近思録 / 巻13 弁異端
故滯固者入於枯槁、疏通者歸於恣肆。此佛之教所以爲隘也。吾道則不然。率性而已。斯理也、聖人於易備言之。釋氏本怖死生、爲利豈是公道?唯務上達而無下學、然則其上達處、豈有是也?元不相連屬、但有間斷、非道也。孟子曰:「盡其心者、知其性也。」彼所謂識心見性是也。若存心養性一段事、則無矣。彼固曰出家獨善、便於道體自不足。或曰:「釋氏地獄之類、皆是爲下根之人、設此怖令爲善。」先生曰:至誠貫天地。人尚有不化、豈有立僞教而人可化?
新字:故滞固者入於枯槁、疏通者帰於恣肆。此仏之教所以為隘也。吾道則不然。率性而已。斯理也、聖人於易備言之。釈氏本怖死生、為利豈是公道?唯務上達而無下学、然則其上達処、豈有是也?元不相連属、但有間断、非道也。孟子曰:「尽其心者、知其性也。」彼所謂識心見性是也。若存心養性一段事、則無矣。彼固曰出家独善、便於道体自不足。或曰:「釈氏地獄之類、皆是為下根之人、設此怖令為善。」先生曰:至誠貫天地。人尚有不化、豈有立偽教而人可化?
書き下し
故に滞固なる者は枯槁に入り、疏通なる者は恣肆に帰す。此れ仏の教えの隘(せま)しと為す所以なり。吾が道は則ち然らず。性に率うのみ。斯の理や、聖人易に於いて備(つぶさ)に之を言う。釈氏は本死生を怖れ、利の為にす、豈に是れ公道ならんや。唯だ上達に務めて下学無し、然らば則ち其の上達の処、豈に是れ有らんや。元より相連属せず、但だ間断有り、道に非ざるなり。孟子曰く、「其の心を尽くす者は、其の性を知るなり。」彼の所謂識心見性是れなり。存心養性の一段の事の若きは、則ち無し。彼固より出家独善と曰う、便ち道体に於いて自ら足らず。或るひと曰く、「釈氏の地獄の類は、皆是れ下根の人の為に、此の怖れを設けて善を為さしむるなり。」先生曰く、至誠は天地を貫く。人尚お化せざる有り、豈に偽教を立てて人化すべき有らんや。
現代語訳
(程顥の語の続き。仏教には外を正す義がないので)凝り固まった者は枯れ木のように生気を失い、融通のきく者はほしいままに流れる。これが仏教の教えが狭い理由である。我々の道はそうではない。天から授かった性に従うだけである。この道理は、聖人が『易』の中でつぶさに述べている。仏教はもともと生死を恐れ、自分の利のためにしている。どうして公の道であろうか。ただ上の悟りに達することに努めて、身近なことを学ぶことがない。そうであれば、その上に達したところに、どうして本物があろうか。上と下がもともと連なっておらず、ただ断絶があるだけで、道ではない。孟子は「その心を尽くす者は、その性を知る」と言った。仏教のいう「心を識り性を見る」とはこれにあたる。しかし「心を存し性を養う」という一段の工夫は、仏教にはない。仏教はもとより出家して独り善くすると言う。それでは道の本体において、おのずと足りないのである。ある人が言った。「仏教の地獄のようなものは、みな素質の劣った人のために、恐れを設けて善を行わせるものである。」先生は言った。この上ない誠は天地を貫く。それでもなお感化されない人がいる。どうして偽りの教えを立てて、人を感化できることがあろうか。
解説
この章句が説くこと
