近思録 / 巻2 為学
今爲文者、專務章句悅人耳目。既務悅人、非俳優而何?曰:古學者爲文否?曰:人見六經便以謂聖人亦作文、不知聖人亦攄發胸中所蘊、自成文耳。所謂「有德者必有言」也。曰:游夏稱文學、何也?曰:游夏亦何嘗秉筆學爲詞章也?且如「觀乎天文以察時變。觀乎人文以化成天下」、此豈詞章之文也。涵養須用敬、進學則在致知。莫說道將第一等讓與別人、且做第二等。才如此說便是自棄。雖與不能居仁由義者差等不同、其自小一也。言學便以道爲志、言人便以聖爲志。問:「必有事焉」、當用敬否?曰:敬是涵養一事。「必有事焉」、須用集義。只知用敬、不知集義、卻是都無事也。又問:義莫是中理否?曰:中理在事、義在心。問:敬義何別?曰:敬只是持己之道、義便知有是有非。順理而行、是爲義也。若只守一箇敬、不知集義、卻是都無事也。且如欲爲孝、不成只守著一箇孝字。須是知所以爲孝之道、所以侍奉當如何、溫凊當如何、然後能盡孝道也。
新字:今為文者、専務章句悦人耳目。既務悦人、非俳優而何?曰:古学者為文否?曰:人見六経便以謂聖人亦作文、不知聖人亦攄発胸中所蘊、自成文耳。所謂「有徳者必有言」也。曰:游夏称文学、何也?曰:游夏亦何嘗秉筆学為詞章也?且如「観乎天文以察時変。観乎人文以化成天下」、此豈詞章之文也。涵養須用敬、進学則在致知。莫説道将第一等譲与別人、且做第二等。才如此説便是自棄。雖与不能居仁由義者差等不同、其自小一也。言学便以道為志、言人便以聖為志。問:「必有事焉」、当用敬否?曰:敬是涵養一事。「必有事焉」、須用集義。只知用敬、不知集義、却是都無事也。又問:義莫是中理否?曰:中理在事、義在心。問:敬義何別?曰:敬只是持己之道、義便知有是有非。順理而行、是為義也。若只守一箇敬、不知集義、却是都無事也。且如欲為孝、不成只守著一箇孝字。須是知所以為孝之道、所以侍奉当如何、温凊当如何、然後能尽孝道也。
書き下し
今の文を為る者は、専ら章句を務めて人の耳目を悦ばしむるのみ。既に人を悦ばしむることを務むれば、俳優に非ずして何ぞや。曰く、古の学者は文を為るや否や。曰く、人六経を見て便ち以謂らく聖人も亦た文を作ると、知らず聖人も亦た胸中の蘊む所を攄発して、自ら文を成すのみなることを。所謂「徳有る者は必ず言有り」なり。曰く、游夏は文学を称せらる、何ぞや。曰く、游夏も亦た何ぞ嘗て筆を秉りて学びて詞章を為らんや。且つ「天文を観て以て時の変を察し、人文を観て以て天下を化成す」の如き、此れ豈に詞章の文ならんや。涵養は須らく敬を用ふべし、進学は則ち致知に在り。第一等を将て別人に譲与し、且く第二等を做さんと説道すること莫かれ。才かに此の如く説けば便ち是れ自棄なり。仁に居り義に由ること能はざる者と差等同じからずと雖も、其の自ら小にするは一なり。学を言へば便ち道を以て志と為し、人を言へば便ち聖を以て志と為す。「必ず事とする有り」は、当に敬を用ふべきや否やと問ふ。曰く、敬は是れ涵養の一事なり。「必ず事とする有り」は、須らく集義を用ふべし。只だ敬を用ふるを知りて、集義を知らざれば、却って是れ都べて事無きなり。又問ふ、義は是れ理に中るに莫きか。曰く、理に中るは事に在り、義は心に在り。敬義は何ぞ別かると問ふ。曰く、敬は只だ是れ己を持するの道、義は便ち是有り非有るを知る。理に順ひて行ふ、是れ義と為すなり。若し只だ一箇の敬を守りて、集義を知らざれば、却って是れ都べて事無きなり。且つ孝を為さんと欲するが如き、一箇の孝の字を守著するのみならんや。須らく是れ孝を為す所以の道、侍奉するには当に如何すべき、温凊するには当に如何すべきかを知りて、然る後に能く孝道を尽くすべきなり。
現代語訳
