弘道館記述義 / 藤田東湖傳・賜った黄金を返した清廉と蟄居
烈公東湖をして通事と爲し江戸に徙らしむ、東湖旣に家を提げて小石川の藩邸に居る、時に邊疆屢〻警聞あり、而して水戸藩頻年國用空竭す、烈公是に於て蝦夷を開拓し、且つ北門を警備せんとを計り、又民產を殖し學校を建てんと欲す、東湖主として之に從事す、然るに江戸水戸の兩廳依違して決せず、東湖慨然堂職を辭して、史館編修に充てらる、又擢られて側用人と爲り、復た廳堂に出入す、而して蝦夷開拓に關しては、江戸に出でゝ、盡力せり、烈公藩に就くや國內大いに治まる、而して小人漸く進む、東湖數〻之を諷諫し、又自ら辭せんとを請ふ、嘗て突然黄金の賜あり、東湖直ちに之を返還して曰はく、彪の貧固より甚し、向に行役の日斯賞あり、彪何ぞ之を辭せん、今日行役の命あらば亦之を辭せず、今故なくして之を受くる理なし、子幸に執政に謝せよ、彪飢餓すと雖も此の如き賜を拜せずと、其の正義を重んじたると知るべし、天保十三年幕府攘夷の令を廢し、寬政文化の令を守るとを海內諸侯に命ぜり、東湖潛然として歎じて曰はく、我多年の志廢せりと、怏々として樂まず、烈公再三侍臣をして復職を勸め、優待を極めしかば、之に應ぜざるは不敬なりとし、明日より出勤せり、是れより先き幕府烈公が銃砲を鑄、兵を閲するを見て、異志あらんとを恐れ、參府を命ず、東湖病を冒して從ひ行き、死を期して哀訴せんとす、然れども藩侯の制する所となり、之を止む、而して烈公幕命に順ひ遂に駒込邸に隱退す、東湖も亦小梅村別墅に禁錮せらる、檢吏頗る嚴重、而して病既に癒えしも、時適〻夏月に際し、
新字:烈公東湖をして通事と為し江戸に徙らしむ、東湖既に家を提げて小石川の藩邸に居る、時に辺疆屡〻警聞あり、而して水戸藩頻年国用空竭す、烈公是に於て蝦夷を開拓し、且つ北門を警備せんとを計り、又民産を殖し学校を建てんと欲す、東湖主として之に従事す、然るに江戸水戸の両庁依違して決せず、東湖慨然堂職を辞して、史館編修に充てらる、又擢られて側用人と為り、復た庁堂に出入す、而して蝦夷開拓に関しては、江戸に出でゝ、尽力せり、烈公藩に就くや国内大いに治まる、而して小人漸く進む、東湖数〻之を諷諫し、又自ら辞せんとを請ふ、嘗て突然黄金の賜あり、東湖直ちに之を返還して曰はく、彪の貧固より甚し、向に行役の日斯賞あり、彪何ぞ之を辞せん、今日行役の命あらば亦之を辞せず、今故なくして之を受くる理なし、子幸に執政に謝せよ、彪飢餓すと雖も此の如き賜を拝せずと、其の正義を重んじたると知るべし、天保十三年幕府攘夷の令を廃し、寛政文化の令を守るとを海内諸侯に命ぜり、東湖潜然として嘆じて曰はく、我多年の志廃せりと、怏々として楽まず、烈公再三侍臣をして復職を勧め、優待を極めしかば、之に応ぜざるは不敬なりとし、明日より出勤せり、是れより先き幕府烈公が銃砲を鋳、兵を閲するを見て、異志あらんとを恐れ、参府を命ず、東湖病を冒して従ひ行き、死を期して哀訴せんとす、然れども藩侯の制する所となり、之を止む、而して烈公幕命に順ひ遂に駒込邸に隠退す、東湖も亦小梅村別墅に禁錮せらる、検吏頗る厳重、而して病既に癒えしも、時適〻夏月に際し、
書き下し
