近思録 / 巻13 弁異端
自其說熾傳中國、儒者未容窺聖學門墻、已爲引取。淪胥其間、指爲大道。乃其俗達之天下、致善惡知愚。男女臧獲、人人著信。使英才間氣、生則溺耳目恬習之事、長則師世儒崇尚之言。遂冥然被驅。因謂聖人可不脩而至、大道可不學而知。故未識聖人心、已謂不必求其迹。未見君子志、已謂不必事其文。此人倫所以不察、庶物所以不明、治所以忽、德所以亂。異言滿耳。上無禮以防其僞、下無學以稽其弊。自古詖淫邪遁之辭、翕然並興。一出於佛氏之門者、千五百年。向非獨立不懼、精一自信、有大過人之才、何以正立其間、與之較是非計得失哉!
新字:自其説熾伝中国、儒者未容窺聖学門墻、已為引取。淪胥其間、指為大道。乃其俗達之天下、致善悪知愚。男女臧獲、人人著信。使英才間気、生則溺耳目恬習之事、長則師世儒崇尚之言。遂冥然被駆。因謂聖人可不脩而至、大道可不学而知。故未識聖人心、已謂不必求其迹。未見君子志、已謂不必事其文。此人倫所以不察、庶物所以不明、治所以忽、徳所以乱。異言満耳。上無礼以防其偽、下無学以稽其弊。自古詖淫邪遁之辞、翕然並興。一出於仏氏之門者、千五百年。向非独立不懼、精一自信、有大過人之才、何以正立其間、与之較是非計得失哉!
書き下し
其の説中国に熾伝してより、儒者未だ聖学の門牆を窺うを容れざるに、已に引取せらる。其の間に淪胥(りんしょ)して、指して大道と為す。乃ち其の俗之を天下に達し、善悪・知愚を致す。男女・臧獲(ぞうかく)まで、人人著信す。英才間気をして、生まれては則ち耳目恬習の事に溺れ、長じては則ち世儒崇尚の言を師とせしむ。遂に冥然として駆らる。因りて聖人は修めずして至るべく、大道は学ばずして知るべしと謂う。故に未だ聖人の心を識らずして、已に必ずしも其の迹を求めずと謂う。未だ君子の志を見ずして、已に必ずしも其の文を事とせずと謂う。此れ人倫の察らかならざる所以、庶物の明らかならざる所以、治の忽(ゆるが)せにせらるる所以、徳の乱るる所以なり。異言耳に満つ。上は礼以て其の偽りを防ぐ無く、下は学以て其の弊を稽(かんが)うる無し。古より詖淫邪遁(ひいんじゃとん)の辞、翕然として並び興る。一に仏氏の門に出づる者、千五百年。向(さき)に独立して懼れず、精一自ら信じ、大いに人に過ぐるの才有るに非ずんば、何を以てか其の間に正しく立ち、之と是非を較べ得失を計らんや。
現代語訳
(張載の語の続き)仏教の説が中国に盛んに伝わってから、儒者はまだ聖人の学問の門や垣根さえうかがい見ないうちに、すでに引き込まれてしまう。その中に沈み込んで、これを大いなる道だと指す。そしてその風習は天下に行きわたり、善人も悪人も、賢い者も愚かな者も、男も女も、召使いに至るまで、人々がみな信じ込む。ずば抜けた英才であっても、生まれては見聞きして慣れ親しんだことに溺れ、成長しては世の儒者が尊ぶ言葉を師とする。こうしてついには、わけもわからないまま駆り立てられてしまう。そこで、聖人には修養しなくても至ることができ、大いなる道は学ばなくても知ることができると言う。だから聖人の心をまだ知らないのに、すでにその行いの跡を求める必要はないと言う。君子の志をまだ見ないのに、すでにその礼楽の文を務める必要はないと言う。これが人倫が明らかにされず、もろもろの物事が明らかでなく、政治がおろそかにされ、徳が乱れる理由である。異端の言葉が耳に満ちている。上には礼によってその偽りを防ぐものがなく、下には学問によってその弊害を考えるものがない。昔から、偏り・みだら・よこしま・言い逃れの言葉が、いっせいに並び起こった。それがひたすら仏教の門から出るようになって千五百年になる。これまで、ひとり立って恐れず、精一に自らを信じ、はるかに人を超える才がなければ、どうしてその中に正しく立ち、仏教と是非を比べ得失を計ることができただろうか。
解説
この章句が説くこと
