近思録 / 巻1 道体
明道先生曰:天地生物、各無不足之理。常思天下君臣父子兄弟夫婦有多少不盡分處。
新字:明道先生曰:天地生物、各無不足之理。常思天下君臣父子兄弟夫婦有多少不尽分処。
書き下し
明道先生曰く、天地の物を生ずる、各々足らざるの理無し。常に思う、天下の君臣・父子・兄弟・夫婦に、多少か分を尽くさざる処有るを。
現代語訳
程顥先生が言う。天地が物を生むにあたって、それぞれに足りないという理はない。いつも思うのだが、世の君臣・父子・兄弟・夫婦のあいだには、どれほど本分を尽くしきれていないところがあることか。
解説
生まれつきの欠けはない、と言い切ったうえで、では何が問題なのかを示す。足りないのは天が与えたものではなく、与えられたものを尽くしていないことのほうだ、と。関係を四つ挙げているのが具体的である。君臣・父子・兄弟・夫婦——どれも相手のある関係で、そこに尽くしきれていない分がある。素質のせいにする言い訳を封じたうえで、日々の関係に目を向けさせる一条である。二程の言葉は短いものが多いが、短いほど詰まっている。
この章句が説くこと
各々足らざるの理無し分を尽くす天地生物二程
関連する章句
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