近思録 / 巻2 為学
明道先生曰:行靜者可以爲學。弘而不毅則無規矩、毅而不弘則隘陋。知性善以忠信爲本、此先立其大者。伊川先生曰:人安重則學堅固。博學之、審問之、慎思之、明辨之、篤行之、五者廢其一、非學也。張思叔請問、其論或太高。伊川不答。良久、曰:累高必自下。明道先生曰:人之爲學、忌先立標準。若循循不已、自有所至矣。尹彥明見伊川後、半年方得《大學》《西銘》看。有人說無心。伊川曰:無心便不是、只當云無私心。謝顯道見伊川。伊川曰:近日事如何?對曰:「天下何思何慮?」伊川曰:是則是有此理、賢卻發得太早。在伊川直是會鍛鍊得人。說了又道「恰好著工夫也」。謝顯道云:昔伯淳教誨、只管著他言語。伯淳曰:與賢說話、卻似扶醉漢。救得一邊、倒了一邊。只怕人執著一邊。橫渠先生曰:「精義入神」、事豫吾內、求利吾外也。「利用安身」、素利吾外、致養吾內也。「窮神知化」、乃養盛自至、非思勉之能強。故崇德而外、君子未或致知也。形而後有氣質之性。善反之、則天地之性存焉。故氣質之性、君子有弗性者焉。德不勝氣、性命於氣。德勝其氣、性命於德。窮理盡性、則性天德、命天理。氣之不可一變者獨死生脩夭而已。莫非天也。
新字:明道先生曰:行静者可以為学。弘而不毅則無規矩、毅而不弘則隘陋。知性善以忠信為本、此先立其大者。伊川先生曰:人安重則学堅固。博学之、審問之、慎思之、明弁之、篤行之、五者廃其一、非学也。張思叔請問、其論或太高。伊川不答。良久、曰:累高必自下。明道先生曰:人之為学、忌先立標準。若循循不已、自有所至矣。尹彦明見伊川後、半年方得《大学》《西銘》看。有人説無心。伊川曰:無心便不是、只当云無私心。謝顕道見伊川。伊川曰:近日事如何?対曰:「天下何思何慮?」伊川曰:是則是有此理、賢却発得太早。在伊川直是会鍛錬得人。説了又道「恰好著工夫也」。謝顕道云:昔伯淳教誨、只管著他言語。伯淳曰:与賢説話、却似扶酔漢。救得一辺、倒了一辺。只怕人執著一辺。横渠先生曰:「精義入神」、事予吾内、求利吾外也。「利用安身」、素利吾外、致養吾内也。「窮神知化」、乃養盛自至、非思勉之能強。故崇徳而外、君子未或致知也。形而後有気質之性。善反之、則天地之性存焉。故気質之性、君子有弗性者焉。徳不勝気、性命於気。徳勝其気、性命於徳。窮理尽性、則性天徳、命天理。気之不可一変者独死生脩夭而已。莫非天也。
書き下し
明道先生曰く、行ひの静かなる者は以て学を為すべし。弘にして毅ならざれば則ち規矩無く、毅にして弘ならざれば則ち隘陋なり。性の善なるを知りて忠信を以て本と為す、此れ先づ其の大なる者を立つるなり。伊川先生曰く、人安重なれば則ち学堅固なり。博く之を学び、審らかに之を問ひ、慎みて之を思ひ、明らかに之を弁じ、篤く之を行ふ、五者其の一を廃すれば、学に非ざるなり。張思叔請問するに、其の論或いは太だ高し。伊川答へず。良久しくして、曰く、高きを累ぬるは必ず下よりす。明道先生曰く、人の学を為すや、先づ標準を立つることを忌む。若し循循として已まざれば、自ら至る所有らん。尹彦明伊川に見えて後、半年にして方に大学西銘を得て看る。人の無心を説く有り。伊川曰く、無心なれば便ち是ならず、只だ当に私心無しと云ふべし。謝顕道伊川に見ゆ。伊川曰く、近日事は如何。対へて曰く、「天下何をか思ひ何をか慮らん」と。伊川曰く、是れは則ち是れ此の理有り、賢は却って発し得ること太だ早し。伊川に在りては直に是れ会(よ)く人を鍛錬し得たり。説き了りて又「恰も好し工夫を著くるなり」と道ふ。謝顕道云ふ、昔伯淳教誨するに、只だ他の言語に管著す。伯淳曰く、賢と説話するは、却って酔漢を扶くるに似たり。