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『近思録』巻13 弁異端此の巻は異端を弁ず。蓋し君子の学已に至ると雖も、然れども異端の弁は、尤も以て明らかならざるべからず、苟も此に於いて毫𨤸(ごうり)の未だ弁ぜざる有らば、則ち害を人心に貽(のこ)すこと甚だし。明道先生曰く、楊墨の害は、申韓より甚だし。仏老の害は、楊墨より甚だし。楊氏の我が為にするは、義に疑わし。墨氏の兼愛は、仁に疑わし。申韓は則ち浅陋にして見易し、故に孟子只だ楊墨を闢くは、其の世を惑わすことの甚だしきが為なり。仏老は其の言理に近く、又楊墨の比に非ず。此れ害尤も甚だしと為す所以なり。楊墨の害も、亦孟子の之を闢くを経て、廓如たる所以なり。伊川先生曰く、儒者は正道に潜心し、差有るを容れず。其の始め甚だ微なるも、其の終わりは則ち救うべからず。師や過ぎ、商や及ばずの如きは、聖人の中道に於いて、師は只だ是れ厚きに過ぐること些(すこ)し、商は只だ是れ及ばざること些し。然り而して厚ければ則ち漸く兼愛に至り、及ばざれば則ち便ち我が為にするに至る。其の過不及は同じく儒者より出で、其の末遂に楊墨に至る。楊墨の如きに至りても、亦未だ父を無みし君を無みするに至らず。孟子之を推して便ち此に至る、蓋し其の差必ず是に至ればなり。明道先生曰く、道の外に物無く、物の外に道無し。是れ天地の間、適くとして道に非ざるは無し。父子に即きては父子は親しむ所に在り、君臣に即きては君臣は厳なる所に在り、以て夫婦為り、長幼為り、朋友為るに至るまで、為す所として道に非ざるは無し。此れ道の須臾も離るべからざる所以なり。然らば則ち人倫を毀ち、四大を去る者は、其の道に外るること遠し。故に「君子の天下に於けるや、適(てき)無く、莫(ばく)無く、義に之れ与に比す」。若し適有り莫有らば、則ち道に於いて間有りと為し、天地の全きに非ざるなり。彼の釈氏の学は、「敬以て内を直くす」は則ち之れ有り、「義以て外を方にす」は、則ち未だ之れ有らざるなり。
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『近思録』巻13 弁異端学者は釈氏の説に於て、直に須らく淫声美色の如くしてこれに遠ざかるべし。爾らずんば、則ち駸駸然としてその中に入らん。顔淵、邦を為むるを問う。孔子すでにこれに告ぐるに二帝三王の事を以てし、而して復た戒むるに鄭声を放ち佞人を遠ざくるを以てして曰く、「鄭声は淫、佞人は殆し」と。彼の佞人なる者は、これ他の一辺の佞なるのみ。然れども己に於ては則ち危うし。只だこれ能く人をして移らしむ、故に危ういなり。
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『近思録』巻13 弁異端故に滞固なる者は枯槁に入り、疏通なる者は恣肆に帰す。此れ仏の教えの隘(せま)しと為す所以なり。吾が道は則ち然らず。性に率うのみ。斯の理や、聖人易に於いて備(つぶさ)に之を言う。釈氏は本死生を怖れ、利の為にす、豈に是れ公道ならんや。唯だ上達に務めて下学無し、然らば則ち其の上達の処、豈に是れ有らんや。元より相連属せず、但だ間断有り、道に非ざるなり。孟子曰く、「其の心を尽くす者は、其の性を知るなり。」彼の所謂識心見性是れなり。存心養性の一段の事の若きは、則ち無し。彼固より出家独善と曰う、便ち道体に於いて自ら足らず。或るひと曰く、「釈氏の地獄の類は、皆是れ下根の人の為に、此の怖れを設けて善を為さしむるなり。」先生曰く、至誠は天地を貫く。人尚お化せざる有り、豈に偽教を立てて人化すべき有らんや。
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『近思録』巻13 弁異端若し山林の間に居り、形を保ち気を錬り、以て年を延べ寿を益すと言わば、則ち之れ有り。譬えば一鑪の火の如し、之を風中に置けば則ち過ぎ易く、之を密室に置けば則ち過ぎ難し。此の理有るなり。又問う、揚子言う「聖人は仙を師とせず、厥(そ)の術異なればなり」と。聖人能く此等の事を為すや否や。曰く、此は是れ天地の間の一賊なり。若し造化の機を窃むに非ずんば、安んぞ能く年を延べん。聖人をして肯えて為さしめば、周孔之を為さん。謝顕道歴(つぶさ)に仏説の吾が儒と同じき処を挙げて、伊川先生に問う。先生曰く、憑地(かくのごとく)同じき処多しと雖も、只だ是れ本領是ならず、一斉に差い卻(さ)る。横渠先生曰く、釈氏は妄りに天性を意(おも)いて、天用を範囲するを知らず、反って六根の微を以て、天地に因縁す。明尽くす能わざれば、則ち天地日月を誣いて幻妄と為す。