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『近思録』巻13 弁異端万物一体と謂う所以の者は、皆此の理有ればなり。只だ那裏より来たるが為に、「生生之を易と謂う。」生ずれば則ち一時に生じ、皆此の理を完くす。人は則ち能く推し、物は則ち気昏くして、推し得ず。他の物は与(あずか)り有らずと道うべからず。人は只だ自私の為に、自家の軀殻の上頭より意を起こす。故に道理を看得て他の底を小にし了る。這の身を放ち来たりて、都(すべ)て万物の中に在りて一例に看よ。大小大の快活ぞ。釈氏は此を知らざるを以て、他の身上より意思を起こす。那の身を奈何ともし得ず、故に却って厭悪す。根塵を去り尽くすを要得し、心源の定まらざるが為なり。故に枯木死灰の如くならんことを要得す。然れども此の理没し。此の理有らんことを要せば、除(ただ)是れ死するのみ。釈氏は其の実是れ身を愛して、放ち得ず。故に許多を説く。譬えば負版の虫の、已に載せ起こさざるに、猶お自ら更に物を取りて身に在くが如し。又石を抱きて河に投じ、其の重きを以て愈〻沈むも、終に石頭を放下すとは道わず、惟だ重きを嫌うが如し。人の導気を語る者有り、先生に問いて曰く、「君も亦術有りや。」曰く、吾嘗て「夏は葛して冬は裘し、饑えては食らい渇しては飲む。」「嗜欲を節して心気を定む。」斯くの如きのみ。仏氏は陰陽・昼夜・死生・古今を識らず、安んぞ形而上なる者聖人と同じと謂うを得んや。釈氏の説、若し其の説を窮めて之を去取せんと欲すれば、則ち其の説未だ窮むる能わざるに、固より已に化して仏と為る。只だ且く迹の上に於いて之を考えよ。其の教えを設くること是くの如くなれば、則ち其の心果たして如何。固より其の心を取りて、其の跡を取らざることを為し難し。是の心有れば則ち是の迹有り。王通心迹の判を言うは、便ち是れ乱説なり。故に且く迹の上に於いて聖人と合わざるを断定するに若かず。其の言合う処有れば、則ち吾が道固より已に有り。合わざる者有れば、固より取らざる所なり。是くの如く立定すれば却って省易なり。神仙の説は諸れ有りやと問う。曰く、白日飛昇の類を説くが若きは、則ち無し。
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『近思録』巻13 弁異端若し山林の間に居り、形を保ち気を錬り、以て年を延べ寿を益すと言わば、則ち之れ有り。譬えば一鑪の火の如し、之を風中に置けば則ち過ぎ易く、之を密室に置けば則ち過ぎ難し。此の理有るなり。又問う、揚子言う「聖人は仙を師とせず、厥(そ)の術異なればなり」と。聖人能く此等の事を為すや否や。曰く、此は是れ天地の間の一賊なり。若し造化の機を窃むに非ずんば、安んぞ能く年を延べん。聖人をして肯えて為さしめば、周孔之を為さん。謝顕道歴(つぶさ)に仏説の吾が儒と同じき処を挙げて、伊川先生に問う。先生曰く、憑地(かくのごとく)同じき処多しと雖も、只だ是れ本領是ならず、一斉に差い卻(さ)る。横渠先生曰く、釈氏は妄りに天性を意(おも)いて、天用を範囲するを知らず、反って六根の微を以て、天地に因縁す。明尽くす能わざれば、則ち天地日月を誣いて幻妄と為す。其の用を一身の小に蔽い、其の志を虚空の大に溺らす。此れ大を語り小を語るに、流遁して中を失う所以なり。其の大に過ぐるや、六合を塵芥とす。其の小に蔽わるるや、人世を夢幻とす。之を理を窮むと謂いて可ならんや。理を窮むるを知らずして之を性を尽くすと謂いて可ならんや。之を知らざる無しと謂いて可ならんや。六合を塵芥とすとは、天地を謂いて窮まり有りと為すなり。人世を夢幻とすとは、明其の従りて来たる所を究むる能わざるなり。大易は有無を言わず。有無を言うは、諸子の陋なり。浮図は鬼を明らかにして、識有るの死するや、生を受けて循環すと謂う。遂に苦を厭いて免れんことを求む。鬼を知ると謂うべけんや。人生を以て妄と為す、人を知ると謂うべけんや。天人は一物なるに、輒ち取捨を生ず、天を知ると謂うべけんや。孔孟の所謂天は、彼の所謂道なり。惑う者は「遊魂変を為す」を指して輪廻と為す、未だ之を思わざるなり。大学は当に先ず天徳を知るべし。天徳を知れば則ち聖人を知り、鬼神を知る。今浮図は極論して要帰し、必ず死生流転は、道を得るに非ずんば免れずと謂う。之を道を悟ると謂いて可ならんや。