今の文章を作る者は、もっぱら文句を工夫して人の耳目を喜ばせることに努めるだけである。人を喜ばせることに努めるなら、芸人でなくて何であろうか。ある人が言った。昔の学ぶ者は文章を作らなかったのか。答えて言う。人は六経を見て、聖人も文章を作ったのだと思っているが、聖人もまた胸の中に蓄えたものを吐き出して、自然に文章になっただけであることを知らない。いわゆる「徳のある者には必ず言葉がある」ということである。また言った。子游と子夏は文学に優れていると称された。それはなぜか。答えて言う。子游と子夏にしても、筆を取って詞章を作ることを学んだことなどあろうか。そもそも『易』の「天の文(天体の様子)を観察して時の変化を察し、人の文(礼楽や人倫)を観察して天下を教化し成し遂げる」というようなものが、どうして詞章の文であろうか。心を涵養するには敬を用いなければならず、学問を進めるのは知を致すことにある。第一等は他人に譲って、ひとまず第二等をやろうなどと言ってはならない。そう言ったとたん、それは自棄である。仁に身を置き義に従うことのできない者とは程度が違うとはいえ、自分を小さくしている点では同じである。学問を言うなら道を志とし、人を言うなら聖人を志とする。ある人が問うた。『孟子』の「必ず事とすることがある」とは、敬を用いることか。答えて言う。敬は涵養の一つの事柄である。「必ず事とすることがある」には、集義(義を積み重ねること)を用いなければならない。ただ敬を用いることだけを知って集義を知らなければ、かえってまったく何もしていないのと同じである。また問うた。義とは理にかなうことではないか。答えて言う。理にかなうのは事の上においてであり、義は心にある。敬と義はどう違うのかと問うた。答えて言う。敬はただ自分を保つ道である。義は是があり非があることを知ることである。理に従って行うこと、これが義である。もしただ一つの敬を守るだけで集義を知らなければ、かえってまったく何もしていないのと同じである。たとえば孝行をしようとするなら、ただ「孝」という一字を守っているだけでよいことがあろうか。孝行をするための道、つまりお仕えするにはどうすべきか、冬は暖かく夏は涼しく整えるにはどうすべきかを知って、はじめて孝の道を尽くすことができるのである。
解説
この章句が説くこと
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『近思録』巻2 為学大抵学は言はずして自得する者、乃ち自得なり。安排布置する者有るは、皆自得に非ざるなり。視聴思慮動作は、皆天なり。人は但だ其の中に於て真と妄とを識り得んことを要するのみ。明道先生曰く、学は只だ鞭辟近裏、己に著けんことを要するのみ。故に「切に問ひて近く思へば、則ち仁其の中に在り」。「言忠信、行篤敬ならば、蛮貊の邦と雖も行はれん。言忠信ならず、行篤敬ならずんば、州里と雖も行はれんや。立てば則ち其の前に参するを見、輿に在れば則ち其の衡に倚るを見る、夫れ然る後に行はる」。只だ此れ是れ学なり。質の美なる者は明らかにし得て尽くし、査滓便ち渾化す。却って天地と体を同じくす。其の次は惟だ荘敬持養す。其の至るに及びては則ち一なり。「忠信は徳に進む所以、辞を修めて其の誠を立つるは業に居る所以」なる者は、乾道なり。「敬以て内を直くし、義以て外を方にす」なる者は、坤道なり。凡そ人才かに学べば、便ち須らく力を著くる処を知るべし。既に学べば便ち須らく力を得る処を知るべし。人の園圃を治めて、知力を役すること甚だ労する有り。先生曰く、蠱の象に「君子以て民を振ひ徳を育ふ」と。君子の事は、惟だ此の二者有るのみ、余に他無し。二者は己の為人の為の道なり。「博く学びて篤く志し、切に問ひて近く思ふ」、何を以て「仁其の中に在り」と言ふか。学者要ず之を思ひ得よ。此を了すれば便ち是れ上に徹し下に徹するの道なり。弘にして毅ならざれば、則ち立ち難し。毅にして弘ならざれば、則ち以て之に居る無し。伊川先生曰く、古の学者は、優柔厭飫して、先後次序有り。今の学者は、却って只だ一場の話説を做して、高きを務むるのみ。常に杜元凱の語を愛す、「江海の浸すが若く、膏沢の潤すが若く、渙然として氷釈け、怡然として理順ふ。然る後に得たりと為すなり」と。今の学者は、往往にして游夏を以て小と為し、学ぶに足らずとす。然れども游夏の一言一事は、却って総べて是れ実なり。後の学者は高きを好む。
