近思録 / 巻4 存養
凡事有朕兆入夢者卻無害。捨此皆是妄動。人心須要定、使他思時方思、乃是。今人都由心。曰:心誰使之?曰:以心使心則可。人心自由、便放去也。持其志、無暴其氣。內外交相養也。問:「出辭氣。」莫是於言語上用功夫否?曰:須是養乎中、自然言語順理、若是慎言語不妄發、此卻可著力。先生謂繹曰:吾受氣甚薄、三十而浸盛、四十五十而後完。今生七十二年矣、校其筋骨、於盛年無損也。繹曰:先生豈以受氣之薄、而厚爲保生耶?夫子默然曰:吾以忘生徇欲爲深恥。大率把捉不定皆是不仁。伊川先生曰:致知在所養、養知莫過於寡欲二字。心定者其言重以舒、不定者其言輕以疾。明道先生曰:人有四百四病、皆不由自家。則是心須教由自家。謝顯道從明道先生於扶溝。明道一日謂之曰:爾輩在此相從、只是學顥言語。故其學心口不相應。盍若行之。請問焉。曰:且靜坐。伊川每見人靜坐、便歎其善學。橫渠先生曰:始學之要、當知三月不違、與日月至焉內外賓主之辨。使心意勉勉循循而不能已。過此幾非在我者。心清時少、亂時常多。其清時視明聽聰、四體不待羈束而自然恭謹。其亂時反是。如此何也?蓋用心未熟、客慮多而常心少也。
新字:凡事有朕兆入夢者却無害。捨此皆是妄動。人心須要定、使他思時方思、乃是。今人都由心。曰:心誰使之?曰:以心使心則可。人心自由、便放去也。持其志、無暴其気。内外交相養也。問:「出辞気。」莫是於言語上用功夫否?曰:須是養乎中、自然言語順理、若是慎言語不妄発、此却可著力。先生謂繹曰:吾受気甚薄、三十而浸盛、四十五十而後完。今生七十二年矣、校其筋骨、於盛年無損也。繹曰:先生豈以受気之薄、而厚為保生耶?夫子黙然曰:吾以忘生徇欲為深恥。大率把捉不定皆是不仁。伊川先生曰:致知在所養、養知莫過於寡欲二字。心定者其言重以舒、不定者其言軽以疾。明道先生曰:人有四百四病、皆不由自家。則是心須教由自家。謝顕道従明道先生於扶溝。明道一日謂之曰:爾輩在此相従、只是学顥言語。故其学心口不相応。盍若行之。請問焉。曰:且静坐。伊川毎見人静坐、便嘆其善学。横渠先生曰:始学之要、当知三月不違、与日月至焉内外賓主之弁。使心意勉勉循循而不能已。過此幾非在我者。心清時少、乱時常多。其清時視明聴聰、四体不待羈束而自然恭謹。其乱時反是。如此何也?蓋用心未熟、客慮多而常心少也。
書き下し
凡そ事の朕兆有りて夢に入る者は却つて害無し。此を捨つれば皆是れ妄動なり。人心は須らく定まらんことを要し、他をして思ふ時方に思はしむ、乃ち是なり。今人都て心に由る。曰く、「心は誰か之を使ふ」と。曰く、「心を以て心を使へば則ち可なり。人心自由なれば、便ち放ち去るなり」と。其の志を持し、其の気を暴ふこと無かれ。内外交も相養ふなり。問ふ、「『辞気を出す』。是れ言語上に於いて功夫を用ふる莫きや否や」と。曰く、「須らく是れ中を養ふべし、自然に言語理に順ふ、若し是れ言語を慎みて妄りに発せざるは、此れ却つて力を著くべし」と。先生繹に謂ひて曰く、「吾気を受くること甚だ薄し、三十にして浸く盛んに、四十五十にして後に完し。今生まれて七十二年なり、其の筋骨を校ぶるに、盛年に於いて損無きなり」と。繹曰く、「先生豈に気を受くることの薄きを以て、厚く生を保つを為すか」と。夫子黙然として曰く、「吾は生を忘れて欲に徇ふを以て深き恥と為す」と。大率把捉して定まらざるは皆是れ不仁なり。伊川先生曰く、知を致すは養ふ所に在り、知を養ふは寡欲の二字に過ぐるは莫し。