一辺を救ひ得れば、一辺に倒る。只だ人の一辺に執著するを怕る。横渠先生曰く、「義を精しくして神に入る」は、事吾が内に豫めして、利を吾が外に求むるなり。「用を利して身を安んず」は、素より吾が外を利して、養ひを吾が内に致すなり。「神を窮め化を知る」は、乃ち養ひ盛んにして自ら至る、思勉の能く強ふるに非ず。故に徳を崇ぶ而外、君子未だ或いは知を致さざるなり。形ありて後に気質の性有り。善く之に反れば、則ち天地の性存す。故に気質の性は、君子性とせざる者有り。徳気に勝たざれば、性命気に於てす。徳其の気に勝てば、性命徳に於てす。理を窮め性を尽くせば、則ち性は天徳、命は天理なり。気の一変すべからざる者は独り死生修夭のみ。天に非ざる莫きなり。
現代語訳
程顥(明道先生)は言う。行いが落ち着いて静かな者は、学問をすることができる。度量が広くても意志が強くなければ規律がなく、意志が強くても度量が広くなければ狭く卑しくなる。性が善であることを知り、忠と信を根本とする。これが、まずその大きなものを立てるということである。程頤(伊川先生)は言う。人が落ち着いて重厚であれば、学問も堅固になる。広く学び、詳しく問い、慎んで考え、明らかに見分け、篤く行う。この五つのうち一つでも欠ければ、学問ではない。張繹(思叔、程頤の弟子)が質問したとき、その議論がやや高尚すぎた。伊川は答えなかった。しばらくして言った。高いものを積み上げるには、必ず下から始める。明道先生は言う。人が学問をするとき、先に到達の目安を立ててしまうことを避けよ。一歩一歩順を追ってやめなければ、おのずと至るところがある。尹焞(彦明、程頤の弟子)は伊川に入門して半年たって、ようやく『大学』と「西銘」を読ませてもらえた。ある人が無心を説いた。伊川は言った。無心というのは正しくない。ただ私心がないと言うべきである。謝良佐(顕道、程門の弟子)が伊川に会った。伊川が言った。近ごろはどうしているか。謝は答えた。「天下に何を思い、何を慮ることがあろうか」。伊川は言った。確かにそういう理はある。しかし君はそれを口にするのが早すぎる。伊川はまさに人を鍛え上げるのが上手であった。そう言ったあとで、また「ちょうど工夫を加えるのによい時だ」と言った。謝顕道は言った。昔、程顥(伯淳)に教えを受けたとき、私はただ先生の言葉にとらわれていた。伯淳は言った。君と話すのは、酔っぱらいを助け起こすようだ。一方を支えると、もう一方に倒れる。ただ人が一方に執着することを恐れるのだ。張載(横渠先生)は言う。「義を精しく究めて神妙の域に入る」とは、事を自分の内で前もって準備し、外での有用さを求めることである。「はたらきを利して身を安んじる」とは、もとより外に有用であって、内に養いを致すことである。「神妙を窮め変化を知る」とは、養いが盛んになって自然に至ることであり、考えたり努めたりして無理にできることではない。だから徳を高めること以外に、君子が知を致すことはないのである。形ができてのちに気質の性がある。よくそれを本来に返せば、天地の性が保たれる。だから気質の性を、君子は自分の性とはしないのである。徳が気に勝たなければ、性も命も気に左右される。徳が気に勝てば、性も命も徳によって決まる。理を窮め性を尽くせば、性は天の徳となり、命は天の理となる。気のうちで変えることができないのは、ただ死と生、長命と短命だけである。それは天でないものはない。
解説
この章句が説くこと
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