近思録 / 巻13 弁異端
所以謂萬物一體者、皆有此理。只爲從那裏來、「生生之謂易。」生則一時生、皆完此理。人則能推、物則氣昏、推不得。不可道他物不與有也。人只爲自私、將自家軀殼上頭起意。故看得道理小了他底。放這身來、都在萬物中一例看。大小大快活。釋氏以不知此、去他身上起意思。奈何那身不得、故卻厭惡。要得去盡根塵、爲心源不定。故要得如枯木死灰。然沒此理。要有此理、除是死也。釋氏其實是愛身、放不得。故說許多。譬如負版之蟲、已載不起、猶自更取物在身。又如抱石投河、以其重愈沈、終不道放下石頭、惟嫌重也。人有語導氣者、問先生曰:「君亦有術乎?」曰:吾嘗「夏葛而冬裘、饑食而渴飲。」「節嗜欲定心氣。」如斯而已矣。佛氏不識陰陽晝夜死生古今、安得謂形而上者與聖人同乎?釋氏之說、若欲窮其說而去取之、則其說未能窮、固已化而爲佛矣。只且於迹上考之。其設教如是、則其心果如何?固難爲取其心、不取其跡。有是心則有是迹。王通言心跡之判、便是亂說。故不若且於迹上斷定不與聖人合。其言有合處、則吾道固已有。有不合者、固所不取。如是立定卻省易。問神仙之說有諸?曰:若說白日飛升之類、則無。
新字:所以謂万物一体者、皆有此理。只為従那裏来、「生生之謂易。」生則一時生、皆完此理。人則能推、物則気昏、推不得。不可道他物不与有也。人只為自私、将自家躯殼上頭起意。故看得道理小了他底。放這身来、都在万物中一例看。大小大快活。釈氏以不知此、去他身上起意思。奈何那身不得、故却厭悪。要得去尽根塵、為心源不定。故要得如枯木死灰。然没此理。要有此理、除是死也。釈氏其実是愛身、放不得。故説許多。譬如負版之虫、已載不起、猶自更取物在身。又如抱石投河、以其重愈沈、終不道放下石頭、惟嫌重也。人有語導気者、問先生曰:「君亦有術乎?」曰:吾嘗「夏葛而冬裘、饑食而渇飲。」「節嗜欲定心気。」如斯而已矣。仏氏不識陰陽昼夜死生古今、安得謂形而上者与聖人同乎?釈氏之説、若欲窮其説而去取之、則其説未能窮、固已化而為仏矣。只且於迹上考之。其設教如是、則其心果如何?固難為取其心、不取其跡。有是心則有是迹。王通言心跡之判、便是乱説。故不若且於迹上断定不与聖人合。其言有合処、則吾道固已有。有不合者、固所不取。如是立定却省易。問神仙之説有諸?曰:若説白日飛升之類、則無。
書き下し
万物一体と謂う所以の者は、皆此の理有ればなり。只だ那裏より来たるが為に、「生生之を易と謂う。」生ずれば則ち一時に生じ、皆此の理を完くす。人は則ち能く推し、物は則ち気昏くして、推し得ず。他の物は与(あずか)り有らずと道うべからず。人は只だ自私の為に、自家の軀殻の上頭より意を起こす。故に道理を看得て他の底を小にし了る。這の身を放ち来たりて、都(すべ)て万物の中に在りて一例に看よ。大小大の快活ぞ。釈氏は此を知らざるを以て、他の身上より意思を起こす。那の身を奈何ともし得ず、故に却って厭悪す。根塵を去り尽くすを要得し、心源の定まらざるが為なり。故に枯木死灰の如くならんことを要得す。然れども此の理没し。此の理有らんことを要せば、除(ただ)是れ死するのみ。釈氏は其の実是れ身を愛して、放ち得ず。故に許多を説く。譬えば負版の虫の、已に載せ起こさざるに、猶お自ら更に物を取りて身に在くが如し。又石を抱きて河に投じ、其の重きを以て愈〻沈むも、終に石頭を放下すとは道わず、惟だ重きを嫌うが如し。人の導気を語る者有り、先生に問いて曰く、「君も亦術有りや。」曰く、吾嘗て「夏は葛して冬は裘し、饑えては食らい渇しては飲む。」「嗜欲を節して心気を定む。」斯くの如きのみ。仏氏は陰陽・昼夜・死生・古今を識らず、安んぞ形而上なる者聖人と同じと謂うを得んや。