近思録 / 巻4 存養
習俗之心未去、而實心未完也。人又要得剛。太柔則入於不立。亦有人生無喜怒者、則又要得剛。剛則守得定不回、進道勇敢。載則比他人自是勇處多。戲謔不惟害事、志亦爲氣所流。不戲謔亦是持氣之一端。正心之始、當以己心爲嚴師。凡所動作、則知所懼。如此一二年守得牢固、則自然心正矣。定然後始有光明。若常移易不定、何求光明?《易》大抵以艮爲止。止乃光明。故《大學》定而至於能慮。人心多則無由光明。「動靜不失其時、其道光明。」學者必時其動靜、則其道乃不蔽昧而明白。今人從學之久、不見進長、正以莫識動靜。見他人擾擾非關己事、而所脩亦廢。由聖學觀之、冥冥悠悠、以是終身。謂之光明可乎?敦篤虛靜者仁之本。不輕妄、則是敦厚也。無所繫閡昏塞、則是虛靜也。此難以頓悟。苟知之、須久於道實體之、方知其味。夫仁亦在乎熟之而已。
新字:習俗之心未去、而実心未完也。人又要得剛。太柔則入於不立。亦有人生無喜怒者、則又要得剛。剛則守得定不回、進道勇敢。載則比他人自是勇処多。戯謔不惟害事、志亦為気所流。不戯謔亦是持気之一端。正心之始、当以己心為厳師。凡所動作、則知所懼。如此一二年守得牢固、則自然心正矣。定然後始有光明。若常移易不定、何求光明?《易》大抵以艮為止。止乃光明。故《大学》定而至於能慮。人心多則無由光明。「動静不失其時、其道光明。」学者必時其動静、則其道乃不蔽昧而明白。今人従学之久、不見進長、正以莫識動静。見他人擾擾非関己事、而所脩亦廃。由聖学観之、冥冥悠悠、以是終身。謂之光明可乎?敦篤虚静者仁之本。不軽妄、則是敦厚也。無所繋閡昏塞、則是虚静也。此難以頓悟。苟知之、須久於道実体之、方知其味。夫仁亦在乎熟之而已。
書き下し
習俗の心未だ去らずして、実心未だ完からざればなり。人又剛を得んことを要す。太だ柔なれば則ち立たざるに入る。亦た人生まれながら喜怒無き者有り、則ち又剛を得んことを要す。剛なれば則ち守り得て定まりて回らず、道に進むこと勇敢なり。載は則ち他人に比して自ら是れ勇なる処多し。戯謔は惟だに事を害するのみならず、志も亦た気の流す所と為る。戯謔せざるも亦た是れ気を持するの一端なり。心を正すの始めは、当に己が心を以て厳師と為すべし。凡そ動作する所、則ち懼るる所を知る。此くの如くすること一二年守り得て牢固なれば、則ち自然に心正し。定まりて然る後に始めて光明有り。若し常に移易して定まらずんば、何ぞ光明を求めん。『易』は大抵艮を以て止と為す。止は乃ち光明なり。故に『大学』は定まりて能く慮るに至る。人心多ければ則ち光明に由無し。「動静其の時を失はず、其の道光明なり」。学者必ず其の動静を時にすれば、則ち其の道乃ち蔽昧せずして明白なり。今人学に従ふこと久しくして、進長を見ざるは、正に動静を識る莫きを以てなり。他人の擾擾として己が事に関はるに非ざるを見て、脩むる所も亦た廃す。聖学由り之を観れば、冥冥悠悠として、是を以て身を終ふ。之を光明と謂ふは可ならんや。敦篤虚静なる者は仁の本なり。軽妄ならざるは、則ち是れ敦厚なり。繋閡昏塞する所無きは、則ち是れ虚静なり。此れ以て頓悟し難し。苟くも之を知らば、須らく道に久しくして之を実体すべし、方に其の味を知らん。夫れ仁も亦た之を熟するに在るのみ。
現代語訳