其の用を一身の小に蔽い、其の志を虚空の大に溺らす。此れ大を語り小を語るに、流遁して中を失う所以なり。其の大に過ぐるや、六合を塵芥とす。其の小に蔽わるるや、人世を夢幻とす。之を理を窮むと謂いて可ならんや。理を窮むるを知らずして之を性を尽くすと謂いて可ならんや。之を知らざる無しと謂いて可ならんや。六合を塵芥とすとは、天地を謂いて窮まり有りと為すなり。人世を夢幻とすとは、明其の従りて来たる所を究むる能わざるなり。大易は有無を言わず。有無を言うは、諸子の陋なり。浮図は鬼を明らかにして、識有るの死するや、生を受けて循環すと謂う。遂に苦を厭いて免れんことを求む。鬼を知ると謂うべけんや。人生を以て妄と為す、人を知ると謂うべけんや。天人は一物なるに、輒ち取捨を生ず、天を知ると謂うべけんや。孔孟の所謂天は、彼の所謂道なり。惑う者は「遊魂変を為す」を指して輪廻と為す、未だ之を思わざるなり。大学は当に先ず天徳を知るべし。天徳を知れば則ち聖人を知り、鬼神を知る。今浮図は極論して要帰し、必ず死生流転は、道を得るに非ずんば免れずと謂う。之を道を悟ると謂いて可ならんや。
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『近思録』巻13 弁異端万物一体と謂う所以の者は、皆此の理有ればなり。只だ那裏より来たるが為に、「生生之を易と謂う。」生ずれば則ち一時に生じ、皆此の理を完くす。人は則ち能く推し、物は則ち気昏くして、推し得ず。他の物は与(あずか)り有らずと道うべからず。人は只だ自私の為に、自家の軀殻の上頭より意を起こす。故に道理を看得て他の底を小にし了る。這の身を放ち来たりて、都(すべ)て万物の中に在りて一例に看よ。大小大の快活ぞ。釈氏は此を知らざるを以て、他の身上より意思を起こす。那の身を奈何ともし得ず、故に却って厭悪す。根塵を去り尽くすを要得し、心源の定まらざるが為なり。故に枯木死灰の如くならんことを要得す。然れども此の理没し。此の理有らんことを要せば、除(ただ)是れ死するのみ。釈氏は其の実是れ身を愛して、放ち得ず。故に許多を説く。譬えば負版の虫の、已に載せ起こさざるに、猶お自ら更に物を取りて身に在くが如し。又石を抱きて河に投じ、其の重きを以て愈〻沈むも、終に石頭を放下すとは道わず、惟だ重きを嫌うが如し。人の導気を語る者有り、先生に問いて曰く、「君も亦術有りや。」曰く、吾嘗て「夏は葛して冬は裘し、饑えては食らい渇しては飲む。」「嗜欲を節して心気を定む。」斯くの如きのみ。仏氏は陰陽・昼夜・死生・古今を識らず、安んぞ形而上なる者聖人と同じと謂うを得んや。釈氏の説、若し其の説を窮めて之を去取せんと欲すれば、則ち其の説未だ窮むる能わざるに、固より已に化して仏と為る。只だ且く迹の上に於いて之を考えよ。其の教えを設くること是くの如くなれば、則ち其の心果たして如何。固より其の心を取りて、其の跡を取らざることを為し難し。是の心有れば則ち是の迹有り。王通心迹の判を言うは、便ち是れ乱説なり。故に且く迹の上に於いて聖人と合わざるを断定するに若かず。其の言合う処有れば、則ち吾が道固より已に有り。合わざる者有れば、固より取らざる所なり。是くの如く立定すれば却って省易なり。神仙の説は諸れ有りやと問う。曰く、白日飛昇の類を説くが若きは、則ち無し。
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『呻吟語』外篇・聖賢・本原は異ならずして發端は異なる天下古今一條の大路、曰く大中至正、是れ天造地設の的なり。這個の路の上、古今多く幾人も走らず。曰く堯・舜・禹・湯・文・武・周・孔・顏・曾・思・孟なり。此の路を將て古今の人に比較すれば、伯夷・伊・惠と雖も也た是れ異端なり。更に那ぞ佛・老・楊・墨を說かん。本原の處は都て正路より起こる。卻って念頭一たび差へば、下路に走り去り、愈いよ遠ければ愈いよ繆る。所以に說く、異端は本原異ならずして發端異なるなりと。佛の虛無は吾が道中の寂然不動より差ひ去り、老の無為は吾が道中の守約施博より差ひ去る。
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