弘道館記述義 / 藤田東湖傳・占いに頼らず決断した藩の一大事
其の四に曰はく、史業督課迫蹙すべからず、其五に曰はく、虚文粉飾助長すべからずと、反覆辨論數千言、皆剴切なり、而して自身も亦固辭す、會〻藩主薨して終に果さず、是れより先き儲嗣に就き物情洶々、東湖以て國家の大事なりとし、父の靈を祭りて實を告げ、南上の議に就き之を卜す、不吉、東湖策を投じて曰はく、吉を見て行き、不吉を見て止まるは、尋常の人事のみ、今般の事一藩の大事に係る所、筮の吉凶に據りて事を決するが如きは、士の爲すべからざる所なり、吾今已に死を決す、何ぞ卜筮を要せんやと、乃ち檄を同志に傳へて、事を議す、川瀨敎德、會澤安、吉成信貞、武田勝、鈴木宜尊等來り會す、乃ち公の病を靜神祉に祈ると稱し、夜に乘じ馬に跨りて出づ、江戸に入るや、東湖諸士と共に、守山侯に謁して情狀を具陳し、夜牛劍客齋藤彌九郎の家を叩き、明日監察今村某を訪ふて禁を犯して南上の旨を告ぐ、既にして藩主の薨去を聞き、又守山侯に詣り請ふ所あり、數日を經て中山備州敬三郎を立てゝ主と爲さんとを幕府に請ふと聞き、歡喜措かず、允許の令下りて、後急行歸藩す、時に文政十二年十一月なり、翌天保元年烈公敬三郎齊昭の國に當るや、東湖八田郡宰となり、唯弊事を改革し、間あれば僚吏子弟と倶に、風月に吟咏し、古今を討議す、後大田郡宰に轉ず、又父老と舊慣の是非を諮問し、更に常平倉を作りて、凶歳に備ふ、幾許もなく召に應じて江戸に赴き、數〻藩侯の諮詢に對ふ、而して常に修文奮武の事を論究す、後史館朋黨の論あり、東湖上書して、小人を退け君子を進め國家の基本を爲さんことを請ふ、
新字:其の四に曰はく、史業督課迫蹙すべからず、其五に曰はく、虚文粉飾助長すべからずと、反覆弁論数千言、皆剴切なり、而して自身も亦固辞す、会〻藩主薨して終に果さず、是れより先き儲嗣に就き物情洶々、東湖以て国家の大事なりとし、父の霊を祭りて実を告げ、南上の議に就き之を卜す、不吉、東湖策を投じて曰はく、吉を見て行き、不吉を見て止まるは、尋常の人事のみ、今般の事一藩の大事に係る所、筮の吉凶に拠りて事を決するが如きは、士の為すべからざる所なり、吾今已に死を決す、何ぞ卜筮を要せんやと、乃ち檄を同志に伝へて、事を議す、川瀨教徳、会沢安、吉成信貞、武田勝、鈴木宜尊等来り会す、乃ち公の病を静神祉に祈ると称し、夜に乗じ馬に跨りて出づ、江戸に入るや、東湖諸士と共に、守山侯に謁して情状を具陳し、夜牛剣客斎藤弥九郎の家を叩き、明日監察今村某を訪ふて禁を犯して南上の旨を告ぐ、既にして藩主の薨去を聞き、又守山侯に詣り請ふ所あり、数日を経て中山備州敬三郎を立てゝ主と為さんとを幕府に請ふと聞き、歓喜措かず、允許の令下りて、後急行帰藩す、時に文政十二年十一月なり、翌天保元年烈公敬三郎斉昭の国に当るや、東湖八田郡宰となり、唯弊事を改革し、間あれば僚吏子弟と倶に、風月に吟咏し、古今を討議す、後大田郡宰に転ず、又父老と旧慣の是非を諮問し、更に常平倉を作りて、凶歳に備ふ、幾許もなく召に応じて江戸に赴き、数〻藩侯の諮詢に対ふ、而して常に修文奮武の事を論究す、後史館朋党の論あり、東湖上書して、小人を退け君子を進め国家の基本を為さんことを請ふ、
書き下し