それは習俗に染まった心がまだ去らず、本当の心がまだ完全でないからである。人はまた剛さを得なければならない。あまりに柔らかければ、自立できないところに陥る。また生まれつき喜怒の感情がない人もいるが、それもまた剛さを得なければならない。剛であれば、守ることができて定まり、揺らがず、道に進むことに勇敢である。私(張載)は他人に比べれば、自分でも勇敢なところが多いと思う。冗談やふざけは事を損なうだけでなく、志もまた気に押し流される。ふざけないことも、気を保つことの一つである。心を正す初めには、自分の心を厳しい師としなければならない。すべての動作において、恐れ慎むべきところを知る。このようにして一、二年守り通して堅固になれば、自然に心は正しくなる。定まって後に初めて光明がある。もし常に移り変わって定まらなければ、どうして光明を求められようか。易はおおむね艮を止とする。止はすなわち光明である。だから『大学』は「定まって後に能く慮る」に至るのである。人の心があれこれ多ければ、光明に至る道はない。「動くも静まるもその時を失わなければ、その道は光明である」。学ぶ者は必ず動静を時にかなわせれば、その道は覆われて暗くなることなく明白になる。今の人が長く学問に従いながら進歩が見えないのは、まさに動静をわきまえないからである。他人が騒々しく自分と関係のないことをしているのを見て、自分の修めていることまで捨ててしまう。聖人の学問から見れば、ぼんやりとさまよって、そのまま一生を終えることになる。これを光明と言えようか。篤実で虚静であることが仁の根本である。軽はずみでないことが、すなわち篤実である。引っかかりやふさがりがないことが、すなわち虚静である。これは一足飛びに悟ることは難しい。かりにもこれを知ったなら、長く道にあってそれを実際に体得しなければ、その味はわからない。そもそも仁もまた、これを熟させることにあるだけである。
解説
この章句が説くこと
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『近思録』巻4 存養静かなる後に万物を見れば自然に皆春意有り。孔子仁を言ふに、只だ説く、「門を出でては大賓を見るが如くし、民を使ふには大祭を承くるが如くす」と。其の気象を看れば、便ち須らく「心広く体胖か」に、「動容周旋礼に中る」こと自然なるべし。惟だ独りを慎むは便ち是れ之を守るの法なり。聖人は「己を修むるに敬を以てし以て百姓を安んず」、「篤恭にして天下平らかなり」。惟だ上下恭敬に一なれば、則ち天地自ら位し、万物自ら育す。気和せざる無し。四霊何ぞ至らざること有らん。此れ「信を体し順に達す」の道なり。聡明睿智皆是に由りて出づ。此を以て天に事へ帝を饗す。存養熟して後、泰然として行き将ち去る。便ち進む有り。屋漏に愧ぢざれば、則ち心安くして体舒ぶ。心は腔子の裏に在らんことを要す。只だ外面に些の隙罅有れば、便ち走り了る。人心は常に活せんことを要す、則ち周流して窮まり無く、一隅に滞らず。明道先生曰く、「天地位を設けて、易其の中に行はる」。只だ是れ敬なり。敬なれば則ち間断無し。「敬せざる毋かれ」、以て「上帝に対越す」べし。「敬以て内を直くし、義以て外を方にす」は、仁なり。若し敬を以て内を直くせば、則ち便ち直ならず。「必ず事とする有りて正すこと勿かれ」ならば則ち直なり。子川の上に在りて曰く、「逝く者は斯くの如きか。昼夜を舎かず」と。漢より以来、儒者皆此の意を識らず。此れ聖人の心の、「純にして亦た已まざる」を見るなり。純にして亦た已まざるは、天徳なり。天徳有れば便ち王道を語るべし。其の要は只だ独りを慎むに在り。「躬を有たず、利する攸無し」。己を立てざれば、後に好事に向かふと雖も、猶ほ化物と為る、天下万物を以て己を撓すを得ず。己立ちて後、自ら能く天下万物を了当し得。伊川先生曰く、学者は心慮紛乱して、寧静なる能はざるを患ふ。此れ則ち天下の公病なり。学者只だ箇の心を立てんことを要す。此の上頭に儘く商量有り。邪を閑げば則ち誠自ら存す。是れ外面に一箇の誠を捉へ将ち来たりて存著するにあらず。