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『近思録』巻2 為学「至るを知りて之に至る」は、知を致すなり。至る所を知らんことを求めて後に之に至る。之を知ること先に在り、故に与に幾すべし。所謂「条理を始むる者は、智の事なり」。「終はるを知りて之を終ふ」は、力行なり。既に終はる所を知れば、則ち力め進みて之を終ふ。之を守ること後に在り、故に与に義を存すべし。所謂「条理を終ふる者は、聖の事なり」。此れ学の始終なり。君子は敬を主として以て其の内を直くし、義を守りて以て其の外を方にす。敬立ちて内直く、義形れて外方なり。義は外に形るるも、外に在るに非ざるなり。敬義既に立てば、其の徳盛んなり。大ならんことを期せずして大なり、徳孤ならざるなり。用ふる所として周からざる無く、施す所として利あらざる無し。孰か疑ひと為さんや。動くに天を以てするを無妄と為し、動くに人欲を以てすれば則ち妄なり。無妄の意大なるかな。邪心無しと雖も、苟も正理に合はざれば、則ち妄なり、乃ち邪心なり。既已に無妄なれば、宜しく往く有るべからず。往けば則ち妄なり。故に無妄の彖に曰く、「其れ正に匪ざれば眚(わざはひ)有り、往く攸有るに利あらず」と。人の蘊蓄は、学に由りて大なり。多く前古の聖賢の言と行とを聞くに在り。跡を考へて以て其の用を観、言を察して以て其の心を求む。識りて之を得、以て蓄へて其の徳を成す。咸の象に曰く、「君子以て虚にして人を受く」と。伝に曰く、「中に私主無ければ、則ち感じて通ぜざる無し。量を以て之を容れ、合ふを択びて之を受くるは、聖人の感ずれば必ず通ずるの道に非ざるなり」と。其の九四に曰く、「貞なれば吉にして悔亡ぶ、憧憧として往来すれば、朋爾の思ひに従ふ」と。伝に曰く、「感なる者は、人の動なり」と。故に咸は皆人身に就きて象を取る。四は心の位に当たりて其の心に咸ずと言はず、感は乃ち心なり。感の道は通ぜざる所無し。私係する所有れば、則ち感通を害す、所謂悔なり。聖人の天下の心を感ぜしむるは、寒暑雨暘の通ぜざる無く応ぜざる無きが如き者も、亦た貞なるのみ。貞なる者は、虚中無我の謂なり。
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『近思録』巻2 為学人の心を千里の外に游ばしむるも、然れども自身は却って只だ此に在るが如し。修養の年を引く所以、国祚の天に祈りて命を永くする所以、常人の聖賢に至る所以は、皆工夫這裏に到れば則ち此の応有り。忠恕は公平なる所以なり、徳を造(な)すは則ち忠恕よりし、其の致は則ち公平なり。仁の道は、之を要するに只だ一の「公」の字を道ふを消(もち)ふるのみ。公は只だ是れ仁の理なり、公を将て便ち喚びて仁と做すべからず。公にして人を以て之を体す、故に仁と為す。只だ公なるが為に則ち物我兼ねて照らす。故に仁は能く恕する所以、能く愛する所以なり。恕は則ち仁の施し、愛は則ち仁の用なり。今の学を為す者は、山麓に登るが如し。其の迤邐たるに方りては、闊歩せざる莫し。峻しき処に到るに及びて便ち止む。須らく是れ剛決果敢にして以て進まんことを要すべし。人の力行を要すと謂ふも、亦た只だ是れ浅近の語なり。人既に能く知りて、一切の事を皆当に為すべき所と見れば、必ずしも著意を待たず。纔かに著意すれば便ち是れ箇の私心有り。這の一点の意気、能く幾時をか得ん。