心定まる者は其の言重くして以て舒やかなり、定まらざる者は其の言軽くして以て疾し。明道先生曰く、人に四百四病有り、皆自家に由らず。則ち是れ心は須らく自家に由らしむべし。謝顕道明道先生に扶溝に従ふ。明道一日之に謂ひて曰く、「爾が輩此に在りて相従ふは、只だ是れ顥の言語を学ぶのみ。故に其の学心口相応ぜず。盍ぞ之を行はざる」と。「請ふ焉を問はん」と。曰く、「且く静坐せよ」と。伊川は人の静坐するを見る毎に、便ち其の善く学ぶを歎ず。横渠先生曰く、始学の要は、当に三月違はざると、日月に至るとの内外賓主の弁を知るべし。心意をして勉勉循循として已む能はざらしむ。此を過ぐれば幾ど我に在る者に非ず。心清き時少なく、乱るる時常に多し。其の清き時は視ること明らかに聴くこと聡く、四体羈束を待たずして自然に恭謹なり。其の乱るる時は是に反す。此くの如きは何ぞや。蓋し心を用ふること未だ熟せず、客慮多くして常心少なければなり。
現代語訳
およそ事に前兆があって夢に入るものは、かえって害はない。これ以外はみな妄りな動きである。人の心は定まっていなければならず、考えるべきときにだけ考えるようにする、それが正しい。今の人はすべて心のままに任せている。問うた。「心は誰が使うのか」。答えた。「心によって心を使うのならよい。人の心を勝手気ままにさせれば、放たれて出ていってしまう」。その志をしっかり保ち、その気を乱暴に扱ってはならない。内と外とが互いに養い合うのである。問うた。「『言葉と口調を発する』。これは言葉の上で工夫を用いることではないか」。答えた。「内なる中を養わねばならない。そうすれば自然に言葉は理に従う。ただ言葉を慎んでみだりに発しないことについては、力を入れてよい」。先生(程頤)が張繹(ちょうえき、程頤の門人)に言った。「私は生まれつき気がきわめて弱かった。三十歳でしだいに盛んになり、四十、五十になってようやく充実した。今は生まれて七十二年になるが、筋骨を比べてみても、盛年のころに劣っていない」。張繹が言った。「先生は生まれつき気が弱かったから、手厚く養生されたのか」。先生は黙って、やがて言った。「私は、生命を忘れて欲に従うことを深く恥としているのだ」。およそ心をつかまえようとして定まらないのは、みな不仁である。伊川先生は言った。知を極めるのは養うところにあり、知を養うには寡欲の二字に過ぎるものはない。心が定まっている者は、その言葉が重くゆったりしている。定まらない者は、その言葉が軽く速い。明道先生は言った。人には四百四の病があるが、みな自分の思いどおりにはならない。だからこそ心だけは自分の思いどおりにさせなければならない。謝顕道(しゃけんどう、謝良佐、二程の門人)が扶溝(ふこう、今の河南省の地名)で明道先生に従っていた。明道はある日、彼に言った。「お前たちがここで私に従っているのは、ただ私の言葉を学んでいるだけだ。だからその学問は心と口が相応しない。どうして実行しないのか」。「それを伺いたい」。答えた。「まずは静坐せよ」。伊川は人が静坐しているのを見るたびに、よく学んでいると感嘆した。横渠先生(張載、北宋の儒者)は言った。学び始めの要は、「三か月仁に違わない」者と「日に月にたまに仁に至る」者との、内と外、主と客の区別を知ることである。心と意を努めてやまず、順を追って進んでとどまれないようにさせる。この段階を過ぎれば、ほとんど自分の力によるものではなくなる。心が清らかなときは少なく、乱れているときはいつも多い。清らかなときは、見ることが明らかで聞くことがさとく、手足は縛りつけなくても自然に恭しく慎み深い。乱れているときはその逆である。これはなぜか。思うに、心の用い方がまだ熟さず、よそからの雑念が多くて、本来の心が少ないからである。