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『近思録』巻13 弁異端此の巻は異端を弁ず。蓋し君子の学已に至ると雖も、然れども異端の弁は、尤も以て明らかならざるべからず、苟も此に於いて毫𨤸(ごうり)の未だ弁ぜざる有らば、則ち害を人心に貽(のこ)すこと甚だし。明道先生曰く、楊墨の害は、申韓より甚だし。仏老の害は、楊墨より甚だし。楊氏の我が為にするは、義に疑わし。墨氏の兼愛は、仁に疑わし。申韓は則ち浅陋にして見易し、故に孟子只だ楊墨を闢くは、其の世を惑わすことの甚だしきが為なり。仏老は其の言理に近く、又楊墨の比に非ず。此れ害尤も甚だしと為す所以なり。楊墨の害も、亦孟子の之を闢くを経て、廓如たる所以なり。伊川先生曰く、儒者は正道に潜心し、差有るを容れず。其の始め甚だ微なるも、其の終わりは則ち救うべからず。師や過ぎ、商や及ばずの如きは、聖人の中道に於いて、師は只だ是れ厚きに過ぐること些(すこ)し、商は只だ是れ及ばざること些し。然り而して厚ければ則ち漸く兼愛に至り、及ばざれば則ち便ち我が為にするに至る。其の過不及は同じく儒者より出で、其の末遂に楊墨に至る。楊墨の如きに至りても、亦未だ父を無みし君を無みするに至らず。孟子之を推して便ち此に至る、蓋し其の差必ず是に至ればなり。明道先生曰く、道の外に物無く、物の外に道無し。是れ天地の間、適くとして道に非ざるは無し。父子に即きては父子は親しむ所に在り、君臣に即きては君臣は厳なる所に在り、以て夫婦為り、長幼為り、朋友為るに至るまで、為す所として道に非ざるは無し。此れ道の須臾も離るべからざる所以なり。然らば則ち人倫を毀ち、四大を去る者は、其の道に外るること遠し。故に「君子の天下に於けるや、適(てき)無く、莫(ばく)無く、義に之れ与に比す」。若し適有り莫有らば、則ち道に於いて間有りと為し、天地の全きに非ざるなり。彼の釈氏の学は、「敬以て内を直くす」は則ち之れ有り、「義以て外を方にす」は、則ち未だ之れ有らざるなり。
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『近思録』巻13 弁異端学者は釈氏の説に於て、直に須らく淫声美色の如くしてこれに遠ざかるべし。爾らずんば、則ち駸駸然としてその中に入らん。顔淵、邦を為むるを問う。孔子すでにこれに告ぐるに二帝三王の事を以てし、而して復た戒むるに鄭声を放ち佞人を遠ざくるを以てして曰く、「鄭声は淫、佞人は殆し」と。彼の佞人なる者は、これ他の一辺の佞なるのみ。然れども己に於ては則ち危うし。只だこれ能く人をして移らしむ、故に危ういなり。
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『近思録』巻13 弁異端其の説中国に熾伝してより、儒者未だ聖学の門牆を窺うを容れざるに、已に引取せらる。其の間に淪胥(りんしょ)して、指して大道と為す。乃ち其の俗之を天下に達し、善悪・知愚を致す。男女・臧獲(ぞうかく)まで、人人著信す。英才間気をして、生まれては則ち耳目恬習の事に溺れ、長じては則ち世儒崇尚の言を師とせしむ。遂に冥然として駆らる。因りて聖人は修めずして至るべく、大道は学ばずして知るべしと謂う。