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近思録 / 巻2 為学

孟氏亦曰:「所惡於智者、爲其鑿也。」與其非外而是內、不若內外之兩忘也。兩忘則澄然無事矣。無事則定、定則明、明則尚何應物之爲累哉?聖人之喜、以物之當喜。聖人之怒、以物之當怒。是聖人之喜怒、不繫於心、而繫於物也。是則聖人豈不應於物哉?烏得以從外者爲非、而更求在內者爲是也?今以自私用智之喜怒、而視聖人喜怒之正爲如何哉?夫人之情易發而難制者、惟怒爲甚。第能於怒時遽忘其怒、而觀理之是非、亦可見外誘之不足惡、而於道亦思過半矣。伊川先生答朱長文書曰:聖賢之言不得已也。蓋有是言則是理明、無是言則天性之理有闕焉。如彼耒耜陶冶之器、一不制則生人之道有不足矣。聖賢之言、雖欲已得乎?然其包涵盡天下之理、亦甚約也。後之人始執卷則以文章爲先。平生所爲動多於聖人。然有之無所補、無之靡所闕、乃無用之贅言也。不止贅而已、既不得其要、則離真失正、反害於道必矣。來書所謂欲使後人見其不忘乎善、此乃世人之私心也。夫子疾沒世而名不稱焉者、疾沒身無善可稱云爾、非謂疾無名也。名者可以厲中人。君子所存、非所汲汲。內積忠信、所以進德也。擇言篤志、所以居業也。

新字:孟氏亦曰:「所悪於智者、為其鑿也。」与其非外而是内、不若内外之両忘也。両忘則澄然無事矣。無事則定、定則明、明則尚何応物之為累哉?聖人之喜、以物之当喜。聖人之怒、以物之当怒。是聖人之喜怒、不繋於心、而繋於物也。是則聖人豈不応於物哉?烏得以従外者為非、而更求在内者為是也?今以自私用智之喜怒、而視聖人喜怒之正為如何哉?夫人之情易発而難制者、惟怒為甚。第能於怒時遽忘其怒、而観理之是非、亦可見外誘之不足悪、而於道亦思過半矣。伊川先生答朱長文書曰:聖賢之言不得已也。蓋有是言則是理明、無是言則天性之理有闕焉。如彼耒耜陶冶之器、一不制則生人之道有不足矣。聖賢之言、雖欲已得乎?然其包涵尽天下之理、亦甚約也。後之人始執巻則以文章為先。平生所為動多於聖人。然有之無所補、無之靡所闕、乃無用之贅言也。不止贅而已、既不得其要、則離真失正、反害於道必矣。来書所謂欲使後人見其不忘乎善、此乃世人之私心也。夫子疾没世而名不称焉者、疾没身無善可称云爾、非謂疾無名也。名者可以厲中人。君子所存、非所汲汲。内積忠信、所以進徳也。択言篤志、所以居業也。

書き下し

孟氏も亦た曰く、「智を悪む所の者は、其の鑿つが為なり」と。其の外を非として内を是とせんよりは、内外の両(ふた)つながら忘るるに若かざるなり。両つながら忘るれば則ち澄然として事無し。事無ければ則ち定まり、定まれば則ち明らかなり、明らかなれば則ち尚ほ何ぞ物に応ずるを之れ累と為さんや。聖人の喜ぶは、物の当に喜ぶべきを以てなり。聖人の怒るは、物の当に怒るべきを以てなり。是れ聖人の喜怒は、心に繋らずして、物に繋るなり。是れ則ち聖人豈に物に応ぜざらんや。烏んぞ外に従ふ者を以て非と為して、更に内に在る者を求めて是と為すを得んや。今自私用智の喜怒を以てして、聖人の喜怒の正を視るに如何と為すや。夫れ人の情の発し易くして制し難き者は、惟だ怒りを甚だしと為す。第(ただ)能く怒る時に於て遽かに其の怒りを忘れて、理の是非を観れば、亦た外誘の悪むに足らざるを見るべくして、道に於ても亦た思ひ半ばに過ぎん。伊川先生朱長文に答ふる書に曰く、聖賢の言は已むを得ざるなり。蓋し是の言有れば則ち是の理明らかに、是の言無ければ則ち天性の理闕くる有り。彼の耒耜陶冶の器の如き、一つ制せざれば則ち生人の道足らざる有り。聖賢の言、已めんと欲すと雖も得んや。然れども其の包涵は天下の理を尽くして、亦た甚だ約なり。後の人始めて巻を執れば則ち文章を以て先と為す。平生為す所、動もすれば聖人より多し。然れども之有るも補ふ所無く、之無きも闕く所靡し、乃ち無用の贅言なり。止だ贅なるのみならず、既に其の要を得ざれば、則ち真を離れ正を失ひて、反って道を害すること必せり。来書に所謂後人をして其の善を忘れざるを見しめんと欲すとは、此れ乃ち世人の私心なり。夫子の世を没へて名の称せられざるを疾むとは、身を没ふるまで善の称すべき無きを疾むと云ふのみ、名無きを疾むを謂ふに非ざるなり。名は以て中人を厲ますべし。君子の存する所は、汲汲とする所に非ず。内に忠信を積むは、徳に進む所以なり。言を択び志を篤くするは、業に居る所以なり。