解説
この章句が説くこと
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『近思録』巻4 存養此の巻は存養を論ず。蓋し窮格の至ると雖も、涵養の足らざれば、則ち其の知将に日に昏からんとす、而して亦た何を以て力行の地と為さんや。故に存養の功は、実に知行を貫き、而して此の巻の編、二者の間に列するなり。或るひと問ふ、「聖は学ぶべきか」と。濂溪先生曰く、「可なり」と。「要有るか」と。曰く、「有り」と。「請ふ焉を問はん」と。曰く、「一を要と為す。一とは、無欲なり。無欲なれば則ち静虚動直なり。静虚なれば則ち明らか、明らかなれば則ち通ず。動直なれば則ち公、公なれば則ち溥し。明通公溥ならば庶からんか」と。伊川先生曰く、陽の始めて生ずるや甚だ微なり、安静にして後に能く長ず。故に復の象に曰く、「先王以て至日に関を閉づ」と。動息節宣して、以て生を養ふなり。飲食衣服、以て形を養ふなり。威儀行義、以て徳を養ふなり。己を推して物に及ぼす、以て人を養ふなり。言語を慎みて以て其の徳を養ひ、飲食を節して以て其の体を養ふ。事の至近にして繋る所の至大なる者は、言語飲食に過ぐるは莫きなり。「震は百里を驚かすも、匕鬯(ひちやう)を喪はず」。大いなる震懼に臨みて能く安んじて自ら失はざる者は、惟だ誠敬のみ。此れ震に処するの道なり。人の其の止に安んずる能はざる所以の者は、欲に動けばなり。欲前に牽きて其の止を求むるも、得べからざるなり。故に艮の道は、当に「其の背に艮まる」べし。見る所の者は前に在りて背は乃ち之に背く、是れ見ざる所なり。見ざる所に止まれば、則ち欲以て其の心を乱す無くして、止乃ち安し。「其の身を獲ず」とは、其の身を見ざるなり。我を忘るるを謂ふなり、我無ければ則ち止まる。我無きこと能はざれば、止まるべきの道無し。「其の庭に行きて其の人を見ず」、庭除の間は至近なり。背に在れば則ち至近と雖も見ず、物に交はらざるを謂ふなり。外物接せず、内欲萌さず、是くの如くにして止まる、乃ち止の道を得たり。止に於いて咎無しと為すなり。明道先生曰く、若し存養する能はずんば、只だ是れ説話なるのみ。
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『近思録』巻4 存養邢和叔言ふ、「吾曹常に須らく精力を愛養すべし。精力稍や足らざれば則ち倦み、臨む所の事皆勉強して誠意無し。賓客に接する語言すら尚ほ見るべし、況んや大事に臨むをや」と。明道先生曰く、学者は此の心を全体すべし、学未だ尽くさずと雖も、若し事物の来たらば、応ぜざるべからず。但だ分限に随ひて之に応ずれば、中らずと雖も遠からず。「居処恭しく、事を執りて敬し、人と与して忠なれ」。此れは是れ上に徹し下に徹する語なり。聖人元より二語無し。伊川先生曰く、学者は須らく敬して此の心を守るべし、急迫すべからず。当に栽培すること深厚にして、其の間に涵泳すべし。然る後に以て自得すべし。但だ急迫に之を求むるは、只だ是れ私己のみ、終に以て道に達するに足らず。明道先生曰く、「思ひ邪無し」、「敬せざる毋かれ」。只だ此の二句、循ひて之を行はば、安んぞ差有るを得ん。