故に未だ聖人の心を識らずして、已に必ずしも其の迹を求めずと謂う。未だ君子の志を見ずして、已に必ずしも其の文を事とせずと謂う。此れ人倫の察らかならざる所以、庶物の明らかならざる所以、治の忽(ゆるが)せにせらるる所以、徳の乱るる所以なり。異言耳に満つ。上は礼以て其の偽りを防ぐ無く、下は学以て其の弊を稽(かんが)うる無し。古より詖淫邪遁(ひいんじゃとん)の辞、翕然として並び興る。一に仏氏の門に出づる者、千五百年。向(さき)に独立して懼れず、精一自ら信じ、大いに人に過ぐるの才有るに非ずんば、何を以てか其の間に正しく立ち、之と是非を較べ得失を計らんや。
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伝習録・答陸原静書 又来書に云う、「仏氏は『善を思わず、悪を思わざる時、本来の面目を認む』に於て、吾が儒の『物に随いて格す』の功と同じからず。吾、若し善を思わず悪を思わざる時に於て、致知の功を用いなば、則ち已に善を思うに渉らん。善悪を思わずして、心の良知、清静自在ならんと欲せば、惟だ寐(い)ねて方に醒むるの時有るのみ。斯れ正に孟子の『夜気』の説なり。但だ斯の光景に於て久しき能わず。倏忽の際、思慮已に生ず。知らず、功を用うること久しき者は、其れ常に寐ねて初めて醒め思いの未だ起こらざるの時ならんか。今、澄は寧静を求めんと欲すれば愈々寧静ならず。念い生ずる無からんと欲すれば則ち念い愈々生ず。如何にして能く此の心をして前念は減じ易く、後念は生ぜず、良知独り顕れて、造物者と遊ばしめんや」と。「善を思わず、悪を思わざる時、本来の面目を認む」。此れ仏氏、未だ本来の面目を識らざる者の為に此の方便を設く。本来の面目は則ち吾が聖門の所謂る良知なり。今、既に良知を認め得て明白ならば、即ち已に此くの如く説くを消せざるなり。「物に随いて格す」は是れ致知の功なり。即ち仏氏の「常惺惺」も、亦た是れ常に他の本来の面目を存するのみ。体段工夫は大略相い似たり。但だ仏氏には個の自私自利の心有り。所以に便ち同じからざる有るのみ。今、善悪を思わずして、心の良知、清静自在ならんと欲す。此れ便ち自私自利、将迎意必の心有り。所以に「善を思わず悪を思わざる時、致知の功を用いなば、則ち已に善を思うに渉る」の患い有り。孟子の「夜気」を説くも、亦た只だ是れ其の良心を失うの人の為に個の良心の萌動する処を指し出だし、他をして此より培養し将(も)ち去らしむ。今、已に良知を知り得て明白に、常に致知の功を用いなば、即ち已に「夜気」を説くを消せず。却って是れ兎を得たる後に兎を守るを知らずして、仍お去きて株を守る。兎は将に復た之に先んぜんとす。寧静を求めんと欲し、念い生ずる無からんと欲するは、此れ正に是れ自私自利、将迎意必の病なり。是を以て念い愈々生じて愈々寧静ならず。良知は只だ是れ一個の良知にして、善悪は自ら辨ず。更に何の善、何の悪の思うべき有らんや。良知の体は本と自ら寧静なり。今、却って又た一個の寧静を求むるを添う。本と自ら生生たり。今、却って又た一個の生ずる無からんと欲するを添う。独り聖門の致知の功、此くの如くならざるのみならず、仏氏の学と雖も亦た未だ此くの如く将迎意必ならず。只だ是れ一念の良知、徹頭徹尾、始め無く終わり無し。即ち是れ前念は滅せず、後念は生ぜず。今、却って前念は滅し易く、後念は生ぜざらんと欲す。是れ仏氏の所謂る種性を断滅し、槁木死灰に入るの謂いなり。
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