現代語訳

孟子もまた「知恵を嫌うのは、それが無理にこじつけるからである」と言っている。外を否定して内を肯定するよりは、内と外の両方を忘れるほうがよい。両方を忘れれば、澄みきって何事もない。何事もなければ定まり、定まれば明らかになる。明らかであれば、物に応じることがどうして煩いになろうか。聖人が喜ぶのは、物が喜ぶべきものだからである。聖人が怒るのは、物が怒るべきものだからである。つまり聖人の喜怒は、自分の心に結びついているのではなく、物に結びついているのである。そうであれば、聖人がどうして物に応じないことがあろうか。どうして外に従うことを誤りとし、改めて内にあるものを求めてそれを正しいとすることができようか。いま自分本位と小賢しい知恵による喜怒をもって、聖人の喜怒の正しさと比べたら、どうであろうか。そもそも人の情のうちで、発しやすく抑えにくいのは、怒りが最もはなはだしい。ただ怒ったときに、すぐにその怒りを忘れて、道理の是非を見ることができれば、外からの誘惑も嫌うには足りないことが分かり、道についても半ば以上は理解したことになろう。程頤(伊川先生)は朱長文(北宋の学者)に答えた手紙で言う。聖人や賢人の言葉は、やむにやまれず出たものである。思うに、その言葉があればその理が明らかになり、その言葉がなければ天性の理に欠けるところが出る。すきやくわ、陶器や鋳物の道具のように、一つでも作られなければ人が生きる道に不足が生じる。聖賢の言葉は、やめようとしてもやめられようか。しかもその言葉は天下の理をすべて包みこみながら、きわめて簡潔である。後の人は書物を手に取り始めるとすぐに文章を第一とする。生涯に書くものは、ともすれば聖人よりも多い。しかしそれはあっても補うところがなく、なくても欠けるところがない、無用の余計な言葉である。余計であるばかりでなく、要点をつかんでいないのだから、真実から離れ正しさを失い、かえって道を損なうのは必然である。来信にいう、後の人に自分が善を忘れなかったことを示したいというのは、世間の人の私心である。孔子が、世を終えるまで名が称えられないことを憂えたというのは、生涯に称えるべき善がないことを憂えたということであって、名がないことを憂えたのではない。名声は並の人を励ますことはできる。しかし君子が心にとどめているのは、名声をあくせく求めることではない。内に忠と信を積むことは徳を進める手立てであり、言葉を選び志を篤くすることは事業に身を置く手立てである。

解説

前半は程顥の「定性書」の後半である。内を是とし外を非とするより内外を両忘せよと説き、聖人の喜怒は心ではなく物に係るとする。怒りの瞬間にそれを忘れて理の是非を見られれば道の半ばを得たに等しいという一句は、感情の制御の要として後世よく引かれた。後半は程頤が朱長文に宛てた書簡で、聖賢の言葉はやむをえず出たもので簡潔だが、後人は文章を先にして無用の贅言を重ね、かえって道を害すると戒める。名を残したいという願いも私心として退ける。報告書や企画書が増えるばかりで中身が伴わないことは、今の職場でもよくある。自分の怒りに理があるかを一呼吸おいて確かめること、書く前に本当に必要な言葉かを問うことは、どちらも日々の仕事に生かせる。

この章句が説くこと

両忘喜怒怒り贅言名声

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