人心を正すことを自分の任とし、神を敬い武を振るうことを政治と教化の基本としました。その訃報が天下に聞こえると、天皇はお嘆きになり人を失う嘆きをお持ちになったといいます。一般の人でも惜しまない者はありませんでした。烈公は手厚く葬り、碑を立てて自ら「表誠」の二字を題しました。明治二十二年二月、正四位を贈られました。本書は、その著である『弘道館記述義』『回天詩史』各二巻を収めます。とくに『回天詩史』は、その女婿である宮崎幸麿氏の寄贈本によります。

解説

蒸し暑い禁錮の部屋で、東湖は文天祥の土の牢に比べれば恵まれていると言い、「正気の歌」を作り、さらに『回天詩史』を書き上げました。不遇の時間を愚痴で終わらせず、成果物に変えた点が読みどころです。現代の管理職も、左遷、異動、プロジェクトの頓挫といった不本意な局面に出会います。そこで外の状況ではなく、自分の内側にある基準で動けるかが問われます。経験を文章や記録にまとめ直す習慣は、後進に引き継ぐ財産にもなります。

この章句が説くこと

弘道館記述義藤田東湖逆境正気の歌回天詩史文天祥

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