近思録 / 巻13 弁異端
學者於釋氏之說、直須如淫聲美色以遠之。不爾、則駸駸然入其中矣。顔淵問爲邦。孔子既告之以二帝三王之事、而復戒以放鄭聲、遠佞人、曰:「鄭聲淫、佞人殆。」彼佞人者、是他一邊佞耳。然而於己則危。只是能使人移、故危也。至於禹之言曰:「何畏乎巧言令色?」巧言令色、直消言畏、只是須著如此戒慎、猶恐不免。釋氏之學、更不消言常戒。到自家自信後、便不能亂得。
新字:学者於釈氏之説、直須如淫声美色以遠之。不爾、則駸駸然入其中矣。顔淵問為邦。孔子既告之以二帝三王之事、而復戒以放鄭声、遠佞人、曰:「鄭声淫、佞人殆。」彼佞人者、是他一辺佞耳。然而於己則危。只是能使人移、故危也。至於禹之言曰:「何畏乎巧言令色?」巧言令色、直消言畏、只是須著如此戒慎、猶恐不免。釈氏之学、更不消言常戒。到自家自信後、便不能乱得。
書き下し
学者は釈氏の説に於て、直に須らく淫声美色の如くしてこれに遠ざかるべし。爾らずんば、則ち駸駸然としてその中に入らん。顔淵、邦を為むるを問う。孔子すでにこれに告ぐるに二帝三王の事を以てし、而して復た戒むるに鄭声を放ち佞人を遠ざくるを以てして曰く、「鄭声は淫、佞人は殆し」と。彼の佞人なる者は、これ他の一辺の佞なるのみ。然れども己に於ては則ち危うし。只だこれ能く人をして移らしむ、故に危ういなり。
現代語訳
学ぶ者は仏教の説に対して、みだらな音楽や美色と同じように遠ざけるべきである。そうしなければ、いつのまにかその中へ入り込んでしまう。顔淵が国の治め方を問うたとき、孔子はまず二帝三王の事を告げ、そのうえで鄭の音楽を追放し、口達者な者を遠ざけよと戒めて言った、「鄭の音楽はみだらであり、口達者な者は危うい」と。あの口達者な者は、その一面が口達者なだけである。それでも自分にとっては危うい。ただ人を移らせる力があるから、危ういのだ。
解説
近思録の巻十三は「弁異端」、すなわち他学派を退ける巻で、その中心が仏教批判である。程頤は仏教の説を、みだらな音楽や美色と同列に置いて遠ざけよと言う。理由は内容の誤りではなく、人を移らせる力の強さにある。危ういのは間違っているからではなく、魅力があるからだ、という論法である。師導は無門関・六祖壇経・臨済録・法句経など仏教と禅の書も収めている。だからこの一条は、収録された書どうしが正面からぶつかる箇所になる。朱子学が何を排してまで立とうとしたのかを知るうえで、避けずに読んでおきたい一条である。
この章句が説くこと
弁異端釈氏の説人をして移らしむ鄭声を放ち佞人を遠ざく
関連する章句
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論語・衛霊公篇顔淵、邦を為むるを問う。子曰く、「夏の時を行い、殷の輅に乗り、周の冕を服し、楽は則ち韶舞。鄭声を放ち、佞人を遠ざく。鄭声は淫にして、佞人は殆し。」
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