釈氏の説、若し其の説を窮めて之を去取せんと欲すれば、則ち其の説未だ窮むる能わざるに、固より已に化して仏と為る。只だ且く迹の上に於いて之を考えよ。其の教えを設くること是くの如くなれば、則ち其の心果たして如何。固より其の心を取りて、其の跡を取らざることを為し難し。是の心有れば則ち是の迹有り。王通心迹の判を言うは、便ち是れ乱説なり。故に且く迹の上に於いて聖人と合わざるを断定するに若かず。其の言合う処有れば、則ち吾が道固より已に有り。合わざる者有れば、固より取らざる所なり。是くの如く立定すれば却って省易なり。神仙の説は諸れ有りやと問う。曰く、白日飛昇の類を説くが若きは、則ち無し。
現代語訳
(程顥の語)万物が一体であるというのは、どれもこの理を持っているからである。ただすべてがそこから来るので、『易』に「生み生みしてやまないことを易という」とある。生まれるときは一時に生まれ、どれもこの理を完全に備えている。人はそれを推し広めることができるが、物は気が暗いので推し広めることができない。だからといって、他の物がこの理にあずかっていないと言ってはならない。人はただ私心のために、自分の身体の上から考えを起こす。だから道理を見ても、ほかのものを小さく見てしまうのである。この身を放り出して、すべて万物の中の一つとして同じように見てみよ。なんと大いに愉快なことか。仏教はこれを知らないので、自分の身の上から考えを起こす。その身をどうすることもできないので、かえって身を嫌い憎む。六根六塵(感覚とその対象)をすべて除き去ろうとするのは、心の源が定まらないからである。だから枯れ木や冷えた灰のようになろうとする。しかしそんな理はない。そんな理があるとすれば、それは死ぬことだけである。仏教は実は身を愛していて、手放すことができない。だからいろいろなことを言う。たとえば負版の虫(物を背負い続ける虫)が、もう背負いきれないのに、なおさらに物を取って背中に載せるようなものである。また石を抱いて川に身を投げ、その重さでいよいよ沈んでいくのに、最後まで石を手放そうとは言わず、ただ重いことを嫌っているようなものである。導引の術(呼吸で気を導く養生法)を語る人が、先生に問うた。「あなたにも術があるのか。」答えた。私はかつて「夏は葛の衣を着て冬は皮衣を着る。飢えれば食べ、渇けば飲む」「嗜好や欲望を節して、心と気を定める」だけである。仏教は陰陽・昼夜・生死・古今がわかっていない。どうして形而上のものが聖人と同じだと言えようか。仏教の説を、窮めたうえで取捨しようとすれば、その説を窮めきらないうちに、もうすでに感化されて仏教徒になってしまう。ひとまず、あらわれた行いの上で考えよ。その教えの立て方がこのようであれば、その心は果たしてどうか。その心は取って、その行いは取らないということは、もとより難しい。この心があれば、この行いがある。王通(隋の儒者)が心と行いを分けて論じたのは、でたらめである。だからひとまず、行いの上で聖人と合わないと断定するほうがよい。その言葉で合うところがあれば、それは我々の道にもとからある。合わないところは、もとより取らない。このように立場を定めれば、かえって手間が省ける。神仙の説はあるのかと問われた。答えた。白昼に天に昇るといったたぐいを言うなら、それはない。
解説
この章句が説くこと
