弘道館記述義 / 藤田東湖傳・藤田東湖の生い立ちと文武の修業
東湖、姓は藤田氏、名は彪、字は斌卿、通稱虎之助、後誠之進と改む、東湖は其號なり、常陸水戸藩の人、其先は參議小野篁より出づ、父名は一正、字は子定、幽谷と號す、通稱次郎左衞門、世々商を營み、水戸下市に居る、幽谷初めて學を修め、業を廢して、水戸藩に仕へ、彰考館總裁に任じ、祿二百石を食む、東湖幼より容貌非凡にして動作成人の如きを以て著はれ、藩主の賞する所となれり、六歳堀川潛(字は文淵、通稱は潛藏)に就きて「孝經」の句讀を受く、東湖能く記誦す、後宮本虎孝に從つて劍術を習ひ、更に江戸に出て、岡田十松の門に入りて劍術を磨勵し、後又伊能一雲齋に從つて槍術を學び、力を武技に專らにす、幽谷訓へて曰はく「文武の道は偏廢すべからず、汝腐儒の所爲に倣ふ勿れ、劍客の流に混ずる勿れ」と、東湖是より益々奮激す、文政七年英艦常陸に來泊す、幽谷東湖をして其動止を窺はしめ、諭すに決死を以てす、然るに英艦幕府の寬待を得て去り、事を爲すなくして已みぬ、時に歳十九なり、後又江戸に來り、入りては則ち書を讀み學を講じ、出でゝは則ち槍を弄し劍を擊つ、一日も其業を廢せず、幾許もなくして父の喪に丁り、五旬の間悲哀慟哭、飮食せず、憔悴して骨立するに至れり、喪絞るや、仕途に就き、父の祿二百石を襲ひ、進物番に補せられ、彰考館々職を攝す、同僚大竹親從川口長孺の非を難じて辭職を勸告し、又館局大弊の五事を論ぜり、其一に曰はく、心術正しからざるものは館職に居るべからず、其二に曰はく、正人實學廢棄すべからず、其三に曰はく、職を攝するの撰□に在るべからず、
新字:東湖、姓は藤田氏、名は彪、字は斌卿、通称虎之助、後誠之進と改む、東湖は其号なり、常陸水戸藩の人、其先は参議小野篁より出づ、父名は一正、字は子定、幽谷と号す、通称次郎左衛門、世々商を営み、水戸下市に居る、幽谷初めて学を修め、業を廃して、水戸藩に仕へ、彰考館総裁に任じ、禄二百石を食む、東湖幼より容貌非凡にして動作成人の如きを以て著はれ、藩主の賞する所となれり、六歳堀川潜(字は文淵、通称は潜蔵)に就きて「孝経」の句読を受く、東湖能く記誦す、後宮本虎孝に従つて剣術を習ひ、更に江戸に出て、岡田十松の門に入りて剣術を磨励し、後又伊能一雲斎に従つて槍術を学び、力を武技に専らにす、幽谷訓へて曰はく「文武の道は偏廃すべからず、汝腐儒の所為に倣ふ勿れ、剣客の流に混ずる勿れ」と、東湖是より益々奮激す、文政七年英艦常陸に来泊す、幽谷東湖をして其動止を窺はしめ、諭すに決死を以てす、然るに英艦幕府の寛待を得て去り、事を為すなくして已みぬ、時に歳十九なり、後又江戸に来り、入りては則ち書を読み学を講じ、出でゝは則ち槍を弄し剣を撃つ、一日も其業を廃せず、幾許もなくして父の喪に丁り、五旬の間悲哀慟哭、飲食せず、憔悴して骨立するに至れり、喪絞るや、仕途に就き、父の禄二百石を襲ひ、進物番に補せられ、彰考館々職を摂す、同僚大竹親従川口長孺の非を難じて辞職を勧告し、又館局大弊の五事を論ぜり、其一に曰はく、心術正しからざるものは館職に居るべからず、其二に曰はく、正人実学廃棄すべからず、其三に曰はく、職を摂するの撰□に在るべからず、
書き下し
東湖、姓は藤田氏、名は彪、字は斌卿、通稱虎之助、後誠之進と改む、東湖は其號なり、常陸水戸藩の人、其先は參議小野篁より出づ、父名は一正、字は子定、幽谷と號す、通稱次郎左衞門、世々商を營み、水戸下市に居る、幽谷初めて學を修め、業を廢して、水戸藩に仕へ、彰考館總裁に任じ、祿二百石を食む、東湖幼より容貌非凡にして動作成人の如きを以て著はれ、藩主の賞する所となれり、六歳堀川潛(字は文淵、通稱は潛藏)に就きて「孝經」の句讀を受く、東湖能く記誦す、後宮本虎孝に從つて劍術を習ひ、更に江戸に出て、岡田十松の門に入りて劍術を磨勵し、後又伊能一雲齋に從つて槍術を學び、力を武技に專らにす、幽谷訓へて曰はく「文武の道は偏廢すべからず、汝腐儒の所爲に倣ふ勿れ、劍客の流に混ずる勿れ」と、東湖是より益々奮激す、文政七年英艦常陸に來泊す、幽谷東湖をして其動止を窺はしめ、諭すに決死を以てす、然るに英艦幕府の寬待を得て去り、事を爲すなくして已みぬ、時に歳十九なり、後又江戸に來り、入りては則ち書を讀み學を講じ、出でゝは則ち槍を弄し劍を擊つ、一日も其業を廢せず、幾許もなくして父の喪に丁り、五旬の間悲哀慟哭、飮食せず、憔悴して骨立するに至れり、喪絞るや、仕途に就き、父の祿二百石を襲ひ、進物番に補せられ、彰考館々職を攝す、同僚大竹親從川口長孺の非を難じて辭職を勸告し、又館局大弊の五事を論ぜり、其一に曰はく、心術正しからざるものは館職に居るべからず、其二に曰はく、正人實學廢棄すべからず、其三に曰はく、職を攝するの撰□に在るべからず、