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『近思録』巻4 存養凡そ事の朕兆有りて夢に入る者は却つて害無し。此を捨つれば皆是れ妄動なり。人心は須らく定まらんことを要し、他をして思ふ時方に思はしむ、乃ち是なり。今人都て心に由る。曰く、「心は誰か之を使ふ」と。曰く、「心を以て心を使へば則ち可なり。人心自由なれば、便ち放ち去るなり」と。其の志を持し、其の気を暴ふこと無かれ。内外交も相養ふなり。問ふ、「『辞気を出す』。是れ言語上に於いて功夫を用ふる莫きや否や」と。曰く、「須らく是れ中を養ふべし、自然に言語理に順ふ、若し是れ言語を慎みて妄りに発せざるは、此れ却つて力を著くべし」と。先生繹に謂ひて曰く、「吾気を受くること甚だ薄し、三十にして浸く盛んに、四十五十にして後に完し。今生まれて七十二年なり、其の筋骨を校ぶるに、盛年に於いて損無きなり」と。繹曰く、「先生豈に気を受くることの薄きを以て、厚く生を保つを為すか」と。夫子黙然として曰く、「吾は生を忘れて欲に徇ふを以て深き恥と為す」と。大率把捉して定まらざるは皆是れ不仁なり。伊川先生曰く、知を致すは養ふ所に在り、知を養ふは寡欲の二字に過ぐるは莫し。心定まる者は其の言重くして以て舒やかなり、定まらざる者は其の言軽くして以て疾し。明道先生曰く、人に四百四病有り、皆自家に由らず。則ち是れ心は須らく自家に由らしむべし。謝顕道明道先生に扶溝に従ふ。明道一日之に謂ひて曰く、「爾が輩此に在りて相従ふは、只だ是れ顥の言語を学ぶのみ。故に其の学心口相応ぜず。盍ぞ之を行はざる」と。「請ふ焉を問はん」と。曰く、「且く静坐せよ」と。伊川は人の静坐するを見る毎に、便ち其の善く学ぶを歎ず。横渠先生曰く、始学の要は、当に三月違はざると、日月に至るとの内外賓主の弁を知るべし。心意をして勉勉循循として已む能はざらしむ。此を過ぐれば幾ど我に在る者に非ず。心清き時少なく、乱るる時常に多し。其の清き時は視ること明らかに聴くこと聡く、四体羈束を待たずして自然に恭謹なり。其の乱るる時は是に反す。此くの如きは何ぞや。蓋し心を用ふること未だ熟せず、客慮多くして常心少なければなり。
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『近思録』巻4 存養涵養久しければ、則ち喜怒哀楽発して自ら節に中る。曰く、「中に当たるの時は、耳聞く無く、目見る無きや否や」と。曰く、「耳聞く無く、目見る無しと雖も、然れども見聞の理在りて始めて得」と。「賢且く静かなる時を説け、如何」と。曰く、「之を物無しと謂ふは則ち不可なり。然れども自ら知覚する処有り」と。曰く、「既に知覚有らば、却つて是れ動なり。怎生にか静と言はん。人復に其れ天地の心を見るを説くに、皆以謂へらく至静にして能く天地の心を見ると、非なり。復の卦の下面の一画、便ち是れ動なり。安んぞ之を静と謂ふを得ん」と。或ひと曰く、「是れ動上に於いて静を求むる莫きや否や」と。曰く、「固より是なり。然れども最も難し。釈氏多く定を言ひ、聖人は便ち止を言ふ。『人君と為りては、仁に止まる。人臣と為りては、敬に止まる』の類の如き是なり。『易』の艮は止の義を言ふ。曰く、『其の止に艮まるは、其の所に止まるなり』と。人多く止まる能はず。蓋し人は万物皆備はる。事に遇ふ時各おの其の心の重んずる所に因りて更互して出づ。纔かに這の事の重きを見得れば、便ち這の事の出づる有り。若し能く物各おの物に付せば、便ち自ら出で来たらざるなり」と。或ひと曰く、「先生喜怒哀楽の未だ発せざる前に於いて、動字を下すか、静字を下すか」と。曰く、「之を静と謂ふは則ち可なり。然れども静中須らく物有りて始めて得べし。