之を知れば必ず之を好み、之を好めば必ず之を求め、之を求むれば必ず之を得。古人の此箇の学は、是れ終身の事なり。果たして能く顛沛造次にも必ず是に於てせば、豈に道理を得ざること有らんや。古の学者は一、今の学者は三、異端は与らず。一に曰く文章の学、二に曰く訓詁の学、三に曰く儒者の学、道に趨かんと欲して儒者の学を舎つるは不可なり。文を作るは道を害するや否やと問ふ。曰く、害あるなり。凡そ文を為るは意を専らにせざれば則ち工ならず、若し意を専らにすれば則ち志此に局す、又安んぞ能く天地と其の大を同じくせんや。書に曰く、「物を玩べば志を喪ふ」と。文を為るも亦た物を玩ぶなり。呂与叔に詩有りて云ふ、「学は元凱の如くして方に癖を成し、文は相如に似て殆ど俳に類す。独り孔門に立ちて一事無し、只だ顔氏の心斎を得るに輸(ま)くるのみ」と。此の詩甚だ好し。古の学者は、惟だ情性を養ふを務む。其の他は則ち学ばず。
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『近思録』巻3 致知凡そ思ひを致して説き得ざる処に到りて、始めて復た審らかに思ひ明らかに弁ず、乃ち善く学ぶと為す。告子の若きは則ち説き得ざる処に到りて遂に已み、更に復た求めず。伊川先生曰く、凡そ文字を看るには、先づ須らく其の文義を暁りて、然る後に其の意を求むべし。未だ文義暁らずして、意を見る者有らざるなり。学者は自得せんことを要す。六経は浩渺として、乍ち来たりて尽く暁り難し。且く路径を見得て後、各自ら一箇の門庭を立て得て、帰りて之を求めて可なり。凡そ文字を解するは、但だ其の心を易くすれば自ら理を見る。理は只だ是れ人理甚だ分明なり、一条の平坦底の道路の如し。詩に曰く、「周道は砥の如く、其の直きこと矢の如し」と。此の謂なり。或るひと曰く、聖人の言は、恐らくは浅近を以て他を看るべからず。曰く、聖人の言は、自ら近き処有り、自ら深遠なる処有り。近き処の如きは怎生(いかん)ぞ強ひて鑿ちて深遠ならしめ得んや。揚子曰く、「聖人の言は遠きこと天の如く、賢人の言は近きこと地の如し」と。頤之を改めて曰く、聖人の言は、其の遠きこと天の如く、其の近きこと地の如し。学者の文義に泥まざる者は、又全く背き却きて遠く去る。文義を理会する者は、又滞泥して通ぜず。子濯孺子の将たるの事の如き、孟子は只だ其の師に背かざるの意を取るのみ。人は須らく上面に就きて君に事ふるの道の如何なるかを理会すべし。又万章の舜の廩を完くし井を浚ふの事を問ふが如き。孟子は只だ他に大意を答ふるのみ。人須らく井を浚ひて如何にして出で得来たり、廩を完くして又怎生にして下り得来たるかを理会せんことを要せば、此くの若きの学は、徒に心力を費やすのみ。凡そ書を観るに相類を以て其の義に泥むべからず。爾らずんば、則ち字字相梗(ふさ)がる。当に其の文勢上下の意を観るべし、「充実せる之を美と謂ふ」の如き、詩の「美」と同じからず。問ふ、瑩中嘗て文中子を愛す、或るひと易を学ぶを問ふ。子曰く、「終日乾乾」にして可なりと。此の語最も尽くせり。文王の聖なる所以も、亦た只だ是れ箇の已まざるなり。
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『近思録』巻2 為学経義を求むるが如きは、皆栽培の意なり。昔周茂叔に受学せしとき、毎に顔子仲尼の楽しむ処、楽しむ所は何事なるかを尋ねしむ。見る所期する所は、遠く且つ大ならざるべからず、然れども之を行ふは亦た須らく力を量りて漸有るべし。志大にして心労し、力小にして任重ければ、恐らくは終に事を敗らん。朋友の講習は、更に「相観て善くす」の工夫の多きに如くは莫し。須らく是れ其の心を大にして、開闊ならしむべし。譬へば九層の台を為るが如し、須らく大いに脚を做して始めて得べし。