現代語訳
東湖は姓が藤田、名は彪、字は斌卿、通称は虎之助で、のちに誠之進と改めました。東湖は号です。常陸の水戸藩の人で、先祖は参議の小野篁から出ています。父は名を一正、字を子定といい、幽谷と号し、通称は次郎左衛門です。代々商いを営み、水戸の下市に住んでいました。幽谷は初めて学問を修め、家業をやめて水戸藩に仕え、彰考館の総裁に任じられて二百石の禄を受けました。東湖は幼いころから容貌が人並み外れ、立ち居振る舞いは大人のようで、藩主に賞されました。六歳で堀川潜(字は文淵、通称は潜蔵)について『孝経』の句読を受け、よく暗誦しました。のち宮本虎孝に従って剣術を習い、さらに江戸に出て岡田十松の門に入って剣術を磨き、のちまた伊能一雲斎に従って槍術を学び、武芸に専心しました。幽谷は「文と武の道は一方に偏って捨ててはならない。お前は役に立たない学者のまねをしてはならず、剣客の仲間にも混じってはならない」と教えました。東湖はこれからますます奮い立ちました。文政七年にイギリスの艦船が常陸に来て停泊すると、幽谷は東湖にその動きをうかがわせ、死を覚悟するよう諭しました。しかし英艦は幕府の寛大な扱いを受けて去り、何事も起こらずに終わりました。このとき十九歳でした。のちまた江戸に来て、屋内では書を読み学を講じ、外では槍を操り剣を打ち、一日もその修業を怠りませんでした。まもなく父の喪にあい、五十日のあいだ悲しみ慟哭して飲食せず、やつれて骨と皮ばかりになりました。喪が明けると仕官し、父の二百石の禄を継ぎ、進物番に補され、彰考館の館職を兼ねました。同僚の大竹が、川口長孺の非を責めて辞職を勧告し、また館の大きな弊害五つを論じました。その第一は、心術の正しくない者は館職にいてはならないこと、第二は、正しい人物と実学を捨ててはならないこと、第三は、職務を担う人の選任が(底本で判読できない字)にあってはならないこと、です。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』襄公三十年 王子必ず免れず裨灶之を指して曰く、「猶ほ以て歲を終ふべし。歲此の次に及ばざるのみ」と。其の亡ぶるに及びてや、歲は娵訾の口に在り。其の明年、乃ち降婁に及ぶ。僕展伯有に從ひ、之と皆死す。羽頡出でて晉に奔り、任の大夫と為る。雞澤の會に、鄭の樂成楚に奔り、遂に晉に適く。羽頡之に因り、之と比して趙文子に事へ、鄭を伐つの說を言ふ。宋の盟の故を以て、可かず。子皮公孫鉏を以て馬師と為す。楚の公子圍大司馬蒍掩を殺して其の室を取る。申無宇曰く、「王子必ず免れざらん。善人は國の主なり。王子楚國に相として、將に善を是れ封(つちか)ふべし。殖して之を虐ぐるは、是れ國に禍するなり。且つ司馬は令尹の偏にして、王の四體なり。民の主を絕ち、身の偏を去り、王の體を艾りて、以て其の國に禍す。不祥焉より大なるは無し。何を以てか免るるを得ん」と。宋の災の為の故に、諸侯の大夫會し、以て宋の財を歸さんことを謀る。
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葉隠・聞書第一御家中(ごかちゅう)、よき御被官(ごひかん)出来候様(できそうろうよう)に、人を仕立(した)て候事(そうろうこと)忠節なり。我が持分(もちぶん)を人を以て御用に立つるは本望(ほんもう)の事なり。
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『講孟余話』萬章下 首章然れども是れ吾が徒小人の知行偏廃の弊を言ふのみ。其の実は知にして行を廃するは真の知に非ず、行にして知を廃するは実の行に非ず。故に知行二つにして一つ、而して先後亦相待ちて済すことあるなり。抑々伯夷・伊尹・柳下恵の力ありて巧を闕くと云ふ者は、浅近の論に非ず。孔子の巧力倶に全きを以て是に比して、初めて其の少しき闕あるを見るのみ。孔門の諸子、顔淵・閔子・冉牛の「体を具へて微なる」如き、巧にして力足らずと言ふべし。子夏・子游・子張の「一体を具ふる」如き、力ありて巧足らずと言ふべし。後の道を学ぶ者、孔子を以て宗とすれば、巧力倶に至り、知行兼ね進むべきは勿論なれども、前輩を論じ及び人材を育する如きは、妄りに是を以て衆人を律することなかれ。人各々能あり不能あり。
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論語・顔淵篇子曰く、『君子は人の美を成し、人の悪を成さず。小人は是に反す。』

人生を、一行の式にしてみた。
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