這裏便ち是れ難処なり。学者は且く先づ敬を理会し得るに若くは莫し。能く敬すれば則ち此を知らん」と。或ひと曰く、「敬は何を以てか功を用ふる」と。曰く、「一を主とするに若くは莫し」と。季明曰く、「昞嘗て思慮の定まらざるを患ふ。或いは一事を思ひて未だ了らざるに、他事麻の如く又生ず。如何」と。曰く、「不可なり。此れ不誠の本なり。須らく是れ習ふべし。習ひて能く専一なる時便ち好し。思慮と応事とに拘らず、皆一を求めんことを要す」と。人は夢寐の間に於いて、亦た以て自家の学ぶ所の深浅を卜すべし。如し夢寐顛倒せば、即ち是れ心志定まらず、操存固からざるなり。問ふ、「人心の繋著する所の事果たして善ならば、夜夢に之を見るも、害あらざる莫きや否や」と。曰く、「是れ善事と雖も、心も亦た是れ動くなり」と。
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『近思録』巻4 存養邢和叔言ふ、「吾曹常に須らく精力を愛養すべし。精力稍や足らざれば則ち倦み、臨む所の事皆勉強して誠意無し。賓客に接する語言すら尚ほ見るべし、況んや大事に臨むをや」と。明道先生曰く、学者は此の心を全体すべし、学未だ尽くさずと雖も、若し事物の来たらば、応ぜざるべからず。但だ分限に随ひて之に応ずれば、中らずと雖も遠からず。「居処恭しく、事を執りて敬し、人と与して忠なれ」。此れは是れ上に徹し下に徹する語なり。聖人元より二語無し。伊川先生曰く、学者は須らく敬して此の心を守るべし、急迫すべからず。当に栽培すること深厚にして、其の間に涵泳すべし。然る後に以て自得すべし。但だ急迫に之を求むるは、只だ是れ私己のみ、終に以て道に達するに足らず。明道先生曰く、「思ひ邪無し」、「敬せざる毋かれ」。只だ此の二句、循ひて之を行はば、安んぞ差有るを得ん。差有る者は皆不敬不正に由るなり。今学者敬して見得ず、又安からざる者は、只だ是れ心生なればなり。亦た是れ太だ敬を以て来たりて事を做すこと得て重きなり。此れ「恭にして礼無ければ則ち労す」なり。恭とは、私に恭を為すの恭なり。礼とは、非礼の礼にあらず、是れ自然底の道理なり。只だ恭にして自然底の道理を為さず、故に自在ならざるなり。須らく是れ「恭にして安し」なるべし。今容貌必ず端しく、言語必ず正しき者は、是れ独り其の身を善くし、人の如何と道ふを要むるを道ふに非ず。只だ是れ天理此くの如くなるに合ふのみ。本より私意無く、只だ是れ箇の理に循ふのみ。今義理に志して心安楽ならざる者は何ぞや。此れ則ち正に是れ一箇の之が長ずるを助くるを剰すなり。則ち心は「之を操れば則ち存し、之を舎つれば則ち亡ぶ」と雖も、然れども之を持すること太だ甚しければ、便ち是れ「必ず事とする有りて之を正す」なり。亦た須らく且く憑せ去るべし、此くの如き者は只だ是れ徳孤なり。徳は孤ならず必ず隣有り。徳盛んなる後に到れば、自ら窒礙無く、左右其の原に逢ふなり。敬して失ふ無きは便ち是れ「喜怒哀楽の未だ発せざる、之を中と謂ふ」なり。
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『近思録』巻4 存養此の巻は存養を論ず。蓋し窮格の至ると雖も、涵養の足らざれば、則ち其の知将に日に昏からんとす、而して亦た何を以て力行の地と為さんや。故に存養の功は、実に知行を貫き、而して此の巻の編、二者の間に列するなり。或るひと問ふ、「聖は学ぶべきか」と。濂溪先生曰く、「可なり」と。「要有るか」と。曰く、「有り」と。「請ふ焉を問はん」と。曰く、「一を要と為す。一とは、無欲なり。無欲なれば則ち静虚動直なり。静虚なれば則ち明らか、明らかなれば則ち通ず。