差有る者は皆不敬不正に由るなり。今学者敬して見得ず、又安からざる者は、只だ是れ心生なればなり。亦た是れ太だ敬を以て来たりて事を做すこと得て重きなり。此れ「恭にして礼無ければ則ち労す」なり。恭とは、私に恭を為すの恭なり。礼とは、非礼の礼にあらず、是れ自然底の道理なり。只だ恭にして自然底の道理を為さず、故に自在ならざるなり。須らく是れ「恭にして安し」なるべし。今容貌必ず端しく、言語必ず正しき者は、是れ独り其の身を善くし、人の如何と道ふを要むるを道ふに非ず。只だ是れ天理此くの如くなるに合ふのみ。本より私意無く、只だ是れ箇の理に循ふのみ。今義理に志して心安楽ならざる者は何ぞや。此れ則ち正に是れ一箇の之が長ずるを助くるを剰すなり。則ち心は「之を操れば則ち存し、之を舎つれば則ち亡ぶ」と雖も、然れども之を持すること太だ甚しければ、便ち是れ「必ず事とする有りて之を正す」なり。亦た須らく且く憑せ去るべし、此くの如き者は只だ是れ徳孤なり。徳は孤ならず必ず隣有り。徳盛んなる後に到れば、自ら窒礙無く、左右其の原に逢ふなり。敬して失ふ無きは便ち是れ「喜怒哀楽の未だ発せざる、之を中と謂ふ」なり。
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『近思録』巻2 為学明道先生曰く、行ひの静かなる者は以て学を為すべし。弘にして毅ならざれば則ち規矩無く、毅にして弘ならざれば則ち隘陋なり。性の善なるを知りて忠信を以て本と為す、此れ先づ其の大なる者を立つるなり。伊川先生曰く、人安重なれば則ち学堅固なり。博く之を学び、審らかに之を問ひ、慎みて之を思ひ、明らかに之を弁じ、篤く之を行ふ、五者其の一を廃すれば、学に非ざるなり。張思叔請問するに、其の論或いは太だ高し。伊川答へず。良久しくして、曰く、高きを累ぬるは必ず下よりす。明道先生曰く、人の学を為すや、先づ標準を立つることを忌む。若し循循として已まざれば、自ら至る所有らん。尹彦明伊川に見えて後、半年にして方に大学西銘を得て看る。人の無心を説く有り。伊川曰く、無心なれば便ち是ならず、只だ当に私心無しと云ふべし。謝顕道伊川に見ゆ。伊川曰く、近日事は如何。対へて曰く、「天下何をか思ひ何をか慮らん」と。伊川曰く、是れは則ち是れ此の理有り、賢は却って発し得ること太だ早し。伊川に在りては直に是れ会(よ)く人を鍛錬し得たり。説き了りて又「恰も好し工夫を著くるなり」と道ふ。謝顕道云ふ、昔伯淳教誨するに、只だ他の言語に管著す。伯淳曰く、賢と説話するは、却って酔漢を扶くるに似たり。一辺を救ひ得れば、一辺に倒る。只だ人の一辺に執著するを怕る。横渠先生曰く、「義を精しくして神に入る」は、事吾が内に豫めして、利を吾が外に求むるなり。「用を利して身を安んず」は、素より吾が外を利して、養ひを吾が内に致すなり。「神を窮め化を知る」は、乃ち養ひ盛んにして自ら至る、思勉の能く強ふるに非ず。故に徳を崇ぶ而外、君子未だ或いは知を致さざるなり。形ありて後に気質の性有り。善く之に反れば、則ち天地の性存す。故に気質の性は、君子性とせざる者有り。徳気に勝たざれば、性命気に於てす。徳其の気に勝てば、性命徳に於てす。理を窮め性を尽くせば、則ち性は天徳、命は天理なり。気の一変すべからざる者は独り死生修夭のみ。天に非ざる莫きなり。
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