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近思録 / 巻4 存養

敬不可謂中、但敬而無失、即所以中也。司馬子微嘗作《坐忘論》、是所謂坐馳也。伯淳昔在長安倉中間坐、見長廊柱、以意數之。已尚不疑。再數之不合、不免令人一一聲言數之、乃與初數者無差。則知越著心把捉、越不定。

新字:敬不可謂中、但敬而無失、即所以中也。司馬子微嘗作《坐忘論》、是所謂坐馳也。伯淳昔在長安倉中間坐、見長廊柱、以意数之。已尚不疑。再数之不合、不免令人一一声言数之、乃与初数者無差。則知越著心把捉、越不定。

書き下し

敬は中と謂ふべからず、但だ敬して失ふ無きは、即ち中なる所以なり。司馬子微嘗て『坐忘論』を作る、是れ所謂坐馳なり。伯淳昔長安の倉中に在りて間坐し、長廊の柱を見、意を以て之を数ふ。已に尚ほ疑はず。再び之を数ふるに合はず、人をして一一声言して之を数へしむるを免れず、乃ち初めに数ふる者と差無し。則ち知る、越いよ心を著けて把捉すれば、越いよ定まらざることを。

現代語訳

敬そのものを中ということはできない。ただ敬して失うことがないのが、中である理由である。司馬子微(しばしび、司馬承禎、唐の道士)はかつて『坐忘論』を著したが、これはいわゆる「坐馳」、すなわち座っていながら心が駆け回っている状態である。伯淳(はくじゅん、程顥の字)はかつて長安の倉庫の中で所在なく座っていたとき、長い廊下の柱を見て、心の中でその数を数えた。そのときは自分でも疑わなかった。ところがもう一度数えると合わない。やむなく人に一本ずつ声に出して数えさせたところ、最初に数えた数と違いがなかった。そこでわかった。心をつけてつかまえようとすればするほど、かえって定まらないのである。

解説

程顥の体験談を含む短い条である。敬と中の関係をまず整理し、敬は中そのものではないが、敬を失わないことが中に至る道だとする。続いて、道教の司馬承禎が説いた坐忘、すなわち座って一切を忘れる修行を、実は心が駆け回っている「坐馳」だと批判する。仏老の静坐への警戒は近思録全体を通じる主題である。柱を数え直す逸話は、確かめようと力むほど心が乱れることを示す。一度落ち着いて出した答えを、不安から何度も検算して迷い出すのは、仕事でもよくある。執着して心をつかまえるより、敬によって自然に定まるのを待つのが程顥の立場である。

この章句が説くこと

敬中坐忘把捉定

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