動直なれば則ち公、公なれば則ち溥し。明通公溥ならば庶からんか」と。伊川先生曰く、陽の始めて生ずるや甚だ微なり、安静にして後に能く長ず。故に復の象に曰く、「先王以て至日に関を閉づ」と。動息節宣して、以て生を養ふなり。飲食衣服、以て形を養ふなり。威儀行義、以て徳を養ふなり。己を推して物に及ぼす、以て人を養ふなり。言語を慎みて以て其の徳を養ひ、飲食を節して以て其の体を養ふ。事の至近にして繋る所の至大なる者は、言語飲食に過ぐるは莫きなり。「震は百里を驚かすも、匕鬯(ひちやう)を喪はず」。大いなる震懼に臨みて能く安んじて自ら失はざる者は、惟だ誠敬のみ。此れ震に処するの道なり。人の其の止に安んずる能はざる所以の者は、欲に動けばなり。欲前に牽きて其の止を求むるも、得べからざるなり。故に艮の道は、当に「其の背に艮まる」べし。見る所の者は前に在りて背は乃ち之に背く、是れ見ざる所なり。見ざる所に止まれば、則ち欲以て其の心を乱す無くして、止乃ち安し。「其の身を獲ず」とは、其の身を見ざるなり。我を忘るるを謂ふなり、我無ければ則ち止まる。我無きこと能はざれば、止まるべきの道無し。「其の庭に行きて其の人を見ず」、庭除の間は至近なり。背に在れば則ち至近と雖も見ず、物に交はらざるを謂ふなり。外物接せず、内欲萌さず、是くの如くにして止まる、乃ち止の道を得たり。止に於いて咎無しと為すなり。明道先生曰く、若し存養する能はずんば、只だ是れ説話なるのみ。
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『近思録』巻2 為学文は密察ならんことを要し、心は洪放ならんことを要す。疑ひを知らざる者は、只だ是れ便ち実作せざるなり。既に実作すれば則ち須らく疑ひ有るべし。必ず行はれざる処有る、是れ疑ひなり。心大なれば則ち百物皆通じ、心小なれば則ち百物皆病む。人功有りと雖も、学に及ばざるも、心も亦た宜しく忘るべからず。心苟も忘れざれば、則ち人事に接すと雖も即ち是れ実行にして、道に非ざる莫きなり。心若し之を忘るれば、則ち終身之に由るも、則ち是れ俗事なり。内外を合し、物我を平らかにす、此れ道を見るの大端なり。既に学びて先づ功業を以て意と為す者有れば、学に於て便ち相害す。既に意有れば、必ず穿鑿創意して事端を作起するなり。徳未だ成らずして先づ功業を以て事と為すは、是れ大匠に代はりて斲るなり、手を傷つけざること希なり。窃かに嘗て病む、孔孟既に没して、諸儒囂然として、約に反り源を窮むることを知らず、苟作に勇なり。逮ばざるの資を持して、急に後世に知られんとす。明者一覧すれば、肺肝を見るが如く然り。多く其の量を知らざるを見る。方に且に其の弊を創艾し、黙して吾が誠を養はんとす。顧みるに患ふる所は日力足らずして、未だ果たして他を為さざるなり。学未だ至らずして好んで変を語る者は、必ず終に患ひ有るを知る。蓋し変は軽々しく議すべからず。若し驟然として変を語れば、則ち操術の已に正しからざるを知る。凡そ事の蔽蓋して底を見ざるは、只だ是れ益を求めざるなり。人の其の道義を言ふを肯ぜざる有り、得る所至る所底を見るを得ず。又「言に於て説ばざる所無し」にも非ず。耳目外に役せらる。外事を攬る者は、其の実は是れ自ら隋(おこた)り(一本に「墮」に作る)、肯へて自ら治めず。只だ短長を言ひて、躬に反ること能はざる者なり。学者は大小志小にして気軽なるは宜しからず。志小なれば則ち足り易く、足り易ければ則ち進むに由無し。気軽なれば則ち未だ知らざるを以て已に知れりと為し、未だ学ばざるを以て已に学べりと為す。
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