烈公東湖をして通事と爲し江戸に徙らしむ、東湖旣に家を提げて小石川の藩邸に居る、時に邊疆屢〻警聞あり、而して水戸藩頻年國用空竭す、烈公是に於て蝦夷を開拓し、且つ北門を警備せんとを計り、又民產を殖し學校を建てんと欲す、東湖主として之に從事す、然るに江戸水戸の兩廳依違して決せず、東湖慨然堂職を辭して、史館編修に充てらる、又擢られて側用人と爲り、復た廳堂に出入す、而して蝦夷開拓に關しては、江戸に出でゝ、盡力せり、烈公藩に就くや國內大いに治まる、而して小人漸く進む、東湖數〻之を諷諫し、又自ら辭せんとを請ふ、嘗て突然黄金の賜あり、東湖直ちに之を返還して曰はく、彪の貧固より甚し、向に行役の日斯賞あり、彪何ぞ之を辭せん、今日行役の命あらば亦之を辭せず、今故なくして之を受くる理なし、子幸に執政に謝せよ、彪飢餓すと雖も此の如き賜を拜せずと、其の正義を重んじたると知るべし、天保十三年幕府攘夷の令を廢し、寬政文化の令を守るとを海內諸侯に命ぜり、東湖潛然として歎じて曰はく、我多年の志廢せりと、怏々として樂まず、烈公再三侍臣をして復職を勸め、優待を極めしかば、之に應ぜざるは不敬なりとし、明日より出勤せり、是れより先き幕府烈公が銃砲を鑄、兵を閲するを見て、異志あらんとを恐れ、參府を命ず、東湖病を冒して從ひ行き、死を期して哀訴せんとす、然れども藩侯の制する所となり、之を止む、而して烈公幕命に順ひ遂に駒込邸に隱退す、東湖も亦小梅村別墅に禁錮せらる、檢吏頗る嚴重、而して病既に癒えしも、時適〻夏月に際し、
現代語訳
烈公は東湖を通事(取り次ぎ役)として江戸に移らせました。東湖はすでに家を挙げて小石川の藩邸に住んでいました。そのころ辺境にはしばしば警報があり、水戸藩は毎年国の費用が尽きていました。烈公はそこで蝦夷を開拓し、あわせて北の門戸の警備を図り、また領民の産業を増やし学校を建てようと望みました。東湖は主としてこれに従事しました。しかし江戸と水戸の両方の役所が煮え切らず決まりませんでした。東湖は憤り嘆いて役職を辞し、史館の編修に充てられました。のち抜擢されて側用人となり、再び藩の中枢に出入りしました。蝦夷開拓については江戸に出て尽力しました。烈公が藩に帰ると国内は大いに治まりました。しかし小人が次第に進み出ました。東湖はしばしば遠回しに諫め、また自ら辞職を願い出ました。かつて突然黄金を賜ったことがあり、東湖はただちに返還して言いました。「私の貧しさはもとよりひどいものです。先に任務で出張した日にこの賞があれば、私はどうして辞退したでしょう。今日、任務の命があっても辞退しません。いま理由もなく受け取るいわれはありません。あなたはどうか執政にお礼を言って断ってください。私は飢えても、このような賜り物は受けません」と。その正義を重んじたことが知られます。天保十三年、幕府は攘夷の令を廃し、寛政・文化の令を守るよう諸侯に命じました。東湖はさめざめと嘆いて「私の多年の志は廃れた」と言い、鬱々として楽しまなくなりました。烈公が再三侍臣に復職を勧めさせ、手厚く遇したので、応じなければ不敬になるとして、翌日から出勤しました。これより前、幕府は烈公が銃砲を鋳造し兵を検閲するのを見て、謀反の心があるのではと恐れ、江戸への出頭を命じました。東湖は病を押して随行し、死を覚悟して哀訴しようとしましたが、藩侯に制止されました。烈公は幕命に従い、ついに駒込の邸に隠退しました。東湖も小梅村の別邸に禁錮されました。検視の役人は非常に厳しく、病はすでに癒えていましたが、ちょうど夏にあたり、
解説
この章句が説くこと
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