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『近思録』巻13 弁異端若し山林の間に居り、形を保ち気を錬り、以て年を延べ寿を益すと言わば、則ち之れ有り。譬えば一鑪の火の如し、之を風中に置けば則ち過ぎ易く、之を密室に置けば則ち過ぎ難し。此の理有るなり。又問う、揚子言う「聖人は仙を師とせず、厥(そ)の術異なればなり」と。聖人能く此等の事を為すや否や。曰く、此は是れ天地の間の一賊なり。若し造化の機を窃むに非ずんば、安んぞ能く年を延べん。聖人をして肯えて為さしめば、周孔之を為さん。謝顕道歴(つぶさ)に仏説の吾が儒と同じき処を挙げて、伊川先生に問う。先生曰く、憑地(かくのごとく)同じき処多しと雖も、只だ是れ本領是ならず、一斉に差い卻(さ)る。横渠先生曰く、釈氏は妄りに天性を意(おも)いて、天用を範囲するを知らず、反って六根の微を以て、天地に因縁す。明尽くす能わざれば、則ち天地日月を誣いて幻妄と為す。其の用を一身の小に蔽い、其の志を虚空の大に溺らす。此れ大を語り小を語るに、流遁して中を失う所以なり。其の大に過ぐるや、六合を塵芥とす。其の小に蔽わるるや、人世を夢幻とす。之を理を窮むと謂いて可ならんや。理を窮むるを知らずして之を性を尽くすと謂いて可ならんや。之を知らざる無しと謂いて可ならんや。六合を塵芥とすとは、天地を謂いて窮まり有りと為すなり。人世を夢幻とすとは、明其の従りて来たる所を究むる能わざるなり。大易は有無を言わず。有無を言うは、諸子の陋なり。浮図は鬼を明らかにして、識有るの死するや、生を受けて循環すと謂う。遂に苦を厭いて免れんことを求む。鬼を知ると謂うべけんや。人生を以て妄と為す、人を知ると謂うべけんや。天人は一物なるに、輒ち取捨を生ず、天を知ると謂うべけんや。孔孟の所謂天は、彼の所謂道なり。惑う者は「遊魂変を為す」を指して輪廻と為す、未だ之を思わざるなり。大学は当に先ず天徳を知るべし。天徳を知れば則ち聖人を知り、鬼神を知る。今浮図は極論して要帰し、必ず死生流転は、道を得るに非ずんば免れずと謂う。之を道を悟ると謂いて可ならんや。
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『近思録』巻13 弁異端此の巻は異端を弁ず。蓋し君子の学已に至ると雖も、然れども異端の弁は、尤も以て明らかならざるべからず、苟も此に於いて毫𨤸(ごうり)の未だ弁ぜざる有らば、則ち害を人心に貽(のこ)すこと甚だし。明道先生曰く、楊墨の害は、申韓より甚だし。仏老の害は、楊墨より甚だし。楊氏の我が為にするは、義に疑わし。墨氏の兼愛は、仁に疑わし。申韓は則ち浅陋にして見易し、故に孟子只だ楊墨を闢くは、其の世を惑わすことの甚だしきが為なり。仏老は其の言理に近く、又楊墨の比に非ず。此れ害尤も甚だしと為す所以なり。楊墨の害も、亦孟子の之を闢くを経て、廓如たる所以なり。伊川先生曰く、儒者は正道に潜心し、差有るを容れず。其の始め甚だ微なるも、其の終わりは則ち救うべからず。師や過ぎ、商や及ばずの如きは、聖人の中道に於いて、師は只だ是れ厚きに過ぐること些(すこ)し、商は只だ是れ及ばざること些し。然り而して厚ければ則ち漸く兼愛に至り、及ばざれば則ち便ち我が為にするに至る。其の過不及は同じく儒者より出で、其の末遂に楊墨に至る。楊墨の如きに至りても、亦未だ父を無みし君を無みするに至らず。孟子之を推して便ち此に至る、蓋し其の差必ず是に至ればなり。明道先生曰く、道の外に物無く、物の外に道無し。是れ天地の間、適くとして道に非ざるは無し。父子に即きては父子は親しむ所に在り、君臣に即きては君臣は厳なる所に在り、以て夫婦為り、長幼為り、朋友為るに至るまで、為す所として道に非ざるは無し。此れ道の須臾も離るべからざる所以なり。然らば則ち人倫を毀ち、四大を去る者は、其の道に外るること遠し。故に「君子の天下に於けるや、適(てき)無く、莫(ばく)無く、義に之れ与に比す」。若し適有り莫有らば、則ち道に於いて間有りと為し、天地の全きに非ざるなり。彼の釈氏の学は、「敬以て内を直くす」は則ち之れ有り、「義以て外を方にす」は、則ち未だ之れ有らざるなり。