其の四に曰はく、史業督課迫蹙すべからず、其五に曰はく、虚文粉飾助長すべからずと、反覆辨論數千言、皆剴切なり、而して自身も亦固辭す、會〻藩主薨して終に果さず、是れより先き儲嗣に就き物情洶々、東湖以て國家の大事なりとし、父の靈を祭りて實を告げ、南上の議に就き之を卜す、不吉、東湖策を投じて曰はく、吉を見て行き、不吉を見て止まるは、尋常の人事のみ、今般の事一藩の大事に係る所、筮の吉凶に據りて事を決するが如きは、士の爲すべからざる所なり、吾今已に死を決す、何ぞ卜筮を要せんやと、乃ち檄を同志に傳へて、事を議す、川瀨敎德、會澤安、吉成信貞、武田勝、鈴木宜尊等來り會す、乃ち公の病を靜神祉に祈ると稱し、夜に乘じ馬に跨りて出づ、江戸に入るや、東湖諸士と共に、守山侯に謁して情狀を具陳し、夜牛劍客齋藤彌九郎の家を叩き、明日監察今村某を訪ふて禁を犯して南上の旨を告ぐ、既にして藩主の薨去を聞き、又守山侯に詣り請ふ所あり、數日を經て中山備州敬三郎を立てゝ主と爲さんとを幕府に請ふと聞き、歡喜措かず、允許の令下りて、後急行歸藩す、時に文政十二年十一月なり、翌天保元年烈公敬三郎齊昭の國に當るや、東湖八田郡宰となり、唯弊事を改革し、間あれば僚吏子弟と倶に、風月に吟咏し、古今を討議す、後大田郡宰に轉ず、又父老と舊慣の是非を諮問し、更に常平倉を作りて、凶歳に備ふ、幾許もなく召に應じて江戸に赴き、數〻藩侯の諮詢に對ふ、而して常に修文奮武の事を論究す、後史館朋黨の論あり、東湖上書して、小人を退け君子を進め國家の基本を爲さんことを請ふ、
現代語訳
その第四は、史書編纂の仕事の督励を差し迫ったものにしてはならないこと、第五は、中身のない飾り立てを助長してはならないこと、というものでした。繰り返し数千言にわたって論じ、すべて的を射ていました。そして自分自身も固く辞退しましたが、ちょうど藩主が亡くなり、ついに実現しませんでした。これより前、後継ぎをめぐって世間が騒がしく、東湖は国家の大事だと考え、父の霊を祭って実情を告げ、江戸へ上る相談について占いました。不吉と出ました。東湖は筮竹を投げ捨てて言いました。「吉と出れば行き、不吉と出れば止めるのは、ふつうの人のすることだ。今回の件は一藩の大事に関わる。筮の吉凶で事を決めるのは、士のすべきことではない。私はすでに死を決している。どうして占いなど要ろうか」と。そこで檄を同志に伝えて協議しました。川瀬教徳、会沢安、吉成信貞、武田勝、鈴木宜尊らが集まりました。そこで、公の病を静神社に祈ると称して、夜に乗じて馬にまたがって出発しました。江戸に入ると、東湖は諸士とともに守山侯にお目にかかって事情を詳しく述べ、夜中に剣客の斎藤弥九郎の家を訪ね、翌日、監察の今村某を訪ねて、禁を犯して南上した旨を告げました。やがて藩主の薨去を聞き、また守山侯のもとに行って願い出ました。数日後、中山備州が敬三郎を立てて主君としたいと幕府に願い出たと聞き、喜びにたえませんでした。許可の命が下ってのち、急いで藩に帰りました。時に文政十二年十一月のことです。翌天保元年、烈公(敬三郎、斉昭)が藩を治めるようになると、東湖は八田の郡宰となり、ひたすら弊害を改革し、暇があれば同僚の役人や子弟とともに風月を詠み、古今を議論しました。のち大田の郡宰に転じ、また父老と旧来の慣習の是非を諮り、さらに常平倉をつくって凶作の年に備えました。まもなく召しに応じて江戸に赴き、しばしば藩侯の諮問に答え、常に学問の振興と武の奮起のことを論じ究めました。のち史館で朋党の論があり、東湖は上書して、小人を退け君子を進めて国家の基本とすることを願いました。