明道先生曰く、舜の畎畝の中より発(おこ)り、百里奚の市より挙げらるるに至るまで、若し熟せんことを要せば、也た須らく這裏より過ぐべし。参や、竟に魯を以て之を得たり。明道先生記誦博識を以て「物を玩びて志を喪ふ」と為す。礼楽は只だ進反の間に在り、便ち性情の正を得。父子君臣は、天下の定理にして、天地の間に逃るる所無し。安んじて天分を得、私心有らざれば、則ち一不義を行ひ、一不辜を殺して、為さざる所有り。分毫の私有れば、便ち是れ王者の事ならず。性を論じて気を論ぜざれば、備はらず。気を論じて性を論ぜざれば、明らかならず。之を二つにすれば則ち是ならず。学を論ずれば便ち理を明らかにせんことを要し、治を論ずれば便ち須らく体を識るべし。曾点漆雕開は已に大意を見る、故に聖人之に与す。根本は須らく是れ先づ培壅すべし、然る後に趨向を立つべきなり。趨向既に正しければ、造る所の浅深は、則ち勉むると勉めざるとに由るなり。敬義夾持して、直ちに上りて天徳に達するは此よりす。懈意一たび生ずれば、便ち是れ自棄自暴なり。学ばざれば便ち老いて衰ふ。人の学の進まざるは、只だ是れ勇ならざればなり。学者の気に勝たれ、習に奪はるるは、只だ志を責むべし。内重ければ則ち以て外の軽きに勝つべく、得ること深ければ則ち以て誘ひの小なるを見るべし。董仲舒謂ふ、「其の義を正して、其の利を謀らず。其の道を明らかにして、其の功を計らず」と。孫思邈曰く、「胆は大ならんことを欲して心は小ならんことを欲し、智は円ならんことを欲して行ひは方ならんことを欲す」と。以て法と為すべし。
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『近思録』巻2 為学伊川先生方道輔に謂ひて曰く、聖人の道は、坦として大路の如し。学者は其の門を得ざるを病むのみ。其の門を得れば、遠くとして到らざる無きなり。其の門に入らんことを求むるは、経に由らざらんや。今の経を治むる者も亦た衆し。然り而して櫝を買ひて珠を還すの蔽、人人皆是れなり。経は道を載する所以なり。其の言辞を誦し、其の訓詁を解して、道に及ばざれば、乃ち無用の糟粕のみ。覬(こひねが)はくは足下経に由りて以て道を求め、之を勉め又勉めよ。異日卓爾として前に立つ有るを見て、然る後に手の舞ひ、足の踏むを知らず、勉めを加へずして自ら止むこと能はざらん。明道先生曰く、辞を修めて其の誠を立つとは、子細に理会せざるべからず。言ふこころは能く言辞を修省するは、便ち是れ誠を立てんことを要するなり。若し只だ是れ言辞を修飾するを心と為さば、只だ是れ偽と為るなり。若し其の言辞を修むること、正に己の誠意を立てんが為ならば、乃ち是れ自家の「敬以て内を直くし、義以て外を方にす」の実事を体当するなり。道の浩浩たる、何れの処にか手を下さん。惟だ誠を立ててこそ纔かに居るべきの処有り。居るべきの処有れば、則ち以て業を修むべきなり。「終日乾乾」は大小大の事なるも、却って只だ是れ忠信は徳に進む所以、実に手を下す処と為す。辞を修めて其の誠を立つるは、実に業を修むる処と為す。伊川先生曰く、道を志すこと懇切なるは、固より是れ誠意なり。若し迫切にして理に中らざれば、則ち反って不誠と為る。蓋し実理の中に自ら緩急有り、是の如きの迫を容れず。天地の化を観れば乃ち知るべし。孟子は才高し、之を学ぶも依拠すべき無し。学者は当に顔子を学ぶべし、聖人に入ること近しと為し、力を用ふるの処有り。又曰く、「学者学び得て錯らざらんことを要せば、須らく是れ顔子を学ぶべし」と。明道先生曰く、且く外事を省き、但だ善に明らかにし、惟だ誠心を進めよ。其の文章は中らずと雖も、遠からず。守る所約ならざれば、泛濫して功無し。学者仁体を識り得て、実に諸を己に有せば、只だ義理の栽培を要するのみ。
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