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『近思録』巻13 弁異端学者は釈氏の説に於て、直に須らく淫声美色の如くしてこれに遠ざかるべし。爾らずんば、則ち駸駸然としてその中に入らん。顔淵、邦を為むるを問う。孔子すでにこれに告ぐるに二帝三王の事を以てし、而して復た戒むるに鄭声を放ち佞人を遠ざくるを以てして曰く、「鄭声は淫、佞人は殆し」と。彼の佞人なる者は、これ他の一辺の佞なるのみ。然れども己に於ては則ち危うし。只だこれ能く人をして移らしむ、故に危ういなり。
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伝習録・答陸原静書 又来書に云う、「仏氏は『善を思わず、悪を思わざる時、本来の面目を認む』に於て、吾が儒の『物に随いて格す』の功と同じからず。吾、若し善を思わず悪を思わざる時に於て、致知の功を用いなば、則ち已に善を思うに渉らん。善悪を思わずして、心の良知、清静自在ならんと欲せば、惟だ寐(い)ねて方に醒むるの時有るのみ。斯れ正に孟子の『夜気』の説なり。但だ斯の光景に於て久しき能わず。倏忽の際、思慮已に生ず。知らず、功を用うること久しき者は、其れ常に寐ねて初めて醒め思いの未だ起こらざるの時ならんか。今、澄は寧静を求めんと欲すれば愈々寧静ならず。念い生ずる無からんと欲すれば則ち念い愈々生ず。如何にして能く此の心をして前念は減じ易く、後念は生ぜず、良知独り顕れて、造物者と遊ばしめんや」と。「善を思わず、悪を思わざる時、本来の面目を認む」。此れ仏氏、未だ本来の面目を識らざる者の為に此の方便を設く。本来の面目は則ち吾が聖門の所謂る良知なり。今、既に良知を認め得て明白ならば、即ち已に此くの如く説くを消せざるなり。「物に随いて格す」は是れ致知の功なり。即ち仏氏の「常惺惺」も、亦た是れ常に他の本来の面目を存するのみ。体段工夫は大略相い似たり。但だ仏氏には個の自私自利の心有り。所以に便ち同じからざる有るのみ。今、善悪を思わずして、心の良知、清静自在ならんと欲す。此れ便ち自私自利、将迎意必の心有り。所以に「善を思わず悪を思わざる時、致知の功を用いなば、則ち已に善を思うに渉る」の患い有り。孟子の「夜気」を説くも、亦た只だ是れ其の良心を失うの人の為に個の良心の萌動する処を指し出だし、他をして此より培養し将(も)ち去らしむ。今、已に良知を知り得て明白に、常に致知の功を用いなば、即ち已に「夜気」を説くを消せず。却って是れ兎を得たる後に兎を守るを知らずして、仍お去きて株を守る。兎は将に復た之に先んぜんとす。寧静を求めんと欲し、念い生ずる無からんと欲するは、此れ正に是れ自私自利、将迎意必の病なり。是を以て念い愈々生じて愈々寧静ならず。良知は只だ是れ一個の良知にして、善悪は自ら辨ず。更に何の善、何の悪の思うべき有らんや。良知の体は本と自ら寧静なり。今、却って又た一個の寧静を求むるを添う。本と自ら生生たり。今、却って又た一個の生ずる無からんと欲するを添う。独り聖門の致知の功、此くの如くならざるのみならず、仏氏の学と雖も亦た未だ此くの如く将迎意必ならず。只だ是れ一念の良知、徹頭徹尾、始め無く終わり無し。即ち是れ前念は滅せず、後念は生ぜず。今、却って前念は滅し易く、後念は生ぜざらんと欲す。是れ仏氏の所謂る種性を断滅し、槁木死灰に入るの謂いなり。
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