解説
この章句が説くこと
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『春秋左氏伝』昭公十六年 孔張、位を失う二月、晉の韓起鄭に聘す。鄭伯之を享す。子產戒めて曰く、「苟くも朝に位有らば、共恪せざる有る無かれ」と。孔張後れて至り、客の間に立つ。執政之を禦ぐ。客の後に適く。又之を禦ぐ。縣の間に適く。客從ひて之を笑ふ。事畢はり、富子諫めて曰く、「夫れ大國の人は、慎まざる可からざるなり。幾ど之が笑ひと為りて、我を陵がざらんや。我皆禮有るも、夫れ猶ほ我を鄙しむ。國にして禮無くんば、何を以ってか榮を求めん。孔張位を失ふは、吾子の恥なり」と。子產怒りて曰く、「命を發するの衷ならず、令を出だすの信ならず、刑の頗類、獄の放紛、會朝の敬せず、使命の聽かれず、陵ぎを大國に取り、民を罷らせて功無く、罪及べども知らざるは、僑の恥なり。孔張は、君の昆孫、子孔の後なり、執政の嗣なり。嗣大夫と為り、命を承けて以って使ひし、諸侯に周し。國人の尊ぶ所、諸侯の知る所なり。朝に立ちて家に祀り、國に祿有り、軍に賦有り、喪祭に職有り、脤を受け賑を歸す。其の祭は廟に在り、已に著位有り。位に在ること數世、世々其の業を守る。而るに其の所を忘る。僑焉んぞ之を恥ぢんや。辟邪の人、而して皆執政に及ばば、是れ先王に刑罰無きなり。子寧ろ他を以って我を規せ。
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『春秋左氏伝』僖公三十三年 一眚を以て大徳を掩わず夏、四月、辛巳、秦の師を殽に敗り、百里孟明視・西乞術・白乙丙を獲て以って歸る。遂に墨して以って文公を葬る。晉是に於いて始めて墨す。文嬴三帥を請ひて曰く、「彼實に吾が二君を構ふ。寡君若し得て之を食らふとも、厭かじ。君何ぞ辱くも討たん。歸りて秦に戮に就かしめ、以って寡君の志を逞(たくま)しうせしめば、若何」と。公之を許す。先軫朝して、秦の囚を問ふ。公曰く、「夫人之を請ふ、吾之を舍せり」と。先軫怒りて曰く、「武夫力めて諸を原に拘へ、婦人暫くにして諸を國に免ず。軍實を墮(こぼ)ちて寇讎を長ず。亡ぶること日無からん」と。顧みずして唾す。公陽處父をして之を追はしむ。諸を河に及べば、則ち舟中に在り。左驂を釋き、公命を以って孟明に贈る。孟明稽首して曰く、「君の惠、纍臣を以って鼓に釁(ちぬ)らず、歸りて秦に戮に就かしむ。寡君の以って戮と為さば、死すとも且つ朽ちず。若し君の惠に從ひて之を免さば、三年にして將に君の賜を拜せんとす」と。秦伯素服して郊次し、師に鄉(むか)ひて哭して曰く、「孤蹇叔に違ひ、以って二三子を辱しむ、孤の罪なり。孟明を替へざるは、孤の過ちなり。大夫何の罪かあらん。且つ吾一眚(いっせい)を以って大德を掩はず」と。狄齊を侵す、晉の喪に因るなり。公邾を伐ち、訾婁(しろう)を取り、以って升陘の役に報ゆ。邾人備へを設けず。秋、襄仲復た邾を伐つ。狄晉を伐ち、箕に及ぶ。
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人生を、一行の式にしてみた。
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